亡国の誕生

九重智

一章 亡国の影

一節 半身

ep.1 ふたりの少年

 その夜も、例のごとく武雄は和館の通用口から靴を持ち出して、しばらく内庭で時間を潰した。


「あら、また庭を見ているの?」


 飛び石を大股で跨ぎ、手水鉢や石灯篭の苔むした様を眺めるうち、入浴からかえった母の早苗が隣棟の縁側から声をかけた。


「うん」と武雄は頷いた。化粧を落とした母親の顔つきは武雄でもすこしぞっとして、細く冷淡な目つきなどは息子にむけるそれではなかった。武雄は俯きながらこっそりとまた手水鉢を見つめた。手水鉢の裏には武雄の持ち出した靴があった。手水鉢と松の木との重なり合った陰の暗闇のなかで、革靴の磨かれた光沢はきらりと光った気がした。それでもきっと、早苗からは巧妙に隠されたはずだった。


「相変わらずのひいおじいちゃん子ね、武雄は。いくら可愛がっていただいたからってそんなに毎晩庭を慈しむこともないのに」


 早苗は目つきとおなじ口調で言った。


「だってここと芝庭と花畑はひいお祖父ちゃんがとくに口出したところでしょう?」


「あら、テニスコートを馬場にしてくださったり、自家用の発電所をつくろうと仰ってくださったのはお祖父様だわ。芝庭と言ったってだだっ広い芝だけだし、花畑も薔薇やらカーネイションやらを植えているわけではないの。武雄には悪いけれど、お母さんは曽祖父さまより祖父さまのほうがご立派だと思うし、好きよ。……あと、いくら曽祖父さまと相思相愛だからといって『さま』をつけないのは感心しないわ」


「うん、気を付けるよ」


 武雄はわかりやすく微笑んだ。しかしその子供らしい微笑みが、眠気混じりの母親をかえって嫌な気にさせた。


『ほんとう、腹の底では何を考えているのかしら。こんな純真無垢な顔をして、いったい誰のどこに似て……』


 武雄は、すくなくとも母の目には、市原家らしい冷徹、無感情、利発の男子であった。市原家の子どもには積極的に人を騙そうとする小物じみた詐欺師の性分は必要ないが、いざとなれば合理的に切り捨てる沈着さは必要であり、機械的な人間であるべきである。早苗が懐かしんだ武雄は勉強にしか興味がなく、ときおりオペラや海のある避暑地に連れていっても、実に情感のない、つまらない顔をしたはずだった。


 けれどもここ最近、ここ数年の武雄はどうだろう。無論、この頬笑みは仮面ではあるが、そのなかにどこか怪しい気配がある。早苗は訝った。訝ったが、結局、何も言わずに寝室へ去った。息子らしいことをするなとは、口が裂けても言えなかったのである。


 ――――ランタンの灯りとともに衣擦れの音が遠ざかっていく。武雄は死んだふりのようにじっとして、早苗を見送った。


 灯りも音も及ばなくなると武雄はこそ泥のような神妙さで革靴に履き替えた。本来、内庭だけなら下駄で構わなかったが、和館を離れるとなると靴のほうが勝手が良い。何より向かう道中に鼻緒が千切れてしまっては裸足で歩かないといけず、汚れた足の言い訳が面倒だった。


 内庭を抜け出すと、武雄は庭園を突っ切るように駆け抜けた。道中では、茶室や、馬場や、芝庭、あといくつかの亭があったが、それに一瞥もくれずに真っ直ぐに花畑を目指していた。大きく曲折した道々がまどろっこしく、コオロギやキリギリスの鳴き声が自分を探し出そうとする警笛に聞こえた。空に浮かぶ満天の星々や月でさえあまりにも呑気で苛立った。彼の味方は夏の夜に吹く、気まぐれな涼風のみだった。


 夜の花畑は四つの外灯に照らされた。それぞれの、たとえば黄いろのマリーゴールドや赤紫の朝顔や白百合や紫陽花などは黒々とした背景に映え、日のあるうちより強い色調で咲いている。花畑の中央には狭い十字路があった。その真ん中でアキラの若干に低い背丈が見えた。さながら、舞台の一幕のように佇んでいた。


「武雄さま……」


 アキラは近寄った武雄を認めると、喜びより心配の勝った調子でつぶやいた。


「よしよし、ちゃんと会えたな。さ、今日やった授業について教えてやる。散歩しながらやろう。お前はそこらへんの奴らより頭が良いんだ。勉強しなきゃ勿体ない」


「武雄さま、やはりこういう風にして会うのはやめましょう。見つかって、叱られもしたら大変です。私自身も肩身が狭くなります」


「使用人と会ってはならないなんて法はないさ。実際、兄さまなんかはほら、あそこ。あそこの亭で紗世とべたべたと語り合っていたんだ。しかも昼間っから。それに比べればこっちは友情の類で、家の婚姻なんかには無関係だからやさしいもんさ」


「しかし、紗世さまと私は事情がちがいます。私は……」


 アキラはそこで言葉を途切れさせた。


 こんな一瞬の沈黙が、いまの武雄にはひどく刺さった。武雄は市原家という陽国有数の財閥の次男に生まれ、それだからある種の複雑な境遇に慣れていたはずだった。実際、武雄はさきほどの母親の睨みにわずかな恐怖こそあれ、良心が痛むなどはなかったし、学友のつまらない嫉妬の皮肉を言われても、自分の生まれを恨んだことはなかった。しかしこういうアキラの自己卑下的な発言だけは、大怪我した半身を鏡で見つめるような、やるせない辛さを感じた。


「そういえばお前に見せたいものがあったんだった。ええと、ほら、これ。どうだ」


 沈黙に窮した武雄は寝巻きの帯を探り、そこから巾着袋を出した。紺の格子柄の袋にはふたつの小さな玉があり、手のひらにのせて灯りに晒した。ひとつは緋色で、ひとつは藍色だった。どちらも、くすみというくすみがなかった。


「ビー玉ですか? 綺麗ですね」


 アキラの言葉に、武雄は嬉しそうにかぶりを振った。


「いや、ビー玉じゃない。これは『魔石』だ」


「魔石?」


「ああ。いまの時代の最先端さ。知らないだろう? 本でも、学校でも、新聞でも魔石については誰も教えてくれないさ。けれどもこんな玉がいまや世界中から欲しがられているんだ。仮にお前がこれを外に持ち出して、資本家や将校や政治家や研究者に知られてみろ。きっと全力でひっ捕らえようとするだろうな」


「そんなに怖ろしいもの……」


 アキラは普段のやさしい顔を曇らせた。


「怖ろしいのかどうか、それは知らん。いや俺もお父さまが役員と話をしているのを盗み聞きしただけなんだ。よく理屈はわからんが、この魔石はあらゆる物の効力を増大させるらしい。たとえば銃にはめ込めば一発の威力が増して、電球にはめ込めば太陽みたく明るくなるんだ。これを世の権力者は血眼になって争奪し合っているのさ。気になるだろう? だから俺は書斎から持ち出したんだよ」


「旦那さまからお盗みになったのですか!」


「ちょっと拝借しただけさ。明日の朝には返す。それより俺はこれを見てある計画を思い立ったんだ。それはな、いつかこれの権利を牛耳って陽国の実質的な最高権力者になることさ。最高権力者になって国を変えるさ。アキラ、お前は副社長だ、俺の右腕だ。そうすればお前も……」


 武雄はつづきを、心のなかでつぶやいた。


『お前も、もうすこし生きやすくなるだろう』

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