第一章 遭逢

 十年前のある冬の日、僕は病室のベッドで、横になっていた。左腕は点滴で冷たく、機械は一定のリズムで音を打っていた。そのリズムが崩れたかと思えば、医者がドアをノックした音だった。


 医者は定期診察でやってきては毎日のように言うのだった。

 「藍原あいはらさん、食事を摂るのは辛いと思うけど、しっかりと食べないと癌に負けてしまいますよ」

 いつも同じことだった。それはおそらく僕の残食率が九十五パーセントをゆうに越えていたからだっただろう。けれどもこれに対する僕の返答は、いつも同じだった。

 「いいんですよ、どうせ死ぬんですし。せめて最後くらい、つらい思いさせないでください」


 僕の癌は、ステージ四だった。癌のステージの中でも、最上級。もはや末期がんと呼ばれるくらいである。

 人というのは、諦めが付くと何もしたくなくなる、しなくなるというのを僕は自分自身の体験で知った。小説何かでは、こういった時に奇跡が起きて克服するのだろうけど、これはリアルであり、起こるわけもなかった。


 それでも医者は、毎日虚言で励ました。

 「藍原さん、そうやって希望を捨てないでください。大丈夫ですよ、」僕は思わず苛立って、

「じゃあなんとかなるって言いますけど、どうやって? そういう確証あるんですか? 中途半端に励ましたりするのとかもううんざりなんで、やめにしてください」医者の目も見ずに小さく、でも多分強く言っていた。ゆえにそれ以上、医者は何も言ってこなかった。


 「もうこうやってベッドで過ごしているのも嫌になりました。最後くらい、自由にさせてくれませんか?」

 僕はそんな医者に嘆くように言った。ずっと目をやっていた窓の外の桜は、やはり綺麗に咲いていた。外の陽が、これまた気持ち良かった。


 少しの間があって、医者が口を開いたかと思うと、まさか意外な返答をした。

 「......いいでしょう。それで藍原さんの気が晴れるのであれば、私に止める権利はありません。看護師に点滴を外させますから、少し待っていてください」

 予想外だった。彼がそんなことを言うとは本当に思いもよらなかった。ついに見捨てられたのだろうかとも思った。だがまあ良い、最後くらい、好きに遊んでやろう。

 直に看護師がやってきて、点滴を外してくれた。針が抜かれた瞬間、自由になれた感覚だった。しかし点滴無しで立ち上がってみようとすると、足の肉が完全に削ぎ落ちていて、立てなかった。仕方がないから、点滴のつかみだけ、点滴もないのに受け取った。看護師は僕に、夕食前には必ずベッドに戻ること、病院の敷地外へは出ないことを言った。ベッドを抜け出せるのなら、全然それで良かった。


 病室を抜けると、長い廊下やキッズスペースなど様々な目新しいものが見えた。普通の人から見れば、何の面白みもないものに見えるのだろう。けれども僕にとっては、それらは充分過ぎる代物だった。それらはあまりに新鮮に、そこに佇んでいた。

 おぼつかない足取りで廊下を抜け、この病院独自である図書室、というよりかは図書コーナー、という所へ行ってみようと思った。図書コーナーは一階の中央、受付付近にある。せっかく入学できた文学部で何もできなかった分、いま少しでも本を読んでやろう、そう思ったのである。やっとの思いで着いたエレベーターホールで、エレベーターを待った。ピンポーン、という音とともに、エレベーターの扉が開いた。ここから先は、半年ぶりの世界だ。


 エレベーターに乗る。その鉄箱は、ドアが閉まると同時に急降下を始める。踵が立って、自分の肉体が上へと持ち上げられたような気がして驚く。そしてブレーキが掛かる。 少し酔った。きっと、久しぶりだからだ。

 一階につくと、見慣れない患者や窓の外に見える街など、刺激的なものが兎にも角にも溢れていた。とりあえずと思い図書コーナーへと向かった。大きなコンクリート柱の下に、円のように広がって、棚がある。僕は日本文学のコーナーへ向かう。

 とりあえず芥川龍之介でも読むかと、適当に見つけた「河童かっぱ」を読むことにした。近くの椅子に腰をかけ、本を開いた。実に新鮮な気持ちだった。また、不思議な気持ちがそこにはあった。


