アマバタ様
鯖缶/東雲ひかさ
前編
表紙
真も偽りも、知らぬよりよきことはあらず。
さりとて知るといはば、あなたに私からの、この言葉を。
●
私が通っている大学には、学校の全体連絡であったり地域の情報であったりを張り出す掲示板の他に、生徒が文字通り自由に張り出していい横長の大きな掲示板がある。
もちろん、サークルの勧誘やポスターが張り出されている。だがそんなものはこの掲示板に置いてはおまけもおまけだと言える。どれだけ自由かはこの掲示板の本質がエンタメにあり、大喜利にあったことが大いに語っている。
連載小説、連載漫画、コラム等々、表現の自由を最大限行使した校内新聞。様々なメディアの作品が張り出される。
他にもこの校内だけで通じる、所謂ノリのもとに雑多な作品たちが毎日のように張り出されていた。
例えば、公開交換日記をつける何者かがいて、私が入学する前から続いていた。それが個人による自演であったことがその人の卒業の日に明かされ、校内の事情を知るものを戦慄させた。
それは交換日記の内容がむず痒くて居ても立っても居られなくなるような、睦言の連続であったからだ。その交換日記を見て、嫉妬に狂った者や、続いて交換日記を始めた者もいた。そのため一人芝居だと判明した際、みな冷や汗が止まらなかった。
何より目を見張るのは四年間、誰にもバレずにその行為を続けることが出来た隠密性であろう。週に一回、更新されていたのだが、普通であればバレる。想像のとおり、張り込みをする無粋な生徒もいたのだが、なぜか気づけば交換日記は更新されていた。
その交換日記の彼は忍者の末裔であるというのが専らの噂だ。
他には理系学生と文系学生の論点のズレまくった討論が行われたこともあった。当初はただの悪ふざけだったのが実際の討論となり、刃傷沙汰になったこともあった。この事件は掲示板が危険視され、大学に撤収されることを懸念した掲示板をこよなく愛する生徒に隠蔽された。故に事件であるとは言えない。
存在しない求人を出すものもいれば、電話番号を書き、友達を募集するものもいた。当然、他人の電話番号を張り出して問題を起こした人間もいた。しかし例によってもみ消された。
噂によると掲示板の管理委員会が大学と無関係に存在しており、色々と暗躍をしていたらしい。暗号文がときおり掲示板に張り出されているらしいのだが、それは管理委員会の連絡らしいという噂だった。
これも一種の都市伝説である。
私はそのような事情にも、張り出される様々な作品たちの事情にも、見る専門であったためにあまり詳しく知らない。
ともかく私は一日不自由なく、暇を潰せる掲示板を見に行くのが、日課とは言わずとも、ともすれば足が向いてしまうような生活を送っていた。自分で言うのも何だが、こんな生徒は珍しくない。
この夏休み、私はサークルにも入らず、時間を浪費していた。外出するのはアルバイトのときくらいで、ダメ大学生の典型だった。ただ言い訳をさせてもらえば、その夏は暑すぎて外で何かをするというのは正気の沙汰ではなかった。事実、ニュースでは夏真っ盛りだというのに、海の家の売り上げが、去年と比較にならないほどに落ち込んだとニュースでやっていた。その夏の私は正真正銘マジョリティだった。世の中多数派が勝つ。
よしよし、友達がいないのだな、と早合点して憐れむか蔑むものか、同士よと感銘と悲哀のもとに涙ぐむものか、それとも同族嫌悪をするものがいると思う。
残念だが、私には友達がいる。イマジナリーではないことは確かだ。なぜなら中島というやつに金を貸している。
三百円。
夏休み中、何回も集まり飲み会をした。ボンボンの
それにこの夏、アルバイトはやめた。就活と名目だったが、ただ単に無責任にやめたくなっただけだった。
●
「帰省する」
その日、暇で――そして暑くて私は午前中から伊丹の部屋に押しかけた。しかしにべもなく一蹴されてしまった。そのときになってお盆だということに思い至った。
私も帰省しようかとも思ったが、買い込んだもやしがあったので親に電話するのみでやめた。
