他愛なき

一ノ瀬悠貴

ちっぽけな一歩

「今日は休みでいいよ」出勤直後の課長の一言は、僕を呆然とさせた。なんでもシフトの手違いで人手が余ってしまったらしく、それまで有給を消化していなかった自分に、ドタキャンならぬドタ休の白羽の矢が立ってしまったらしい。

 有給を頂けたのは確かに嬉しい。しかし、会社まで脚を運んで「さあこれから仕事だ」と意気込んでいたところで言われると、嬉しさと一緒に戸惑いの感情も押しかけて来た。頭に浮かぶ「これから一日どうしよう」というクエスチョン。幾つも浮かんだ選択肢から果たして選んだのは、「知らない場所に行ってみたい」という欲求だった。

 出勤する度に職場の窓越しに映り続ける新幹線の線路。左から右へと高速で駆け抜けていく車体を見ながら連日勤務に追われているうちに、僕の中で「この線路はどこまで続くのだろう」という疑問が湧いて出るようになった。もちろん終点の駅がどこか、どんな景色が広がっているかなんて、今どきネットで検索をかければブラウザ越しからでも眺められる事くらい理解はしている。でも、僕はこの生きている目で景色を拝みたい。親から授かったこの両足で、その舗装された地に脚を着けたい。仕事漬けで久しく萌えていなかった欲求の芽。これを育てる絶好の機会を摘み取るなんて、この時の僕には出来なかった。

 駅までやって来た。周りを見渡せば、くたびれた背広服姿のサラリーマンや制服をまとった学生の集団やらが、縦横無尽に改札口を行き交っている。ついさっきまで自分もこの雑踏の流れの一部だったのに。改札前のお手洗いの鏡で、自分の顔を見つめる。抑圧から解き放たれたソレは、自分で言うのも何だが若返っているように見えた。

 券売機で終点までの切符を買う。往復にして約三万円。駅に着いてからの予定だって未定。下手したら行って帰ってで終わりになるかもしれない。

 ああ、いいさ。それでも構わない。欲望に従った今の僕は、無敵状態なのだから。

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