第53話 赤狼の娘【早朝】・後


「ファレンフィ!」

「ぐっ……!」


 口にバゲットサンドを詰めたまま、ティリーは『ハレンチ!』と声を上げる。そしてサンドを片手で持つと、空いた手で、鋭い手刀をスミロの腹部に炸裂させた。くぐもった声を漏らす彼をじとりと睨んだまま、口の中のサンドを咀嚼する。


「こういうことばっかりするなら怒るよ!」

「コレも、ダメか……婿の条件にあれだけ子作りの要綱があるってのに……ガードが固すぎるだろ……」

「こんなことするために、ここに来たの?」


 スミロは腹部を手で押さえていた。ティリーの狙った通り『いいところ』に一撃が入ったようだ。彼女の問いかけに彼は首を横に振る。そして痛みから気を逸らすように深く息を吐き、口を開いた。


「いいや、そうじゃなくてさ……俺はただ……指輪狩り、優勝おめでとうって言いたかったんだ」

「む? そうなの?」

「ああ。あと、これからどうするつもりなのかも聞きたかった」

「どうするって何が?」


 彼の言う『これから』というのが『いつ』のことなのかも、『どうする』の意味だってよくわからない。ティリーは首を傾げた。さっぱり理解できず再びサンドにかぶりつけば、スミロが自身の頬を掻く。


「ずっと『篝火の団』にいるつもりか? 在団中の団長の許可と、移籍先の団長の許可があれば、団の移動は自由だぞ」

「だから何?」

「……今後、団の一年生だけでなく、全学年合同での行事もある。こう言っちゃなんだが、篝火の団じゃきみの後ろ盾にならない」

「うしろだて……」

「一年の有名どころを潰してやろうって考える二年や三年は、けっこういる。団の上級生は、そういう奴らから後輩を守る盾でもあるんだ」


 後輩が理不尽な目に遭えば、時に団の先輩たちは、相手に抗議し、やり返し、圧力をかけて、どうしようもない時は決闘を申し込むことさえする。しかし篝火の団の先輩たちではそれができないと、スミロは言う。


 ティリーが――彼女たちフェッツナー男爵領出身の四人が、おとなしく、目立たない学生であったなら、少し情けなくて力のない先輩でも良かった。けれどそうではない。


「うちに――『颶風の団』に来ないか? 俺ならきみを守れる」


 スミロ=ヴァルデは真剣な顔で言う。


 ティリーは黙って彼を見つめ返した。


「それに、うちの人間はけっこう面白いのが揃ってるんだ。俺みたいなのばっかりじゃなくて、面倒見がいい奴も多いし、礼節を重んじてはいるが、格式ばって堅苦しいこともない」


 見つめてくる瞳は熱いが、先ほどのように濡れた感じはなく、ひたすら本音で話しているのだとわかる。彼にとって颶風の団はよほど素晴らしく、大切な場所で、そこに所属している仲間が好きなのだろう。


「急に決められないなら、一度会ってみないか? きみのことを、みんなに紹介させてくれ。答えはそれからでもいい」

「うん?」


 彼女は首を捻った。


 そしてウンウン唸りながらしばらく思案し――眉を寄せる。


「ねえ、それって逆なんじゃないの?」

「逆……?」

「あなたがわたしの夫になりたいなら、わたしがあなたを仲間に紹介するようにしないといけないんじゃないの?」


 スミロ=ヴァルデの目が見開かれた。


「フェッツナー男爵家に来たいのなら、わたしを呼ぶんじゃなくて、あなたが来ないといけないんだよ。きっとね」


 以前、話した時、彼は言った。


『家と縁を切るとまでは言えねえけど、婿入り後の比重は完全に男爵家に置く』

『ジョウホ……ヒジュウ……?』

『ハハッ、簡単に言えば男爵家のほうを大事にするってことだ』


 その時の言葉の通りならば、スミロは自身の領域にティリーを誘うのではなく、ティリーの領域に入る行動を起こすべきだ。今回のことで言えば、スミロが篝火の団に移籍するのが、正道である。


 彼はティリーの指摘に目を丸くしていたが、自身の言葉の綾に気付いたのか、一瞬で顔を赤くした。そして勢いよく顔を逸らし、羞恥で赤くなった顔を手で隠してしまう。


「……っ……きみの言う通りだ。俺が間違えた……」

「うん」

「じゃあ、俺が篝火の団に――」

「来なくていいよ。大事な場所なんでしょう?」


 颶風の団の話をする彼の顔を見ていたから、わかる。それを捨てて自分を守りに来るという男に、ティリーは感動することもなければ、ときめきを覚えることもなかった。


 スミロは返事に詰まっている。


「べつに来るなとは言わないし、そうしたいなら勝手にすればいいと思うよ。ただ、覚悟ができてない内に来るのはやめてね。そういうの、たぶん良くないから」


 わたしにとっても、あなたにとっても――と、彼女は静かに告げると、ふたつめのバゲットサンドに手を伸ばした。パストラミサンドだ。かぶりついて、もぐもぐと咀嚼している間、ふたりの間には沈黙が落ちる。


 ティリーが二個目のサンドを完食し終えた頃、スミロが深く息を吐いた。溜め息のようにも聞こえたし、自分を落ち着かせるため吐いたひと息のようにも聞こえる。


「……情けねえなあ……」


 吐息混じりに、彼がポツリと呟いた。


「覚悟が足りてないって、求婚した相手に指摘されるなんて……笑い話もいいところだ」

「ん? 笑うの?」

「いいや、そうじゃなくてさ。結局俺は、篝火の団の上級生がどうのって、言えるような立場じゃなかったってわけだ」

「まあ、そもそも、わたしもみんなも、上級生にそういうの求めてないしね。守ってほしいなんて思ったことないよ」


 誰かが守ってくれる。


 誰かが庇ってくれる。


 そんな風に考えたことはない。学園に入学してからではなく、それよりもずっと前からそうだった。いつからかは、はっきり覚えていない。剣を持ちはじめた頃から、あるいは生まれ落ちた瞬間、脈々と受け継がれてきた『フェッツナー』の血が、ソレを宿していたのかもしれない。


 ふ、と……スミロ=ヴァルデが目を細める。


「そうか。きみは、守る側の人間か」

「かっこうつけて言えばね。じっとしていられない、ただ暴れたい側の人間ってことなのかもしれないよ」

「どっちにしても、強い人間だ。眩しいくらいにな。そんなだから、ますます惹かれちまうんだろうな……今度こそ――」


 彼女は目をまたたかせた。ティリーに真っ直ぐ向けられたスミロ=ヴァルデの目には、確かな熱情が浮かんでいる。


「今度こそ、ちゃんと腹くくるから」

「うん? そっか」


 三個目のバゲットサンドを手に取った彼女の返事は短い。


 腹をくくって覚悟を決めるのは、結局のところ本人の意志でやるしかないことだ。スミロが自身で『腹をくくる』と言ったのだから、ティリーは口を挟む必要性を感じなかった。もっとも早く三個目のサンドにかぶりつきたかったからという理由も、なくはないのだが。


 バスケットには隙間を埋めていたクッキーが残っている。役割はバゲットサンドが崩れないための穴埋めだが、リズリー夫人お手製の絶品クッキーだ。しばし考えて、彼女は言う。


 一枚だけだったら食べてもいいよ、と――。










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