私の部屋にはクーラーがあるが金がない。むしろ伊丹のクーラーをあてにしていたので、クーラー分の電気代を考慮しない生活を送っていた。貯金はあるが、使わなくてよかったはずのクーラーのために切り崩すのは癪だった。
やけになって大学まで行くことにした。アルバイトもないので時間を潰さなくてはいけない。そしてすることもない。
大学は夏休み中も開放されている。避暑地を求め、大学へ。図書館のほうが幾分か近くにあったが、そう変わらないのでやはり大学へ向かった。それも掲示板のためであったのは言うまでもない。
大学に着くころには風呂上がりのような風体で、私はそこにいた。中島がサッカーサークルに所属していて、ちょうど大学にいたのでシャワーを借りて、下着も借りた。履いていたのはサークルのと一緒に洗濯してもらった。
掲示板は校内のサークル棟と本棟を繋ぐ長い通路の壁に掛けられている。この長い掲示板はおよそ三十五メートルある。上座下座とも言うべき暗黙の了解みたいなものがあって、両端と真ん中は人気な掲示物が、その間に下積みとも言うべき新芽たちが張り出される。人気になってくると真ん中に寄るか端によって掲示することが許される。しかし破っても何らペナルティはない。過激なものから槍玉にあげられることもない。
今一度申し上げるが、この掲示板の本質はエンタメであり、悪ふざけである。だからこういう古くさいルールを守ることによって楽しみというのは増幅するのだろう。それで一種の競争性を生んでよりよい悪ふざけが生まれる。
実際、ここで生まれた小説が出版社の目に止まり、出版されたこともある。これも人に読まれる経験によって作品がよくなり、よいものは場所という形で評価される。それがまた創作の原動力になる。
というのは文芸部のコラムの抜粋であって、私はよく知らない。
そしてまた逆に、ルールがあるなら破ればいいじゃないと、そういう悪ふざけも生まれ、気取って言うならこれもまた一興というやつである。
その日私の目に止まったのは、その類の悪ふざけであり、モザイクアートのように紙が貼られる掲示板のど真ん中、他の掲示物の上に被さるように貼られていた。
真っ白の背景、コピー用紙を半分に折ったくらいの大きさの紙にゴシック体の黒い太文字でただ一言。
『アバマタ様について』
そうでかでかと書かれていた。その紙をよく見ると実際に折りたたまれており、他の掲示物に被せてあるのも鑑みるに、きっと剥がして開いてもらうのが目的であることが窺い知れた。
これでも在学三年目であり、このような悪ふざけも何回か見てきた。全く同じものではないが、こういうものだろうと推測するのに十分すぎるほど目が肥えていた。
その紙は浅く画鋲で留められており、やはり取りやすいようになっていた。何も考えず画鋲を外し、紙を開くと先の文言の下半分に、サークル棟のある部屋番号が素っ気なく書かれていた。
私は顎をさすって思わずニヤリとした。
きっとこれは夏の風物詩、ホラーであると気づくには語りすぎなものであった。
去年のホラーを思い起こすと、あれは集団ヒステリーまでに発展しかけた。
まず巧妙な手段で文芸部の部長が死んだことになった。夏休み中であるので、もちろん大学からのアナウンスなどない。だから肯定する材料も否定する材料もなく、簡単に部長が死んだ噂は水中に墨汁を垂らすように簡単に広まった。
確かに最初は「悲しいね、ははは」だったり「ほんとに?」だったり懐疑的なものがほとんどだった。そして三日ほどして、続報もないので結局デマかと、その話題は忘れ去られた。
そして新たな噂が流れた。
部長はどうやら殺されたらしい、という噂だ。
それもこの時点では「ますます、なあ?」とか「センスのない悪ふざけだ」とか「文芸部も地に落ちた。他かもしれんが」のような批判的なものだった。
しかし翌日、我が友中島がこんなことを言った。
「昨日、文芸部の例の噂が流れてきたろ。あれは本当かもしれない」
何故だと、当然私は聞いた。すると中島は神妙な顔で耳打ちをするように言った。
「実は昨日、他校との練習試合のあと、警察が二人聞き込みに来て事情を聞かれた」
