東京メトロに乗った吸血鬼

oniwa-pan

短編2作目


 私は東京メトロで吸血鬼に出会った。そのとき私はメトロの座席に腰掛け、メンタルを整えてくれるというチョコレートを貪っていた。時刻はちょうど午前0時になったところだったけど、メトロの車窓の眺めはいつもと同じで、時間の観念がなかった。

 私は前日の三島との喧嘩のことを考えていた。三島はテーブルに並べられた料理が冷凍食品であることに気づき、私の手抜きをなじった。ドストエフスキーの小説中の人物みたいな長広舌だった。私は栄養学的な観点から反論を試みたものの、三島はそれを一蹴し、ますますドストした。三島はオーガニック野菜の優位性を信じていて、しかも野菜はたいてい生のまま食べる。人参だって皮も剥かずにぽりぽり齧る。だったら、何も調理せずに生野菜を出してやればいい、と思ったけど、三島がそんな家畜の餌みたいなものを食べているところを見たくはなかったから、今のところ踏みとどまっていた。これはむしろ私自身の尊厳の問題だった。

 同じ車両には、女が二人、男が三人いた。私は壁の高い位置に貼られている路線図を見た。一番目を惹くのは、赤色の丸の内線だった。東京の地下に流れる血管。血液の色はターミナル駅ごとにオレンジ、紫、緑などに模様替えする。外国人向けのガイドブックには、このように書かれている。「東京の地下鉄は複雑な構造を持つ。その形状は線路というより『面』路と呼ぶのがふさわしい」。

 私はイヤホンをつけていたから、発車メロディも、自殺防止用のホームドアが滑らかに閉まる音もほとんど聞こえなかった。私は全般的に退屈だった。慣れた指の動きでツイッターを確認したものの、三島は何もつぶやいていなかった。おそらく三島は私が知らない別のアカウントを持っていて、そちらの方で昨日の私の態度を批判しているのかもしれないけど、その事実を確認することはできなかった。電車は四ツ谷駅で息継ぎをするように地上に出て、そのあと再び地下に潜った。考えてみれば、地下鉄にはそれぞれ高低差があるわけだから、路線図も平面ではなくて立体的に捉えるのが正確なのかもしれない、と思いながら、私は人差し指と中指で前髪を梳くように触った。

 ふと、向かいの窓の反射を通して隣の男と目が合った——私はすぐに視線をずらして前髪の動きを再開したけど、隣の男がまだ私を気にしていることはわかった。

 男は、あ、と言った。向かいの席の乗客が少し顔を上げた。それくらいの声量だった。もしかして劇見てたんですか、と男は言った。男は私のカバンからはみ出ているパンフレットを指差した。自分も見に行ってたんですよ、劇。よかったですよね劇、と男は言った。

 意外なことに、私は困惑だけでなく、うっすらと(本当にあるかないか程度のものだけど)退屈が破られることへの期待を感じた。ええ、そうです、よかったです、と私は言った。すると男も、やっぱりそうですよね、よかったですよね、と言った。男は私との間で共通項を確認できて、ひとまず安心したようだった。

 男がモーションをかけてきていることは明らかだった。そんな気なんてないけど、もし私がこの男の誘いに乗ったら三島はどう思うだろう、と思った。三島は今オフィスにいて、後輩が提出した報告書に目を通しているはずだった。たぶん三島は私が数時間前に送ったLINEに気づいていて、でも特に内容がないものだし、今すぐに気持ちの温度感を共有する必要はないなと思ったから、そのまま放置していた。

 男は相変わらず私に話しかけ続けていた——劇のどこらへんがよかったですか、もちろん全体的には面白かったと思うんですけど、俺にはちょっと難しくて、よくわからないなってとこあったんで。やっぱり難しかったですよね? よくこういう劇は見るんですか、なるほど、友達が出てたんですね。あ、でも、ほら、役者は全員頭に段ボール箱被ってたじゃないですか、しかもサイレントだったし、だから、結局誰が誰なのかよくわからなかったんじゃないですか、ですよね?

 私は頷いた。本当は友達ではなく、推しが出るから見に行ったのだけど、初対面の人にいきなり推しの話をするのはあれだし、小さな劇団に推しがいるなんていかにも痛いファンって思われそうだから、適当なことを言った。会話の間、私は顎の裏にあるニキビをつねり、潰すギリギリのところで止めるのを繰り返した。初対面同士ということから生じる刺激はもうすっかり弱くなっていて、再び切れ目のない退屈に浸かり始めていた。私は劇団の情報を調べるという名目でスマホを取り出し(本当は全部知ってますけど)、ツイッターを更新した。たちまち、最新で断片的な情報が、ぬるい快楽となって私を満たした。劇の内容についての私のつぶやきに、oniwa-panさんが数分前に反応していた。「辛口すぎ笑 でも段ボール箱かぶってても、推しなら動きでわかる。自明」。私とoniwa-panさんは同じ劇団が好きで、よくじゃれつくような無害のやりとりをする。直接会ったことはなかったけど、アイコンが港町と漁船の写真であるところから、なんとなく年上の女性を想像していた。私は儀礼的に〈いいね〉をつけてから返信をした。「ていうか、段ボール箱ってなにって感じですよね! 今回は有名な脚本家がついてたらしいですけど、ちょっと迷走してるなって思っちゃいました!」

