EVOLBER
風戸輝斗
第1話 祝福の日
――祝福。
幸福を謳うその言葉が仮に目に見える形となったのならば、それはきっと、たった今目の前に広がった光景のようになるのだろう。
「きれい……」
少年と手をつなぐ少女が足を止めてつぶやいた。
ふたりは兄弟だった。
黒髪短髪の少年――ツキクサは七歳。黒髪挑発の少女――キノカは五歳。
ツキクサの片手はキノカの手で、もう片方の手は手提げ袋で塞がっていた。
買い物からの帰り道でのことだった。
日中だというのに、快晴の空には数多の星々が望めた。一面の青に斑目模様となって存在する白が、ひとつ、またひとつと地上に降り注ぐ。雪のように、ひらりひらりと降り落ちる。
光の粒がツキクサの頬に触れた。しかし濡れた気配はなく、どうやらそれは水分を含んでいないようだった。
冷たくも熱くもなく、かといって痛みや痒みを催したわけでもない。光の溶けた頬を手のひらでそっと撫でるが、そこには普段と変わらない肌触りがあるだけだった。
青空から零れ落ちる滂沱たる光の粒が、緩慢と地上に吸い寄せられていく。
現実のものとは思えない幻想的な光景に、ツキクサは一割の戸惑いと九割の興奮を覚えた。絶景に視線と意識を鷲掴みにされていた。彼の七年間の生涯において、この瞬間に勝るほどの絶美たる風景は存在しなかった。一割の戸惑いは、瞬く間に興奮へと塗り替わった。
「あ、こっちきたっ! こっちきたっ!」
ぴょんぴょんと飛び跳ねるキノカの周囲を、複雑な軌道を描いて光の粒が旋回していた。まるで意思を持っているかのような動きだ。
えいっと声を上げて、キノカは光の粒を両手で捕まえる。手中に収まった瞬間を、ツキクサは確かに見た。
「あれ?」
ところが、キノカが手を開くとそこにはなにもなかった。
キノカは首を傾げる。
「おかしいなぁ。捕まえたはずなんだけど」
「捕まえてどうするつもりだったんだ?」
「食べるっ!」
満面の笑みで即答した。
ツキクサは苦笑し、捕まえられなくてよかったなと、心の中で安堵した。
好奇心が旺盛すぎるのも考えものだ。
喧騒が鼓膜を突いてやまない。
周囲の人も、陶然とした面持ちで空を見上げていた。
「にしても……」
しかしなんだろうこれは。天災地変の類だろうか。
考えたところで、まだ幼い自分に結論を導くことなどできまい。
ツキクサは十秒と経たずして、難しいことを考えるのをやめた。
「帰ろうキノカ。お腹空いてるだろ」
時刻は間もなく正午を回ろうとしていた。
「うんっ。もうぺっこぺこだよぉ~。兄様、今日のお昼ご飯は――」
――べとっ。
路上にクレープが落ちたような音だった。
音の発生源を見やると、黒い水溜まりのようなものがあった。
続けて視線を上に向けると、キノカが青ざめた顔をしていた。
――片腕がなくなっていた。
陽の光を吸い込んで光沢を放つ黒髪が、陽の光を照り返して光沢を放つ銀髪になっていた。
「え?」
ツキクサが困惑を露わにすると同時に、残されたキノカの片腕がてかてかと黒光りするジェル状の物体へと変化した。
バルーンアートに用いられる横に細く、縦に長い風船のように。
重力に耐えきれなくなったのか、それは地面に滴り落ちた。
弾けて黒い水溜まりとなった。
「……兄様、これはいったい」
怪現象は止まらない。
キノカの右脚が玩具染みた異形に変化し瞬く間に地面に溶け落ちた。
片足を失い体勢を崩して倒れるよりも早く、左足が飛沫を上げて爆散した。
片足に全体重がかかったためだろう。
四肢を失ったキノカが、バチンっと痛そうな音を立てて腰を地面にぶつける。
顔から落ちなかっただけ救いと見るべきか。あどけない顔は苦痛に歪んでいた。
するとまもなく、フライパンの上でバターが溶けるかのように残された身体が黒い液体に変貌しはじめた。
――瞬く間に下半身が消失した。
「たす、けて……兄様……」
瞳いっぱいに涙を溜めて、キノカが救いを求めてくる。
「……なんだよこれ」
周囲を見やる。
倒れている人がいる。泣き声を上げる人がいる。
されども、光の粒は降り注ぐ。一転して街が絶望に染まる中でも、変わらず希望を連想させる眩い輝きが街を包み込んでいる。
歓喜の声を上げる人間は、もはやひとりもいなかった。
「なんなんだよこれはっ!」
キノカの身体であった黒い液体を掬い上げる。
粘り気を持つ液体だった。わかったのはそれだけだ。
なぜキノカの身体が突然液体化したのか、まるでわからない。
少なくともツキクサの周囲の人は、誰ひとりとしてキノカのように不可思議な現象に襲われていなかった。
「兄、様……」
掠れた声の先を見やれば、既にキノカの胴体は消失していた。
堪らず、ツキクサは残された頭部を抱き抱える。液体化は止まらない。頭部も徐々にぬめりを帯びた黒い液体になっていく。
「キノカ! キノカ!」
叫ぶことしかできない。
妹が消滅しかけているというのに、自分にできるのは叫ぶことだけ。
己の無力さを恨み嘆いていると、ふとツキクサの胸中に恐怖がもたげた。
(キノカがいなくなる?)
ツキクサにとって、キノカは唯一の家族だった。
なににも代えがたい大切な存在だった。
その妹が、突然自分の元から離れようとしている。この世から去ろうとしている。
遅れながらに事態の深刻さを理解し、ぞぞっと全身が粟立つ。
「キノカ! キノカ!」
目頭が熱を帯び、視界がぼやける。
しかし奇蹟は起きない。キノカの消失の瞬間は、無情にも刻一刻と迫りくる。
溶解という目に見える形となり、ツキクサに現実を突きつけてくる。
「……ふざけんなよ。なんで……なんでキノカなんだよ。殺すなら俺にしろよっ!」
「それはだめだよ」
雑踏に呑まれたらすぐに消えてしまいそうな、元気旺盛なキノカらしくない小さな声だった。
「兄様は幸せになるの。だからわたしでよかったんだよ」
キノカの頭部は、もう左半分しか残されていない。
それでもキノカは微笑んでいた。
目尻に涙の残滓を輝かせながら微笑んでいた。
「なに言ってんだよ! こんな最期で悔いはないのか!? ……昼ご飯が、まだじゃないか。あんなに……あんなに、楽しみにしてたじゃないか……」
いっしょにポトフを作ろうとしていた。
正確にはポトフと呼べない代物かもしれない。コンソメスープの中に好きな具材を入れる。それくらいなら、まだ幼いふたりでも簡単にできた。
「それはちょっと名残り惜しいかもだなぁ」
蚊の鳴くような声だった。
頭部はもう、ほとんど残されていない。
「早く帰って、昼ご飯食べようよ。キノカがいなきゃ、おいしくご飯食べられないよ……」
瞳から溢れた涙が、キノカの頬を優しく濡らす。
キノカの瞳が細められた。
「これまでもこれからも、大好きだよ兄様」
その言葉を最後に、キノカの身体は余すことなく黒い液体となった。
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