私はもちろん一笑に付した。お前のどこに文芸部と関わりがあるとか、お前もグルだろうとか、至極当然の推理を披露した。
しかし中島の顔は真剣なままだった。
「警察手帳というのを実際に見たことはなかったが、おそらくホンモノだった。そもそも校内で見たこともないやつだったし、片方は若かったが片方は初老の爺さんで、この学校の悪ふざけに付き合うような、そんなふうには見えなかった」
私は何も言えなかった。それでもギリギリ「劇団に頼むという手もある」と言った。
しかし中島は依然、否定的で「俺はもう少し探りを入れてみる。それと他校の奴らがこの一件に関しては証人だからな」と最後に言った。
暗黙の了解として、他校の人間は巻き込まないというものがあった。これは悪ふざけが法律に抵触することがままあったので、管理委員会の手が届く範囲で問題を起こさせるためだというのが諸説としてあり、これは珍しく第一に守らなければルールとして知られていた。
それなので私も困った。実は一年生のときに掲示板の別の一件に巻き込まれ、痛い目を見ていたせいで、パビロフの犬みたいにあらゆる噂に懐疑的になるようになっていたのだが、他校を巻き込むだろうかという疑問がついて回った。
そして私も調べることにした。そんな生徒は数多く、ほどなく生徒の内で捜査本部が設立された。
そして調査の果て、部長の親にも確認をとり、ほんとうに死んだらしいと分かった。そのうえ捜査本部が優秀すぎたせいか、校内の誰かが犯人であろうことが白日の下にさらされた。
その恐怖は想像に難くないだろう。昨日まで肩を組み、部長の死の真相を探っていた仲間が部長を殺したのかもしれない。
この事実は要らぬ混乱を招くとして、捜査本部長により秘匿され、箝口令が敷かれた。それも素人の推理がまさか当たっているはずもないだろうという真っ当な意見のもとに敷かれたもので、日本の警察を信じようという結論にいたった。
そして夏休みは明け、やはり部長の姿は見えなかった。しかし部長が殺されたというのは事実としてもう公然に認められ、そのうえ犯人が生徒だという噂がどこからか漏れていた。
校内には恐怖が蔓延した。隣のあいつが、あの子が、誰が、それがと、笑顔ではいるもののその顔をしたに疑惑の鋭い眼光を湛えていた。気が気でない生活が一週間ほど続いた。
そのうち、また警察がやってきてこんなことを言ったらしい。
「警察を騙って、何やらよからぬことをしているやつがいるらしいが知らないか」
その瞬間、皆の催眠は解けた。
これも文芸部、演劇部、その他諸々の十数人で数年前から企画されていた悪ふざけだった。なんと発案者は卒業していた。
捜査本部を立ち上げたのは、その徒党の一人で捜査本部長はもちろん手のかかったものだった。批判はもとより、巧妙に仕組まれたアリバイやら営業時間やら就寝時間やらで生徒全体を犯人に仕立てあげるその壮挙には脱帽するしかなかった。
そして一ヶ月ほど色々な騒ぎが起こり、やはり管理委員会がその事態を収めた。本物の警察も二度と現れることはなかった。
そしてこのようなルールが新たに設けられた。
以下の文言は暗黙の了解ではなく、節度と秩序をもち、そのうえで文化を守るための必要な制限であることを理解すること。これを破るものを発見した次第、制裁を加える。
我々は本気である。
・他校の生徒、関係者を巻き込まない。再びの告知ではあるが以前とは違い、これを守るべきルールとして制定する。
・親や縁者など外部の組織を巻き込んではならない。これは今回、顕著に見られた問題点であり、我々は掲示物を一種の作品としてみている。そして、これは大学の若人たちが手を組み、その中で生み出すべきだと考えている。外との交流でよいものは生まれるが、狭い空間で生み出されるものにも価値はある。そもそも悪ふざけを外に持ち出すな。もっと建設的な交流で外とは関わり合いを持つように。
・ヒューマンホラー禁止。校内の不和を助長し、人格形成に悪影響を及ぼす可能性のため。
以上、今回の件に関しては他言無用。悪ふざけは閉幕である。そして制裁に関しては、首謀者一派は三ヶ月の停学となった。これは今回の件とは別の件のためにとなっている。