 ――しかし僕が本を開いた次の瞬間だった。後ろから声がしたのだ。生意気なような、でも可愛らしい、そんな声が。

「これは或精神病院の患者、――第二十三号が誰にでもしやべる話である」

 突然だった。急に後ろから――それも聞き慣れたこともない初めての声だったので――あまりに驚いて、短い寿命が少し縮まったような気がした。思わず後ろを振り向くと、見たことのない、けれども少し華奢な、明るい少女、といっても僕と同い年くらいの女性が立っていた。僕の気持ちの収拾がつかないということにも関わらず、それから彼女は口を開いた。

「驚いたでしょう?」


 彼女はニヤリと笑うと、白い歯を僕に見せた。僕には到底、いじらしく、悪魔的に笑う彼女が、病院にいる人間だとは思えなかった。しばらく動揺していた。しかし、ずっと無言であるのは良くないと思い、何か言わないと、と

「やめてくれないかい? 僕はもうすぐ死ぬ人間なんだ。少しでも寿命を削るような行為を、僕の前でしないでほしい」と、正直に思ったことをずけずけと言った。相手が初対面の人間であるということを忘れて。すると彼女は少し膨れて、

「全く、初対面の人にそんな言い方はないでしょう」と言った。

「君も、初対面の人が読もうとしている小説の一文目を読むとは、随分気が違ってると思うけどね」とそれから僕は挑発するようにからかった。けれども彼女にそれは逆効果で、

 「君、面白い話し方するね。まさか、ライ麦畑でつかまえて、の男の子のまねでもしてるんじゃないでしょうね?」と、気にせずすぐに会話を続けようとした。彼女の発話はまるでプロの卓球でのパスみたいに、止まらなかった。

 「ライ麦を知っているなんて、君は文学少女か何かなのかな? まあいいや、とにかく僕の読書の邪魔をしないでくれ」僕はそんな彼女をなんとか止めようとして、ストップをかけた。けれども彼女は、強引に話を続けようとした。


 「いいじゃーん、一緒に話そうよ〜。私ずっと病室に閉じ込められてて今とっても高揚した気分なんだよ〜」

 「病室に」という言葉を、僕は逃さなかった。もしかしたら、眼の前にいる気が違った女性は、病気を患っているのかもしれない、そう思ったからである。もし万が一そうならば、僕もそこまで強く言うことはできない、そう感じた。

 「――失礼だけど、君は何か病気でも抱えているの?」少しの間をおいて、僕は弱々しく言った。すると彼女はすぐに、

 「やっと喋った〜怒っちゃったのかと思ったよ。うん、そうだよ、私、肺がんなの。ごめん、我慢してたんだけどもういいかな」と少し声を下げて言って、それからひどく咳き込んだ。


 ――嫌な音だった。まるで何かが壊れるような、そんな咳だった。咳は僕の耳を、痛いほどに叩いた。僕はその時、初めて眼の前にいる女性が「病気なんだ」ということを実感できた。しかしなぜあんなにも明るいのか、やはり気が違っているのではないかとも同時に思うのだった。

 僕の逡巡とは裏腹に、彼女は咳き込むと言った。

 「で、君も何か病気もってるんでしょう? 何なの? 言ってみなよ。私しか聞いてないんだからさ〜」まるで彼女は学生の、好きな人を尋ねるような調子で僕の病気を訪ねてきた。しかしこれは隠す必要もないことだし、彼女に言ったところでどうにかなる話でもない。別にいいやと思って、僕は眼の前の『今さっき出会った女性』に自身の病気を言った。


 「僕は胃癌さ。もうステージ四でね。治りそうにもないんだ。でも不思議なもので、意外とこれが動いていられるんだよ」僕は彼女に、別に心配されることもないだろうが、気を悪くさせないために自然に言った。すると彼女は、

 『奇遇だね! 私と同じ「癌」なんて。それにステージまで同じなんてね〜』と愉快に言った。「ステージまで」という言葉には流石に驚いた。ステージ四の肺がん患者――それが彼女だった。肺がんは、胃がんなんかよりもっと辛いはずだ。しかし彼女はあっけらかんと、それもさっきからずっと立ちっぱでいられている。頭の中に疑問符が浮かぶ。もう気を使う必要もないかと思って、僕は思い切って聞いてみた。

