第6話

 昼休みを終え、午後の授業も佳境に差しかかる六限目。

 チャイムが鳴ってしばらくすると、数学教師が入ってきた。礼をして着席をしてから、累は窓の外を見た。

 すでに桜の花は散って、新緑が目に鮮やかだ。開けた窓から、ほのかに夏の香りがしてくる。真っ青な空に、遠くのほうで雲が見えた。

 それなりに静かな教室内では、黒板に数字を書いていくコツコツという音が響く。


 板書をノートに書き写していると、わーっという声が校庭から聞こえてくる。

 累がそちらに目をやると、ボールを追いかけている紺色の体操着の二年生たちの姿が見える。

 その中に一人、やけに顔立ちが整っている人物が見える。


(あの人……)


 どこかで見たことがあるような気がする、と思っていた時。


「よーし累、そっぽ向いてるとはいい度胸だ」


 名指しされて、累はきょとんとしながら前を向く。


「累、この問題解けるよな?」


 数学教師の通称セイメイこと、高橋晴明たかはしはるあきがニヤリと笑う。

 累はちょっと待ってと手のひらを向けた。

 急いで黒板の式をノートに写し、答えを告げる。セイメイはつまらないとでも言いたそうな顔になった。


「正解。指名した意味ないじゃないか。まあいいや。窓の外もいいけどな、黒板ちゃんと見ておけよ」

「はい」


 セイメイが黒板に向きなおったあと、累は再度窓の外に目をやった。


(そういえば、シャープペンどこかに落としちゃったな……)


 予備のシャープペンを使っているが、いまひとつしっくりこない。

 一体どこに落としただろうと考えているうちに、昨日、渡り廊下で見かけた背の高い男子生徒を思い出した。

 乙女な口調で独り言をぶつぶつ呟いていた男子生徒。

 累を見るや否や、女子顔負けの悲鳴をほとばしらせていた。

 緑色のネクタイをしていたので、二年生だろうと予想はつく。

 やけに顔がきれいだったことと乙女な悲鳴以外、累はまったくもってどんな人物だったか覚えていない。


(まあいっか)


 教室の前方に顔を向けると、ちゃんと前見ろ、とセイメイが累に対して眉を上げる。


(よそ見しているともう一回指すぞ)


 セイメイの視線がそう言っているのを感じ取るなり、累は慌てて板書を写した。

 もうすぐチャイムが鳴るというときになって、クラスメイトの一人が宿題の丸つけはしないのかとセイメイに質問する。


「――そういや、宿題出したの忘れてたわ」


 セイメイは、とちったなと顔をしかめた。

 教室中にどっと笑いが巻き起こる。丸をつけてから返すしかないな、とポリポリ頭を掻いた。


「累、宿題のプリント集めて放課後持ってきて」


 授業終了間近にセイメイに言われ、はあ、と累は頷く。

 チャイムが鳴ってセイメイが出ていくと、みんなが累の机にプリントを持ってやってくる。

 机上に乗せられていくプリントを見ながら、自分で集めて持っていけばいいのに、と胸中でぶつくさ文句を言った。


「いいなー累。セイメイ先生に好かれてて。累だけ下の名前で呼んでもらっているし」


 沙耶香が隣の席から、プリントを渡してくる。ついでに、累の机の上で散らばっているプリントを、きれいにまとめるのを手伝ってくれた。


「好かれてるというか……ただの小間使い」


 累はまだまだみんなが持ってくる宿題を、どうもどうもと受け取った。


「小間使いでもいいじゃん? 十条先輩までとはいかないものの、セイメイ先生も人気だもんね。かっこいいし、教えかた上手だし」

「はあ」

「いつも放課後とか休み時間とか、女子生徒につかまってるのよねー。先生も嫌がらないから、けっこう告白もされてるみたいだし」

「……そう。別に、いいんじゃない。人気があるのは悪いことじゃないし」

「もー累はクールだなあ。だから指名されるのかなぁ?」


 集まったみんなの宿題を机の中にいったんしまって、掃除の準備のために椅子を上げる。


「違うよ。高橋先生は私のこと、小学生の時から知ってるから」

「え、そうなの? 初耳」

「うん。家庭教師やってもらっていた」


 沙耶香は詳しく! と言いながら追いかけてきたが、累は「あとで話すね」と言い残して掃除の場所へ向かう。

 ホームルームを終え、さようならの声とともに放課後が始まる。

 話を聞きたがっていた沙耶香は、結局用事があるということで駆け足に教室を飛び出していってしまっていた。

 累は頼まれていたプリントを運ぶため、職員室に向かって歩き始める。

 途中、廊下でぶつかりそうになった女の子たちが、謝りながら驚いた顔で累を避けていった。去って行く後ろから「今の女の子背が大きいね」という話し声が耳に届く。


 累は女子としてはかなり背が高い部類だ。

 そのため手足は長く、おまけにやせ型のモデル体型でもある。

 自分の容姿に不満を抱いたことはないけれど、小さくていかにも女子らしい沙耶香のことを、うらやましいと思ったことは何度だってあった。


「はあ……」


 ため息交じりに職員室に入ると、累にいち早く気付いたセイメイが、部屋の真ん中から手を挙げた。


「ちょっと待って、準備室で採点する」


 いうなり自分の机から山盛りのプリントを抱え込み、累のもとにやってきてニヤッと笑った。

 これをすべて今から採点するのか、と累はほんの少しだけ目を見開く。ちょっとやそっとじゃ終わらない量なのはすぐにわかった。


「おっし、じゃあ俺のことがかわいそうだと思った累は、一緒に採点作業な!」

「え!? 晴兄はるにい、生徒が手伝っても大丈夫なの?」

「テストじゃないから大丈夫。あと、学校では高橋先生な。威厳が無くなるだろ?」

「はあ」


 元々なさそうだけど、という言葉は飲み込んで、累は採点の準備を始めるセイメイを見つめた。すると、セイメイとばっちり目が合う。


「終わったら累の好きな紅茶をおごるぞ」

「……やる」


 セイメイはニヤッと笑ってプリントの一部を累に預け、二人でぽつぽつしゃべりながら、着々と丸つけを始めた。

 そうして山のようにあった紙の束がなくなったのは一時間後のことだった。

 自販機で紅茶をごちそうになってからセイメイと別れると、累は寮の横にある駐輪場に向かう。

 お腹がすいたので、急いで帰って夕飯の支度をしなくてはと思っていた矢先、甲高いような「あー!」という声が聞こえてきた。

 振り返れば、沙耶香が話していた恐ろしくモテるという先輩、十条月日が立っている。


「ちょっとちょっと、ちょっと君!」


 彼はみるみる近づいてきたかと思うと、累の手を掴んだ。


「はい?」

「ちょっと来て!」


 許可も返事も待たず、累はあっという間に寮の中へ引っ張られてしまっていた。

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