5-2

 しばらく沈黙のままに歩いていたけれど、先にそれを破ったのは高杉君だった。


「昨日は無理させて悪かったな」


 何のことだか分からず首を傾げていると、彼は橋の上で立ち止まって川を眺めた。

 朝日に照らされた水面はキラキラと宝石のように輝いていて、それを見ている彼の横顔まで爽やかに感じる。


「封印呪文のことだ。お前にも前世の記憶が宿っていると思っていたが、ガヴォットにそれが反応したんだろ?」

「えっ、あ、うん。多分」


 危ない、見惚れてる場合じゃなかった。

 あれは本当に思いつきだ。ガヴォットはよく弾いていたのに、あんな体験は初めてだった。


 あの時に脳裏へ流れてきた映像は、前世の私が見てきたものだろう。高杉君みたいな人もいたし、全然知らない人もいたけれど、あれは前世のブリッランテの人たちだ。皆が優しい目をしていて、前世の私は彼らと深く友好的だったのだとそれだけでよく分かる。

 その後の呪文が判明した時の場面は何だったのか。辺りは暗闇に包まれて、皆必死に何かを叫んでいた。音として聞こえたのは封印呪文だけで、どんな状況下だったのかまでは不明だ。


 高杉君にもあの場面の記憶はあるのかな。でも何となくあまり良くない雰囲気だったから、安直に聞いてはいけない気がした。


「だが、よく引き出してくれた。これで五音衆の残りが現れても、封印できればなんとかなるだろう」

「わっ私こそ御礼を言わなきゃだよ、高杉君が私を追い込んでくれたからだと思う」


 高杉君のあの強引さは、きっとわざとだ。彼は前世の私が応えてくれると確信するほど、彼女のことを今でも敬っている。

 それほど前世の彼らには深い信頼関係があったということだ。そうでなければ幼い頃から記憶が戻ったとしても、ブリッランテのために自分を犠牲になどできるはずがない。彼らはの意志に応えるためだけに、幾多の試練を乗り越えてきたのだから。


 前世の私、国守護楽団の総長・和泉。……どんな人だったのだろう。

 彼女みたいに私もなれるのかな。


「で、お前の話は?」


 うぐ。しまった、そのために合奏をサボっているのをすっかり忘れていた。

 高杉君も荒井君も、私の気を紛らわせるのが上手すぎるよ。


 でも、ここまで付き合ってくれているのに何も言わないのは失礼に当たる。そう思い私はG3の音のことを正直に話した。彼は荒井君からD3のズレのことも聞いていたらしく、内容をすぐに理解してくれた。


「そうか、G3まで……。なら、楽団での演奏は苦痛でしかねぇな」

「悲しいけどね。でも、誰も悪くないことだし」


 今の楽団には影響を受けていない私たち四人がいることで、正確な音とズレた音が混在している。何を隠そう、実はそれが一番に不協和音を悪化させてしまう要因なのだ。高杉君たちは私のために入団してくれたのに、それが仇となるなら絶対音感なんて消えてしまえばいいのに。


「何とかしてやりてぇのは山々だが……俺たちの音を下げたところで、他の奴にも低く聞こえるから不自然だしな。そもそも一音だけ下げることはできないしよ」


 そう、彼の言うとおりだ。楽器の音を低くするには弦の長さ(管楽器なら管の長さ)を調整するのだけれど、〝の音だけを下げる〟といったことは物理的に無理なのである。要するにこれは私が耐える以外に解決策がない、ということ。


 ……けれど、ちょっと待って。

 もしかしたらこれは、私に与えられた試練なのではないだろうか。これまで皆が乗り越えてきたように。


 ついさっき〝前世の私〟のようになりたいって思ったばかりじゃない。

 今度は私が頑張る番だ。


「ありがとう、高杉君。話を聞いてもらったら楽になったよ。やっぱり私、逃げずに頑張ってみる」

「何だ、急に上向きだな。お前がそう言うならいいが……これだけは伝えておく」


 改めて高杉君が私の顔を見つめた。

 治まったと思った鼓動が再び走り出す。


「〝絶対音感はいらない〟なんて言うな。苦しいかもしれねぇが、俺はお前にとって誇れる能力だと思っていてほしい」


 彼の瞳と同じくらい優しいその言葉は、私の心に深く染み渡った。




 楽団に戻った俺と和泉は通常どおり合奏に参加した。演奏中に時折アイツの顔色を伺ったが、俺たちと周りの音の不協和音に表情を顰める様子が見受けられた。そもそも嫌でも耳に入る雑音など気合いで耐えられるものではない。


 練習を終え、とりあえず今日は三人で帰路を共にして和泉とは別れた。

 シェアハウスに帰宅すると玄関を開けた瞬間に、スパイシーな食欲をそそる香りが漂った。


「お帰り。……良かったら二人も食べる?」


 そう言ってリビングにある食卓へ大皿を配膳しながら、安芸が俺たちを出迎えた。

 一緒に住んではいるが、俺たちは基本的に自分のことは自分でするスタイルを取っている。春休みが終われば進路は別だし、その方が不平不満も出ずに揉めないからだ。野郎三人で仲良く役割分担ってのも気持ち悪ぃしな。


「何だ、随分気前いいじゃねぇか」

「べ、別に? 君たちのために作ったわけじゃないよ、カレーだと一人分じゃコスパ悪いからさ」

「旨そうじゃん。有り難く食おうぜ、日向」


 近江に促されて椅子へ腰掛けると、目の前にバターチキンカレーとポテトサラダが並べられた。しかも主食は手作りしたであろうナンだ。

 どこが〝君たちのためじゃない〟だ、ちゃっかりナンもサラダも三人分あるじゃねぇか。多分これは安芸なりの〝ごめんなさい〟の意だろう。羽との一戦で和泉に無理強いしたことに対し、安芸は腹を立てて俺を避けていた。だから今朝もコイツとは顔を合わせてないし、家にいろと説得したのも近江だ。


 和泉のことになると冷静さを欠く安芸に何を言っても、火に油を注ぐようなものだから俺も声をかけなかった。

 だがこんな形で歩み寄ってくるとは想定外。昔から顔に見合う可愛いところがある奴とは思っていたが。


「ま、和泉が一緒に来ることを期待したんだけど」

「……そうかよ」


 前言撤回、やっぱ顔に似合わず憎たらしい奴。

 だが目線が合うとアイツが苦笑したから、それ以上ツッコむのは止めた。


「いただきます」


 声を揃えて手を合わせると、俺たちはしばし夕食を楽しんだ。

 安芸のカレーは店レベルにかなり美味かった。

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