第4曲 étude ―鍛錬―
4-1
いつもの防音ブースにて私は、いつものようにヴァイオリンを弾いている。
でも今日は少し状況が違う。私のヴァイオリンに乗せて、クラリネットの柔らかく滑らかな音が響き、何とも心地が良い。
何を隠そう今、私は荒井君とセッション中なのだ。
演奏しているのは、G.F.フックスの作品『クラリネットとヴァイオリンのための二重奏 Op.14 No.1』。
荒井君が意気揚々に「是非!」と持ち寄ってくれた楽曲だ。初見で細かい音符が並んでいてなかなか大変だけど、所々クラリネットと主旋律をユニゾンで演奏する部分もあり、その度に荒井君がアイコンタクトで楽しそうに笑ってくれるのが可愛くて仕方がない。よほどこの曲を弾きたかったのだろう。
クラリネットは管楽器の中でもヴァイオリンの存在と近い楽器であるがため、ヴァイオリンの立ち位置で他の楽器との重奏曲が多くあるのは知っている。でもこんなに素敵なヴァイオリンとの二重奏があったなんて……、確かに近い存在なのだから相性が合わないはずもない。
最後の音を伸ばし、荒井君がクラリネットで大きく円を描いて、いわゆる指揮棒での締めの動作をしたところで演奏は無事に終了した。
「っあぁあ……、緊張した~! ごめん、何カ所か間違えちゃった」
張り詰めていた糸が切れるように私は大きく息を吐き出した。何とか健闘したものの初見で弾くには少々難しい曲で、指が追いつかなかったりしてしまった。一方、クラリネットの指の動きも複雑だったのに荒井君の演奏は完璧だ。
「あはは、僕も結構練習したからなぁ。でも気にならないくらい上手く弾けてたよ、流石は和泉だね」
「そんなことないってば……。でもこのフックスって作曲家は初めて知ったな、私」
そう口にした瞬間、荒井君の目の色が変わった。獲物を見つけたような、キラリとした輝きを放ったのだ。
「そうっ! そういう人多いんだよ!! フックスはクラリネット奏者の家系に生まれたから、彼も元々はクラ奏者で軍楽隊の長を務めるほどの腕前だったんだ。その傍らで有名な作曲家に弟子入りして作曲にも取り組んでいて、特に得意であるクラの魅力を詰め込んだ独奏を含む曲をたっくさん作ってる、クラ愛好家にとっては興味深い作曲家なんだよ!」
荒井君は段々と私の方に詰め寄りながら、鼻息も荒く拳を握って熱弁した。こんなに彼が興奮する姿は初めて見たけど、とりあえず荒井君がこの作曲家を陶酔しているということは存分に伝わってくる。ちなみに途中から飛び出した〝クラ〟というは勿論、クラリネットの略である。
でも一通り熱く語った後、冷静に戻った荒井君は「あ」と小さく声を上げると、恥ずかしそうに下がっていった。それがまた可愛いのだけれど。
「ごめん、つい」
「ううん、荒井君はクラリネットがそれだけ好きなんだね」
そう言いながら、私の脳裏には高杉君の姿が一瞬横切った。彼がチェロを弾き始めたのはブリッランテのためであり、それは高杉君自身の本意ではないようだった。それを責めるつもりはないし、それでも真摯にチェロと向き合っている高杉君はえらいと思う。
でも荒井君はクラリネットが好きで吹いているのだと知れて、私はとても嬉しかった。すると荒井君は譜面台から楽譜を外し、それを見つめながら照れくさそうに笑った。
「この曲……ずっと夢だったんだ、和泉と演奏するのが。だから今、最高の気分だよ。ありがとう」
彼のこの言葉を聞いて、私は何だか泣きそうになってしまった。きっと荒井君はずっと、私と演奏するのを楽しみにしながら練習をしてきたのだろう。彼の記憶には前世である私の姿しかないはずなのに、まだ会ってもいない
でも、こうしてこれから荒井君たちのことを、たくさん知っていけばいい。折角の縁なのだから現世での絆も深めていけたらいいなと思う。
「さて、リラックスはできた? 和泉」
「うぇええ~、すっかり忘れてたよ……」
そう、実は本日の目的はこのセッションではない。これは荒井君が私の緊張を解すために用意してくれた、オマケの時間にすぎない。むしろ付き合ってくれているのは彼の方なのである。
私は今日、弓の特訓に来ている。
高杉君に言われたのもあるけれど、私自身このままじゃいけないと思っているし、荒井君も率先して協力してくれているのだ。
でもいざ特訓と言われると少し気が重く感じてしまう。だから荒井君はその前に、私が好きなヴァイオリンで心を落ち着かせようとしてくれたのだ。ブリッランテである彼の音色なら音のズレもない分、私は伸び伸びと音に身を委ねることができたというわけ。
とはいえ、緊張するものはするもので。
「大丈夫、いきなり矢を放てなんて言わないから」
にこやかに話す荒井君は楽器を片付け終わると、鞄の中から何やら長いものを取りだした。短めの棒にベロンと繋がっているのはゴムチューブだ。『ゴム
「弓道の室内用トレーニング器具さ。僕の父さんが弓道をやっていて、よく練習や試合を見に行っていたよ」
「そうなんだ、それは心強い! どうりで高杉君が指名するわけだね」
「あぁ、まぁ……そうだね」
一瞬彼が苦笑いをした気がしたけど、それを指摘する間もなく彼にゴム弓を握らされた。見た目は弓には全然ほど遠い姿だけど、本物の弓と同じフォームで引くことができて、初心者に限らず弓道の自主トレーニングには必須なのだそうだ。
「ゴム弓ではフォームの確認ができる。ゴムの伸びる特性を活かして『弓構え』の動作から、弦を離す『離れ』までの感覚を掴むんだ。あとこのトレーニングでいいところは、弓を引くのに必要な上半身の筋肉を自然に鍛えられること。まさに一石二鳥の訓練だよ」
荒井君の話を聞きゴム弓を引くと、確かにほどよい手応えの引きを感じることができた。体が慣れるまではこのゴム弓のお世話になることとなりそうだ。
こうして地味だけど、荒井
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