第6話 彼の全てを汚しきってしまう前に

「私、離婚したいっていう気持ちが強くなった」

「なんでだよ!? こっちが下手に出てれば調子に乗って……」

「可愛くないよね、私。なら離婚しましょう」

「いやだ、絶対離婚なんかしない」

「……そう。それならお願いがあるの」

 不機嫌そうに眉根を寄せた夫に、こんなに言い返せるようになったのは、どうしてだろうかと考えて、ふと彼のことが頭をよぎった。

 人は誰かに求められると、強くなるのかもしれない。

「ある製薬会社が、浮気を治す薬を開発中なの。その治験に参加してほしい」

「浮気を治す……薬? それの治験って……。何なんだよ、それ、めちゃくちゃ危なそうじゃないか。この俺に人体実験なんてあり得ないだろ」

「嫌なら離婚して」

「どっちも嫌だ。お断りだ!」

 夫はかんしゃくを起こした子供みたいにわめいて、キッチンに戻ると、冷蔵庫の中で冷たくなったロールキャベツをやけ食いしだした。温め直せばいいのに、と思いながら、私は自室に引っ込んだ。



 それきり夫とは冷戦状態が続いている。たまに気遣いのつもりかコンビニのスイーツを買ってくるけれど、私は太りたくないからと言って断る。すると、夫はむくれて、家を出ていく。

 寒々しい家庭。きっと私が悪いのだろう。自責の念が心いっぱいに広がっていく。夫は夫なりに歩み寄ろうとしているのに、それを突っぱねている私は心が狭くて意地悪だ。

 私は醜い。夫といると、私はどんどん醜くなっていくような気がした。




 その日の午前も、私は市民プールを訪れていた。

 もうダイエットはしなくて良いから、以前のように熱心に通うこともないが、彼もいるし、気晴らしに泳ぐのは楽しかった。


 水着に着替えて更衣室を出ると、プールサイドにいる彼は、ちょうど若い女の子と話しているところだった。彼女は首にIDカードをさげている。同じプールスタッフのようだ。

 仕事の邪魔するのも気がひけて、私はひとまずプールのはじにあるジャグジーに向かった。泳いで冷えた体を温めるためにつくられたジャグジーには熱いお湯がはられており、いつもお年寄りのたまり場になっていた。これまで利用したことがなかったけれど、今日はなんとなく人の輪に入ってみたい気持ちだった。


 彼の方に背を向ける形でジャグジーに入り、周囲のお年寄りに会釈した。私だけじゃなく、ジャグジーに入る人はみな最初に会釈している。ここはそういう独自の文化が形成されているようだ。お湯は結構熱かった。まるでプール内で営業している銭湯だ。隣にいたおばあさんと、今日は風が強いですねなどと雑談をかわしていたら、

「は? くそウザイんだけど」という男の声がした。

 この声は……。そっと振り返ってみて、驚いた。彼が女の子とともにしゃべりながら、すぐ近くを歩いていたのだ。

 これが彼の言葉なの? いつもの優しい口調と全然違う……。私の前では行儀のいい男の子の演技をしていたのだろうか。胸がきゅっと痛んだ。

「だよね。私もすごいムカついたもん。すれ違いざまにお尻を触ってくることもあるんだよ!」

 女の子が、早口でまくしたてた。

「出禁でいいよ、そのジジイ。っていうか通報してもいいんじゃないの」

「それがダメなんだって。あのクソジジイは部長の親戚だから」

 舌打ちが聞こえた気がした。

「あーあ、気分悪いな。気分変えるために相田あいださんに会ってこようっと」

 自分の名前を呼ばれてどきりとした。二人は足をとめ、一般プールのほうを向いた。

「相田さん、今日は来てないか」

 彼がほかの女の子と一緒にいるときも私を探してくれているのが、自分でもびっくりするぐらい嬉しかった。

「あのさあ、幸希こうきくんさ……」

 女の子はちらりとジャグジーのほうを振り返った。一瞬私と目が合ったような気がして思わず瞬きしたが、次の瞬間にはもうプールのほうを向いていた。

「私、恋愛は自由だとは思うんだよ。でも、あの人、既婚者なんでしょ?」

 彼は何も言わなかった。

「かなり噂になってるよ。私たち、そろそろ就活とかインターンとかも考えないといけないわけじゃん。マイナスになるようなことはやめておいたほうが……あ、待ってよ」

 女の子をその場に残し、足早に立ち去る彼の背中を遠くから見つめながら、さきほど心にぐさりと刺さった言葉が、じわじわと私の心を冷やしていくのを感じていた。

「マイナスになるようなこと」

 小さく呟いてみて、そのとおりだと思った。私との関係は、彼にとってマイナスでしかない。私は彼に甘えてばかりで、そのお返しにあげられるのは不倫という不名誉な肩書きだけなのだ。

 離婚もせず、かといって夫と和解もせず、彼と会い続けている身勝手な私。自分は不幸でもいい、自業自得だから。でも、彼まで巻き込んではいけない。彼には未来があるんだから。そんなことにやっと気づいた。冷水を頭からかけられて目が覚めたかのようだった。

 彼と会うのをやめよう。

 一線を越えていないのは良かった。彼のために、良かった。彼の青春の全てを汚してしまうことなく、一部分だけでも綺麗なままに残せたのはよかった。

 こんなふうに思うのは、私のエゴに過ぎないのかもしれないけれど。




 家に戻ると、なぜか玄関の鍵があいていた。

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