 「確認なんだけど君はステージ四の肺がんなんだよね? なんでそんなに平気でいられるのさ」意外と簡単に聞けた。すると彼女は笑って答えた。


 「それは秘密だよ。さすがに、言うわけにも行かないからな〜。でも、君がステージ四の胃がんで動けているのと、同じようなものなんじゃない?」答えた、というよりかは、はぐらかされた、に近い。けれどもそれが彼女にとって重大なことであるなら、部外者である僕が入り込むわけには行かなかった。僕が何も言えずにいたからか、彼女は焦ったように話題を変えた。

 「まあいいよ、気にしないで! それより君は名前なんて言うの? せっかくの共通点を持った仲間同士、仲良くしようよ〜」彼女は本当に僕が初対面の人間であるということを知っているのだろうか。しかし、まあもう長くない命だし、僅かな間の友達ができたとでも思ったら、そんなに悪い話じゃなかった。


 「僕は藍原言葉ことはだ。名前が少し変わっているのはあまり気にしないでほしい。両親が編集者でね。あと、何を言えばいいかな。強いて言うなら大学一年生、とかぐらいかな」僕は長年自己紹介なんてしていなかったから、言うことが見当たらず、かなり焦った。けれども彼女はまた笑って、

 「また共通点だね。私も大学一年生! お互い一年生で初々しいのに、残念だね〜。まあ仕方ない。切り替えよう!」そして、ずっと一人で、笑って、盛り上がっていた。

 「私は赤音水葉あかねみずは。よろしくね」と彼女は次には右手を差し出していた。左の手は口元に当てて、咳込みながら。僕はわざとらしく、左手で胃の辺りを苦しそうに抑えながら、右手を差し出した。そして言った。

 「こちらこそ」彼女はそれに笑いながらも満足したみたいだった。


 「私達、まるでパートナーみたいだね!」僕は何も反応することができなかったけれど、彼女も別にそれでいいみたいだった。気づけば彼女は、自分用の椅子と本を持ってきていて、僕の隣でそれを読み始めていた。彼女はずっと「ライ麦畑でつかまえて」を読んでいた。時々、また苦しく咳込みながら。


 夕陽が頬を照らしたと感じた時、気づけばもう午後四時になっていた。僕はそろそろ病室に帰ったほうがいいだろうと思った。そして、いつの間に読んでいた「芥川龍之介全集」を棚に戻して、彼女に言った。

 「君、僕はもう帰るよ」するとすぐに、

 「え〜、もう帰っちゃうの〜?」彼女は小学生、というかもはや幼稚園児であるかのように見苦しく駄々をこねた。彼女の肺がんは知性までも退化させてしまったのだろうか、と少し頭の中で小馬鹿にした。


 「残念だけれど、僕はもう行かなきゃならないんだ。君には悪いけど」

 「まあいいよ、今日はありがとう。また明日ね」彼女はそれからそう言った。

 「また明日?」と僕は思わず聞き返した。

 「まあ、明日があるかはわからないけどね」彼女は僕の質問の意図に対してかなりひねくれて返答した。

 「そんな悲しいこと聞いたわけじゃないよ。僕がいつ明日君と合うって言ったのさ」僕の発話に彼女は、心底驚いたのかはじめだけ大きく、

 「ねえ、私達友達なのよ!? お互い短い時間なんだから一緒に毎日過ごしてみようよ〜。きっと一人でいるより楽しいよう」と後半はまた駄々っ子のように言った。


 「まあ君がそれでいいなら僕もそれでいい」僕はなるべく自然に返事した。

 「じゃあ明日またこの場所でね、午後一時、忘れるんじゃないよ。忘れたら許さないからね!」彼女はそしてゆらりとした口調で言った。

 僕はそんな彼女を一瞥すると、またおぼつかない足取りで点滴のつかみを支えに歩き始めた。後ろに視線を感じて、エレベーター手前で振り返った。するとそこには手を降っている彼女がいた。まるで恋人みたいで馬鹿らしかった。だけれどその純粋さを、僕は受け止めてやらなければならないと感じた。僕は恥ずかしながらに小さく手を降った。遠くには、飛び跳ねてはまた咳き込む彼女の姿が見えた。何だかとても、小さかった。

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