我々にはこのような権限があることを努々忘れぬように。
こんな文言が例の掲示板を埋め尽くすように貼られ、これも一種のホラーとして語り草になっている。
アバマタ様も、このようなホラー夏の恒例行事なのだろうと私には思えた。ちなみに私が一回生のときにも掲示板のホラーイベントはあり、そのときは校内すべての部屋、屋上もこみこみの魔方陣、敷地全部を計算に入れた黒魔術的降霊術を行った。ちなみのちなみに、私の痛い目というのはこの降霊術だったりする。
アバマタ様の張り紙は目立つところに貼られていた。ここに来るまでに何人もの生徒とすれ違った。言わずもがな、その生徒達は気持ちの半分くらいでもって、掲示板を見に来ているはずだ。気づかないわけはない。
だから推理としてこれは連作のようなものだろうと私は考えた。この張り紙を開き、指定された教室に行くと何かあって、次は君の番だと言われる。そしてまたこのように別の張り紙を、そんなふうな想像を巡らせた。
でなければ目立つところに貼られたアバマタ様が無事でいるはずもない。好奇心旺盛で無鉄砲な誰かに剥がされていなければならない。
推理の補強として、噂が流れてきていないのも要素としてあった。仕掛けられた人が次の仕掛け人に。それなら噂が流れてこないのも納得できる。自分で種を明かして回るやつもいないだろう。
それか、たまたまこの瞬間に貼られて間もない張り紙を、偶然私が間もなく剥がした可能性。これなら噂の件はまるっきりクリアされるが、そんな人物とはすれ違わなかった。だからこの可能性も低い。
いつもの私ならそう考えた結果「私は事なかれ主義の傍観者でいたいのだ。それを掲示板の悪魔共が許してくれるかは別として」と速やかに剥がした紙をもとに戻していた。
しかし私は暇だった。そして間が悪く、良い映画で泣いたばかりで、私の中のあるはずもない創作意欲がむっくりと首をもたげていたところだった。だから私は柄にもなく、今回くらいは仕掛け人として高みの見物も、なんて魔が差してしまった。
アバマタ様の紙を持って、書いてあったサークル棟の一室まで向かった。部屋番号では分からなかったのだが、だいぶ奥まったところに部屋はあって、他の使われている部屋のような何の部屋だとか示すものは何もない。のっぺらぼうな引き戸があるだけだった。
一応、ノックをする。二回したあとに返事がなく、再度三回ノックした。
「はい、ちょっと待って」
私はその声にドキリとした。何にと申せば、それは可愛らしい女の子の声だったのだ。
私はてっきり大学生活の四年間、最後のモラトリアムを拗らせて過ごし、そのうえ拗らせを嬉々として受け入れている腐った男子大学生がきっとこのアバマタ様の生みの親だと思っていたのだ。
実際のところ、掲示板の真面目でない部分の大半は男子生徒が行っているし、全校生徒の比率も男子のほうが多い。だから今回のもそうだと思うのは道理だ。連作だとして、引っかかって、そのうえ仕掛け人に回っているのが女性なのには驚いた。
というのは建前で包み隠さず言うと、女性という存在に浮き足立っていた。私の短い生涯において彼女がいたことはない。それに私は声フェチでもあった。好みの声に過剰に反応してしまった。
ここにひとつのよい例がある。
私の友人に
その症状とは女性に対して病的なまでに過敏になり、すべての女性が美麗に見えるというものである。代わりに男に対する審美眼は養われる。なぜなら一般的に好まれる顔つきの男子は他校の彼女がいたからだ。
このルッキズムに迎合しているのか、目いっぱい蹴散らしていっているのかよく分からない症状は大学に入ってからも続いており、笹保は苦しんでいた。
「このままでは僕は恰好のカモだ。美人局もハニートラップも、戸口を全開にしてそんなのを待ち受けている。どうしようか」
笹保に相談されたときに、コイツは何て殊勝やつなんだと感心した。何故なら彼は他校の彼女がいる男に対して嫉妬に狂うこともなく、研鑽を続けていたからだ。
笹保は身だしなみもきっちりとして、何より清潔感があった。しかしながら女性に対しての耐性もなければ、まともに話すのもままならない状態だった。それでも諦めず、努力する姿に心打たれた。