 私がスマホを操作している間、隣の男は視線をどこに向けたらいいのか迷い、結局、向かいの窓にくぐもって反射する自分の姿を見ている感じだった。男はたぶん、放置されていることに小さな屈辱感を感じていた。それは自分がコミュ力高い系であるという自己イメージの崩壊を予見して——私は男のことをよく知らないけど——のことかもしれない。

「何か見つかりましたか」と男は私に言った。私はようやく顔を上げて、「いや、見つからないですね、あ、でも段ボール箱を頭に被るの、今けっこうバズってるみたいですよ、ほら投稿がけっこうたくさんあります」と言い、スマホ画面を男に提示した。

「ほんとだ、そうみたいですね」と男は言った。「この箱の外に私服の一部が出てるのが、なんかわざとらしいな、うん。こうやって流行に乗ろうとする人ってどうなんですかね。なんかカッコ悪くないですか」

 私は、どうなんでしょうか、と言い、気まずさから視線を外した。電車は中野坂上駅のホームに着き、窓の外が明るく切り替わった。その時ちょうどスマホが振動した気がしたけど、それは勘違いで、三島からの通知は来ていなかった。

 私はぼんやり前日の口論のことを思い出していた。そういえば三島は口論の最中、ずっとキッチンのシンクに視線を落としていた。三角コーナーには三日以上放置されている生ゴミがあった。ピーマンの頭やゴボウの皮、私が昼に食べ残した「トマトの旨み広がるナポリタン」(税込258円)などが混ざり合って、底には臓器のような、くすんだ赤茶色の液体が溜まっていた。そのゴミは三島が今朝、部屋を出た時にもそのままだった。

 私はスマホをパンツの前ポケットに仕舞い、その上に右手を置いた。スマホの筐体の形が四角く浮き出ていて、なんかここだけ硬い筋肉、と思った——すると指の中で、今度は本当に、スマホが振動した。スマホの振動とSNSを開く行為との間には条件反射的なつながりがあって、私はときどきこのつながりを断とうと思うのだけど、やはり今回も何かを考える余裕のないままホーム画面を確認した。oniwa-panさんからのメッセージが来ていた。私は隣の男と会話をしながら、oniwa-panさんに対する返信を打ち込み始めた。

 隣の男は、私が気もそぞろになっていることに対し苛立ちを感じているみたいだった。男は、ああ、と、うう、の中間のような声を出した。私はぎょっとして男の顔を凝視した。何か異様なものが、男の体から飛び出してくるような気配がした。

「俺、実は吸血鬼なんです」と突然言い出したとき、男自身驚いていたし、私も男の正気を疑った。

 私はちょっと眉を寄せて「え……まじですか?」と言った。

「……すみません、まじです」

「よくわかんないですけど、吸血鬼って、あの、血吸うやつですよね?」

「はい、そうです。あの血吸うやつです。すみません、俺さっき、今も吸血鬼だってニュアンスで言っちゃったんですけど、でも正確に言ったら、昔たった一日だけ吸血鬼だったってだけです。それに血を吸ったりしてたわけでもないんです。その意味で、俺はすごく観念的な吸血鬼だったんです」

 男はようやく私の方を向いた。

「この話、実は誰にも言ったことなかったんですけど、なので口滑っちゃったなあって思ってるんですけど、聞きたいですか」

「まあ、はい、そうですね」と私は言った。なんとなく聞いてほしいんだろうなと思ったからであり、それに、この男の魂胆を暴いてやろうとも思っていた。

「わかりました、えーっと、俺がそれになったのは、大学一年生の頃でした。ある朝、フルグラに牛乳かけてたときでした」

 男はちょっと砕けた感じに笑った。自分が語るモードに入りつつあることがわかったので、自意識が強くないことを私にアピールしたくなった、という感じだった。

「俺はけっこう、あの作業に気を使うんですよ。麦を全部牛乳に浸したくなくて、2割くらいはざくざくの食感残したいんですよね。だからボウルにフルグラ入れるときも、ちょっと山っぽくして高低差つくるんです。そしたら麦が全部浸されずにすむんで。で、その作業中に、突然気づいたんです、ああ、俺、吸血鬼じゃんって。なんでかはよくわかんないです、ただ気づいたってだけです。とにかく気持ちのいい、完璧なスイングみたいな閃きでした。でもそれで即、社会不適合者になったわけじゃなくて(まあ今はフリーターみたいなもんですけど、はい)、そのあと普通に大学に向かいました。で、教室に入って友達と話してたら、あれ、なんか違うなってなったんです。小学校の同級生とか久しぶりに会った親戚とかから、昔のフィルターを通して自分を見られたときの、あの感じに近いです。吸血鬼になる前の自分と、なった後の自分はぜんぜん違うはずなのに、同じ扱いをされたのがなんか違うなって感じだったんです、うまく言えないんですけど。でも、そういったことってありますよね?」

