春の夕暮れ、正門を抜けた先で

 明けない夜はなく、受験生にも一度は終わりがくる。

 卒業式はその終わりの時期を互いに明かさないためだろうか、結果が出るよりも前に行うのが常だった。

 地方に住んでいると、合格発表の張り出しを見に行くという経験は基本的になく、ホームページ上に並ぶデジタルの数字から自分の受験番号を探す。それはもう目を皿のようにして探す。見落としはないか、見間違いはないか。ぬか喜びにならないように慎重に。その作業は孤独だが、孤独だからこそ救われるときもあった。


 その日の朝十時、小松は教室の隅でこっそりと自分が受けた大学のホームページを緊張した面持ちで開いていた。まだ国立大学の後期試験のための勉強はあり、今日も補講のために登校していた。通常であれば、携帯電話は使用禁止だが、すでに卒業式を終えた生徒が合格発表を見ることに限っては教員も黙認してくれるようだった。


(237番、237番……)


 受験番号の書き間違いや、名前の書き忘れがない限り確実に受かっているという自信があった。小松の実力であればもう少し上位の大学も目指せたのではないか、と教員も親も言ったが小松は「鶏口になる!」と宣言をしてそれらをすべて突っぱねた。今の住まいよりは都会にある大学だが、帰省もしやすく、自分のレベルよりは少し低めというのが小松の条件だった。帰省がしやすいところ、という部分で最終的には親も折れた。


(あった)


 番号を見つけてほっと息を吐く。もうこれで受験勉強をしなくてもいい、という解放感がじわじわとせり上がってきた。自分なりに受験に打ち込んできた時間が報われたと思い、心の底から安堵した。そして、一緒に同じ孤独を分かち合いながら受験勉強をしてきた永井のことを考える。


(永井、どうだったかな)


 永井が受けた大学の合格発表は数日後だと知っていた。今よりもずっと都会にあるハイレベルな大学を受けた永井とは、卒業式以来会っていない。補講にも来ていないらしい、というのを風の噂に聞いた。だが、自分だけ結果が出ている今、永井には会えないと思った。

 会うのが当たり前で、連絡先を交換してすらいなかったことを今さらのように後悔した。





「預かった物があるの」


 数日後、最後に挨拶をしようと図書室の横にある教員控室をのぞいた小松に、学校司書の堀江が言った。彼女と火元責任者を務めていた英語教員のおかげで早朝の図書室が利用できていたため、最後に感謝の意を伝えておこうと思った小松は驚いた。堀江が渡してきたものは茶封筒だった。表には小松へ、と書かれており裏には素っ気ない字で永井と書かれている。


「ありがとうございます。でもなんで堀江さんに預けたんでしょう?」

「私も直接渡した方がいいんじゃないの、って言ったんだけどね。聞いてもらえなくて」


 私が先生じゃないから預けやすかったのかもしれないけど、と苦笑して堀江は小松に「合格と卒業おめでとう。元気でね」と手を振った。

 下駄箱で下足に履き替える前に開けた茶封筒の中には『今日の17時、正門で』と走り書きのようなメモ用紙が一枚入っていた。思わず時間を確認すると、もうすぐ17時だった。どうしてこんなぎりぎりを攻めるのか、と思いながらスニーカーに足を突っ込むと小松は慌てて正門まで走って行った。


 正門を抜けた先に立っている永井はすぐわかった。すらりと伸びた手足が夕陽に照らされて長い影をつくっていた。永井は小松の足音に気がつくと顔を上げて、


「いきなりごめん、連絡先知らなかったことに気づいてなかった」


 と言った。誰かに訊けばよかったのに、と小松は思ったが、小松の許可がないところでそういうことをしないのが永井なのだということくらいは知っていた。


「ずっと一緒にやってたのに、何も言わないのも悪いかと思って。……それと、小松の結果は風の噂で聞いた。おめでとう」


 バツが悪そうに言う永井に、小松はなんとなく結果を察知する。だが、永井が義理堅い性格をしているのも知っていた。


「ありがとう。でも別に、いいよ。永井が言いたいなら言えばいいし、言いたくないなら言わなくていい」


 小松の言葉を聞いた永井は一瞬、迷うそぶりを見せた。小松も明確に永井が言葉にしなければいいのに、と願った。だが、永井はぎゅっと口を真一文字に引き結んだあと、おもむろに解いた。


「だめだった」

「……」


 たった五文字が夕暮れに照らされたアスファルトに吸い込まれていく。永井は今日、何人にこの報告をしたのだろうか、と考えて小松は気が遠くなりそうだと思った。頑張ってるやつが報われる世の中だといいのに、と冬の寒い日に言った永井のことを小松は思い出した。


「もう一年、やることも決めた」

「ありえないって言ってたのに」


 小松がぽつり、と言うと永井は「そうだよな」と笑った。


「あんなに疲れるクレイジーなことをもう一回やるなんてどうかしてるって自分でも思う」

「うん」

「でも、それ以上に負けっぱなしだと悔しい」


 ――まだ頑張りが足りないって突き付けられたまま終われない。


 手負いの獣のようだと小松は思った。手負いのまま再び走ることを永井が選択したこともわかった。きっと、傷だらけのまま再び走り出す永井は美しいだろうということも。


「応援する」

「ありがとう。それで、一つだけお願いがある」

「? なに?」

「小松の新しい住所教えて」


 小松は地元を出ることが決まっている。もう新居の契約も済ませ、今はゆっくりと荷造りをしていた。


「住所?」

「電話とかアプリのIDだと交換しても連絡しないと思うから」


 永井の言葉に小松は苦笑した。連絡先を交換していなかったことに気づいていなかった二人だと確かにそうなるだろうということが容易に想像できた。そして、永井と小松のこれからの一年は決定的に異なることも。


「一年後に手紙書く」


 永井はそう言った。きっと一年後にどうあっても手紙が来るのだろうと小松は思った。義理堅い永井がその約束を違えるとは思えなかった。


「たった365日くらい、やりきるよ」

「それをたった、って言える永井はすごいよ」


 小松の言葉に永井は笑顔を見せた。その笑顔を見て、すごい人だ、と永井のこと改めて評する。そして、とりあえず受験の神様に向かって、これからまた孤独に努力を続ける友人の未来が明るいものになるように、と小松は胸中でひそかに祈った。


 長く尾を引く春の夕暮れに、甘い沈丁花の香りが漂っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

冬の朝、図書室にて 春の夕暮れ、正門を抜けた先で 朝香トオル @oz_bq

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