ただ考えるに、それでも女友達の一人もいなかったのは天性の呪い的なものによるのではないかと今では思っている。
そんなこんなで彼をそういう店に連れて行こうとした。言い換えれば、私も尻込みしていたのを二人でならば怖くないと巻き添えにしようとした。しかし耐性のない笹保を連れていっては、はまってしまうのではないかと思いやめた。その実、私自身も怖かった。
だから彼と考え、アイドルのライブに馳せ参じた。たくさんの顔を見て、笹保の好みという観点から皆が美人に見えてしまう症状の軽減、それと握手会による女性への耐性を上げようとした。
その結果、彼は立派なアイドルの奴隷となり、今では大学のアイドルファンサークルの長を務めている。私は途中まで一緒に活動していたが、おそらく同族嫌悪に似た何かでリタイアして今にいたる。そもそも、アイドルを好きになるという適性が私にはなかったのかも分からない。
ここまでして私は男子校症候群について解説したのだが、お気づきのとおり私も経験に富んでいることは決してない。とはいえ、女性の友人やら交友関係がないわけではない。限りなく少ないが。笹保との差はもしかするとこれで、アイドルにはまることもなかったのかもしれない。
いささかドキドキしていると戸が開いた。出迎えてくれたのは可愛らしい短い黒髪の、伶俐そうな私より頭ひとつ分くらい小さな女の子がいた。見かけたことはない。こういうことをする女生徒は目立つ。それか私のアンテナがそちらを向いているので、大抵知っているのか。
きっと私の目には過度にこの子が可愛く見えている。それを加味してフラットに見ても可愛く、タイプだ。一度見たら忘れることは無いだろう。詰まるところ、見覚えがないということはまだ何の騒ぎも起こしていない、もしくは起こす予定のない新入生だろうと推測した。
そして私が瞬時にだらしない顔を引き締めた後「あぁ、きっとこの子はたちの悪い悪戯に巻きこまれたのだな。こんな純粋そうな子を。けしからん」とそう確信した。推し量るにこの部屋は適当に指定されたか、彼女がいるのを承知で指定されたかなのだろう。
騒ぎを起こそうとしていなくとも、騒ぎに巻きこまれることはこの学校では往々にしてある。そもそも、これは覚悟しておかなければいけない事柄であり、巻きこまれたときになって文句を言うことは出来ない。
なぜなら、その時点でやり返すことを校内のルールとして許されるからだ。やり返しにやり返すことは許されていない。それはもはや闘争だからだ。
とはいえ私は一回生のホラーイベントも二回生のときにも、意趣返しは試みていない。度胸もアイデアもないのが大きな問題ではあるのだが、何より規模が大きすぎて私が制裁を下すこともなく、その天誅は下されたからだ。
「どうかされましたか?」
彼女は私を少し見上げるようにして言った。少し面食らったようなとぼけた顔をしている。やはり、彼女は巻きこまれただけなのだろう。
彼女の後ろに見える部屋は長机と椅子がいくつか。それと部屋の両端に棚兼本棚が置かれ、奥の窓から反対側の本棟が見えていた。一見、何のためにここにいたのか分からない。殺風景と言ってもよかった。
「いや、これにこれに心当たりは? 悪戯だとは思うのだけど」
私はほとんど断言するように彼女に言った。彼女は私が渡した紙をまじまじと見ていた。そして彼女が「心当たりは……ないですね」とか言うのを私は心待ちにしていた。
「そうですね、これは……」
しかし私の予想に反して、彼女は何か知っているような語気で話したかと思うと、言い淀んで口を噤んだ。
「何かご存知で?」
私はおどけたように聞いた。結局、これはそういう催しでその主宰が意外にも彼女だった、ただそれだけのことである。ちょっと深刻そうな彼女の顔に流されるわけもない。何しろ私は、この学校に在学して三年目なのだから、このような演技にも慣れきった。
それか彼女は何度も私のような訪問者を相手にしており、それに辟易しているのかもしれない。つまり、第三者のただただ迷惑な悪戯だったという落ち。ならば私の態度は少々申し訳のないものだった。
