第55話 辿りついた真相【昼休み】・後:Sideトム


「すげえな、あんた」

「っ……わたくしは、すごくなんて……」

「いいや、すげえよ」


 トムはハンカチを差し出す。彼女の白く細い手がソレを受け取った。


 ハンカチがアイヴィの涙を拭うの目で追いながら、トムはぼんやりと考える。彼が一番知っている異性の手はティリーのものだ。アイヴィの手は彼女のものとまったく違う。細くて柔らかそうで、傷もなければ、骨張ってもいない。手の平の皮膚も固くなっていないのだろう。


 アイヴィを――義父が怖いと言っていた『貴族』の令嬢を見ながら、トムは、問う。


「あんた、どこから計算してた?」


 彼女は涙を拭った目で、見つめ返してくる。


「エッケハルトの計画を侯爵令嬢に相談して、侯爵令嬢がティリーを呼び出した。そしてそのタイミングを狙ったかのように、百鬼の団は篝火の団を襲撃……まさか偶然なわけねえよな。誰かが、狂犬の不在を伝えた」

「トム様……? 何をおっしゃって……?」

「侯爵令嬢のサロンの話は外に漏れない。あの日、侯爵令嬢に呼び出されたティリーがすぐには戻らないってわかるのは、密告者だけだ」

「……でも、トム様は、わたくしが相談したことを、誰かに聞かれたのでしょう? その人も知っていたということに――」

「カマ、かけた」

「え?」

「確信はなかった。ただ、エッケハルトが潰されて一番得するのは誰なのか考えた時、あんたの顔が浮かんだ」


 だからカマをかけたんだ、と、彼は言った。


「アイツに恨みがある奴は山ほどいたが、失脚が利益になる人間はそんなにいない。身内の後継者争いもないし、次期団長を巡る争いもなかった」

「わたくしには、利益があると……? 酷いです……婚約者が、あのような辱めを受けてしまい、わたくしまで面白おかしく噂されているのですよ……」

「それでも婚約は継続してるんだな。アイツには、取り返しがつかないほどの醜聞ができたっつーのに」


 彼女の目は濡れている。


 だがしかし、もう涙は流れていなかった。


 アイヴィ=フォン=バルツァーが、ふっと、微笑む。


「婚約は家同士のことです。わたくしの感情や想いなど、聞いてはくださっても、受け入れてはくれません。それはエッケハルト様にとっても同じです。門に吊るされるという醜聞が生まれても、両家の思惑が一致している限り、婚約は続きます」

「ああ。でも重要なのは、どういう形で続くか、だろ?」

「ふふっ、そうですね」


 花が綻ぶような、温かい笑みだ。美貌が称えられる彼女は泣いてもいなければ、声も震えていない。つい先ほどまでの暗く沈んだ表情から一変し、穏やかで慈愛に溢れた笑顔を浮かべている。


 穿った目で見ていなければ気付かなかっただろう。息を吐くように誤魔化し、真相を隠し、涙さえ流す。義父の言っていた『貴族が怖い』という意味は、こういうことなのだろう。暴力や権力とは違う、また別の力を持っている。習得するのではなく、自然と身につき、使い分けることができる力だ。


「あの日、あなたがおっしゃったのですよ。結婚は――」


 初めて会った日の階段で、トムは彼女に言った。


『結婚は家同士の問題だ。もし令嬢が家族と特別仲が悪いっていうんじゃないなら、一回話してみればいい。解消やら破棄やら白紙にはできなくても、契約の見直しくらいはできるんじゃねえの?』


 アイヴィの青白い手が伸びてきた。彼女はトムの手にハンカチをそっと握らせ、そのまま指先を絡める。


『さーな。それはあの男にしかわかんねえだろ。まあ、とにもかくにも動かないことには何も始まらないぜ? 残された時間は一年もない。結婚して相手の家に入っちまったら、あんたの家は本格的に手も口も出せなくなるぞ』


 絡んだ指先は、熱が集まるどころか、だんだん冷たくなっていく。


「そう、あなたがおっしゃったの。動かないことには、何も始まらない。結婚してしまったら、できることはない、と。だからわたくし、頑張りましたのよ」


 彼女を虐げるエッケハルトとの婚約は決定事項で、覆すことはできない。両家が繋がることで生まれる利権は膨大で、そこにアイヴィの感情などという些細なものを挟む余地はなかった。


 だから動いた。


 エッケハルトがアイヴィに無礼な振る舞いができなくなるように、彼女が有利な立場の婚約となるように――


「トム様にも、彼女にも感謝しております。腕自慢の伯爵令息が後輩の女子生徒に負けて逃げた……その程度の醜聞で、きっかけを作ろうと思っていたのです。けれど、わたくしが想定していた以上に、エッケハルト様の名声は地に落ちました」


 全裸で門に吊るされ、それを多くの貴族の子息令嬢に目撃された。同世代の子息令嬢たちとの付き合いは、今後一生続く。


「おかげさまで、わたくしはなんの不安も心配もなく嫁げます。あちらの家にしてみればわたくしは『醜聞のある嫡男と婚約破棄をせず、嫁いでくれる稀有な存在』で、これからわたくしに頭が上がらないでしょう」


 アイヴィの指が離れて行く。彼女は静かに椅子から立ち上がり、貴族令嬢らしい、美しく作った笑みを浮かべた。そして、制服のスカートをつまんで、完璧なカーテシーを披露する。


「感謝いたします。トム様。あの日あなたに出会えて、わたくしは幸運でした。フェッツナー男爵令嬢にも、ありがとうございましたとお伝えください。では、わたくしはこれで失礼させていただきますね」


 そう言うと、彼女はトムに背を向けた。


 頼りのない細い線の肩だ。真っ直ぐ伸びた背中と優雅な歩みは、まさしく貴族令嬢のものである。そんな背を見つめていると、胸がジリジリと焼けるような感覚に襲われた。それは――罪悪感だ。アイヴィの介入の理由がトムで、彼女が介入したことにより襲撃は確実なものとなった。


(タラレバの話に意味はねえけど……)


 もしもあの日、無責任な言葉をアイヴィに伝えなければ、襲撃が成功することはなかったのかもしれないと、そんな考えが頭をよぎる。


「なあ、気をつけろよ」


 彼女の背に声をかけた。


「アイツは男女平等だぜ」


 アイヴィが振り返り、首を傾げる。


「それは、この件を画策したのがわたくしだと知ったフェッツナー男爵令嬢が、報復してくるということでしょうか? それはお任せします」

「あ?」

「ふふっ、彼女に伝えるかどうかはトム様にお任せします。わたくしがどうなるのか、この身の行く果ては、あなたに委ねましょう」


 花のかんばせだ。彼女は髪を揺らしながら前を向き、歩き出す。その足を止める言葉をトムは吐き出せない。アイヴィ=フォン=バルツァーは、そのままの足取りで図書館を出て行った。


 残されたトムは、椅子の背に身体を預けて遥か上にある天井を仰ぎ見る。深く息を吸えば、インクと紙のような図書館独特な香りがした。気持ちは重い。


 彼は自嘲混じりの溜め息を漏らすのだった――。







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