第5話 別れたい

「治験、ですか」

 治験とは、人間を使って薬の効果や安全性を調べることを言う。つまり、まだ試験段階ということなのだ。

「夫に害はないのでしょうか。重大な副作用とか……」

 一番気になることをまっさきに尋ねた。

「それは、否定はできません。それでも構わないという覚悟を決めた方だけに治験をお願いしたいと思っています」

「そう、ですか……」

 ふくらんでいた希望の泡がぱちんと弾けたような気持ちだった。浮気が治ればどんなにいいか。でも夫を危険な目に遭わせるわけにはいかない。

「どのようなリスクが想定されるか、一応ご説明しますね。一番考えられるのは、人格の変化です。つまり人が変わってしまう。浮気しない夫になるのではなくて、別人のような性格になる可能性があります。また、骨がもろくなったり、腎臓を悪くしたり、神経が麻痺して寝たきりになってしまうリスクもゼロではありません」

 そうなったとしても愛せるのか、と問われている気がした。

「それは……あの、今すぐにはお返事できません」

 そうでしょうと三人は頷いた。

「夫に相談してみます」

 そう伝えると、彼らの顔がくもった。

「ご主人には無断で処置するほうがスムーズなのですが」

「多分、話がこじれますよ」

 でも、と私が言うより先に、セーターの男が声をあげた。

「いや、重要なことですからね。夫婦で合意できるのならば、そのほうが良いですよ。決して後悔のない決断をなさってください」



 その日、夜8時過ぎに帰宅したが、夫はまだ帰っていなかった。

 女のところに行っているのだろうか。

 もやもやした気分のままエプロンをつけ、夕食の支度を始めた。今夜はロールキャベツだ。安い鶏むね肉をミンチにして使っているから、少しだけ固いけれど、味は良いはず。

 

 ロールキャベツを包み終わり、鍋に並べていたとき、スマホに彼からメッセージが届いた。

「相田さんに会いたいです」

 私も、という気持ちを文字にしてしまっていいのかどうか。迷っていたら、さらに届いた。

「これから会えませんか」

「ごめんなさい。今夜は、2カ月間のダイエットの報告をしなきゃいけない日だから」

 すぐに返信が来た。

「そんなの無視してよくないですか。やる必要のないダイエットをさせるなんて、ひどいですよ」

 それはそうなのだが……。

「今夜は僕のところに来ませんか」

 行けたら、どんなにいいだろう。


 ロールキャベツがすっかり冷めて、日付も変わろうかという頃、夫が上機嫌で帰ってきた。その笑顔に潜む悪意に気づかないわけがない。これは偽りの上機嫌だとすぐわかった。

「おい、約束の日はきょうだったろ。ちゃんと10キロ痩せたんだろうな」

 早速来た。

「それは……」

 口ごもる私の足下に、夫はかばんをたたきつけた。

「何キロ痩せたんだって聞いてんだよ」

「な、7キロ……」

 夫は大げさに溜息をつくと、リビングのソファにだらしなく倒れ込んだ。

「俺がこんなに大変な思いをして働いているのに、おまえときたらブクブクブクブク太りやがって。その上、約束まで破るのか」

「で、でも、40キロ台にはなれたよ」

「そういうことじゃねえんだよ!」

「ごめんなさい……」

 うなだれる私に、夫は指を2本つきつけた。

「2万な」

 来月からは2万円でやりくりしろというのだ。できるだろうか、いや、やらなければならない。離婚されないためにも、頑張らなくては。


 そのとき、夫が立ち上がり、玄関に向かって歩き出した。

「どこにいくの」

「デブおばさんと一緒にいる気にならない。彼女のところに行くわ。彼女のほうがおまえの何倍も綺麗だし」

「待って、行かないで」

 夫は私の手を振り払った。まるで汚い物でも払うかのように。

「俺たち、もう別れた方がいいのかもな」

「そんな……私、離婚したくないよ」

「離婚したらおまえは生きていけないもんな」

 そのときの夫の顔を、生涯忘れることはないだろう。

 夫は笑っていた。

 醜くて無力な芋虫をむごたらしくちぎって捨てる子供のような残酷な笑みだった。それでいて、妻がすがりついてきて捨てないでと懇願することを信じて疑わない愚鈍な目つきをしていた。

 私が泣き崩れるのを今か今かと待っているその顔が、もう生理的に無理と思ってしまった。

 私のストレスは、容器のふちぎりぎりまで溜まっていて、その限界ラインを超える最後の一滴が、この顔だった。

「わかった。別れましょう」

 気づいたときには、そう口にしていた。

「……は?」

 夫がショックを受けた顔で振り返った。

「もう私たち無理なんだってわかった。だから、別れましょう」

「な、何だよ、それ……。俺と別れたら、おまえは生きていけないだろ。まともに働けないくせに」

「そうだね」

 別れて、ひとりになった私は、どこかでのたれ死ぬのだろう。もうそれでもいいやという気分だった。

「私疲れちゃった。もう何もかもどうでもよくなっちゃった」

「おい、落ち着けよ」

「それは私のせりふだよ。なんでそんなに慌ててるの」

「いや、だって、おまえが別れるなんて言うから」

「え、だって別れてほしいんじゃないの?」

「別にそうは言ってないだろ」

「何それ……、私みたいなデブといたくないんじゃなかったの。可愛い彼女のところに行けばいいじゃない。それとも彼女をここに呼ぶ? 私、お邪魔だろうから出ていくね」

「待てよ、ヒステリー起こすなって、ああ、もう!」

 夫は私の腕をとった。

「ごめんごめん、俺が悪かった。降参だから、な? 機嫌なおせよ」

 へらっと笑った夫の顔を、冷たく見返した。

「彼女はたしかに美人だよ。それは認める。おまえなんか逆立ちしたってかなわない。でも、家事は全然できないし、金遣いも荒いし、一緒に暮らす相手としてはイマイチでさ」

 ひょっとすると、夫はこう言うことで私が喜ぶとでも思っているのだろうか? もしかしてものすごく頭が悪いのだろうか。

「だから、安心しろ。おまえと別れたりしないから」

 結婚前には気づかなかったが、どうやら夫はバカのようだった。妻を家政婦だとしか思っていないと言っているのも同然なのに。

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