彼女はしばし黙考したかと思うとこんな提案をした。
「えっと、知っています。けど今は……そうです、よければ明日またこの時間に来てくれませんか。そのとき説明します」
私は快諾をした。いったいどんなシナリオで、このアマバタ様どんなものか、そうして転がされていくお話が気になったからだ。
意味の分からない巻きこまれ方や嘘かどうかも分からないことがなければ、こんなふうに付き合うのもやぶさかではなかった。イベント事は好きな方なのだ。だからこの大学を選んだとも言える。
それに名も知らぬ彼女と、お近づきになれるかも知れぬという下心もなかったわけではない。
総じて、色んな要素が絡み合った快諾であった。
私は彼女のいた部屋を後にして、下着を中島から受け取り帰途についた。
翌る日、私は割合早く目覚めた。その日は昨日に比べて暑かったのだ。家を出る前に伊丹の部屋に寄ってみたがまだ帰って来ていないようだった。そう言えばいつ帰って来るのか聞きそびれた。連絡してもいいが、それでは自分が伊丹の彼女か何かのように思えて気持ち悪いのでやめた。
確か彼女と話したのは十一時頃だった。私は大学に向かい、またシャワーを借り、借りた下着を返して新しく下着を借りた。そのあとは時間まで掲示板の前で時間を潰し、あの部屋の前へと向かった。
扉の前に立ち、二回のノック。三回のノック。返事はない。こちらから呼びかけてみるもそれでも何もなかった。
扉の引き手に手を掛けると簡単に戸は開いた。そこに彼女の姿はなかった。
昨日見たままで、何もないと言ってよかった。脅かすように棚から何かが落ちてきた。ボールペンだった。部屋に入り拾い上げ、机の上に置いて部屋を後にした。
●
「担がれたな。見事に」
伊丹はふてぶてしく言った。そしてククッといやらしく笑った。
帰省から戻った伊丹と共に、例によって伊丹の部屋で飲み会をしていた。伊丹は三日経って帰ってきた。その夜である。
いなくなった彼女のことを伊丹に話すと、至極当然の批評となって私を貫いた。
「ありがちなショートホラーだな。生徒の名簿でも調べてみろ。きっと彼女はいないか、それか何十年も前の生徒だったって落ちになる。もしくはお前の妄想。それもありだ」
伊丹が缶チューハイを呷る。
「それは何て映画だ」
私は毒づくように言った。
「ふん。ただまあ、そういうことだろう。くだらなくて古典的だが精神的にくるものがある。恐怖の面ではないがな」
伊丹の言うことはもっともだった。私は憐れなピエロである。この話はそう自己紹介したようなものだった。
「しかしお前も馬鹿だな。一昨年去年と巻きこまれ、それで尚も自ら悪巧みの中に飛び込むとは」
「黙れ。舌を抜くぞ」
このようにして伊丹にいいように言われているのからして私は被害を被り、精神を乱されていた。
「ところでアマバタ様って知ってるか」
私は話をそらすように伊丹に聞いた。
「さあな。それもただ興味を引くためだけのものだろ。どうせ調べてみたんだろ」
「ああ。何も分からなかった。しかしな、これで終わりだと思うか?」
「つまり、何だ、そのアマバタ様だったり、女生徒だったりを調べることで新事実が……って言いたいのか。それこそ何て映画だ」
「そうだ。これで終わりなんて矜持に欠けるとは思わないか」
すると伊丹は少し俯いて何か考えていた。
「去年の惨劇を知ってるなら、去年と同じ時期にこんなチープなことをするのは勇気がいるか」
「そうだろう。だから伊丹、お前も手伝え。きっと面白いことになる」
「勘か?」
「いや、二年以上も巻きこまれてきた経験則だ」
伊丹は鼻で笑い、缶チューハイを飲み干した。
「付き合ってやる。どうせ暇だし、お前の推論にも一理あるからな。それに」
「それに何だ」
「お前、この大学を受けた理由は?」
「面白そうだったから?」
「俺もそうだ。上野ってやつもそのはずだ。ならばこれで終わるはずもない」
伊丹は私の説に同意したようだった。
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