 そこで男は黙った。別に私の反応を期待しているわけではないみたいだった。喉仏がちょっと痙攣したみたいな感じで動き、男は再び話を始めた。

「自分が吸血鬼なんだって意識すると、なんか急にいろいろどうでもいいよなって思えてきました。たぶん、もともと退屈は感じてて、でも、これまではそれに耐えられたと思うんですけど、でも俺、吸血鬼だし、別に無理しなくていいじゃんって思ったんです。内面変えれば世界を変えられる、みたいな自己啓発本でよくあるテーゼが真実だったんだ絶対、って思いました。俺はその日のうちに、母親に『大学辞めたいんだけど』って言いました。『なんで?』と母が言ったので、『特に理由ないけど。別に退屈だし。強いて言えば、俺は吸血鬼だから』みたいなことを言いました。

『待って、吸血鬼って何?』

『いや吸血鬼は吸血鬼でしょ』

『あの黒マントでニンニク嫌いなやつ?』

『うん』

『なんでそれが理由になるの? 意味わかんない』

『吸血鬼になったから、としか言えない』

『……わかった、わかった。降参する。で、ほんとの理由は?』

『吸血鬼になったから』

みたいなやりとりがあって、結論は出ませんでした。まあそれもどうでもいいことでした。大事だったのは、俺がこれから何をするかってことでした。Wikipediaによれば、吸血鬼の伝承はルーマニアに起源があるっぽかったので、とりあえずルーマニアを目指すことにして、ドイツ経由の航空券を取りました」

 男は話しているうちに、どんどん元気がなくなっていくようだった。あるいは注意が散漫になってきたのかもしれない。男は視線をさまよわせながら、鼻の軟骨を何度かつまんだり離したりした。

「そのままネットサーフィンしてると、ルーマニアの独裁者チャウシェスクとその夫人が銃殺された映像にたどりつきました。俺は一平ちゃんの細麺をほぐしながら、その映像を見ました。その映像は当時、お昼頃に生放送されたものだったので、ルーマニア国民たちも同じようにご飯を食べながら放送を見ていたかもしれないな、と思いました、わかんないですけど。急に映像が処刑直前に夫人が絶叫しているシーンに移ったので、俺は慌てて音量を下げました。音量はすぐに下がらずに、一拍遅れてかくんとフェードアウトしていきました。俺はチャウシェスクらに対して居心地の悪い同情、みたいな気分になりました。チャウシェスクの罪状を調べてみると、『6万人を殺害したこと』その他もろもろの事実がわかったんですけど、でもそれがわかっても、俺の意識はスマホの向こうにもこちらにもないような、中途半端なままでした。俺の吸血鬼的なマインドに水が差されたのは確かでした」

 男はそう言って、電車のドアを見つめた。日本語の車両アナウンスが、英語で繰り返された。私は話に対する関心を失いつつあった。頭がぼんやり溶けて、なんだかゼラチンみたいに、車内の空気と一体になってる感じだった。車両アナウンスが消えると、男は話のオチを言った。

「で、翌朝、目が覚めると、俺はもう吸血鬼じゃありませんでした。ルーマニアへの航空券もキャンセルしました。それ以来、俺が吸血鬼になったことはありません」


 私は次の駅で電車を降りた。なんとなくLINEの交換にも応じたけど、特にやましさは感じなかった。男のアカウント名は単に「石川」で、ひとこと欄には「芸人やってます」と書かれていた。芸人さんなんですね、と言うと、はい、すみません、と男はなぜか謝った。

 男を乗せた電車が消えると、私はなにか甘いものを食べたい気分になって、途中コンビニに寄った——そこはずっと昔に、一か月だけバイトしたことのある店だった。私は何も買わずに、マフラーを襟みたいに立てて、できる限り顔を沈めた状態で外に出た。これまで気をつけていたのにうっかり立ち寄ってしまうなんて、疲れているに違いなかった。昨日あまり眠れてなかったせいだ。

 昨日の三島の怒りは突発的なものだったけど、その怒りの流れもすぐに別の思いに変わっていったみたいだった。もしかしたら三島は少し泣いてたかもしれなかった。三島は洗面所に入り鍵を閉めた。そこしか独りになれる場所がなかったからだ。私は素足で扉の前まで近づいて、言った——今週末の旅行のことだけど、宿の予約はしといたから、その点は大丈夫だから、心配しないで、大丈夫? ごめん、また話そうね、問題ないから。

 私は駅からアパートまでの道を歩きながら、自分の耳の、かつてピアスを開けていたところの小さなしこりを触っていた。これまで何百回と歩いてきた道で、これから何百回と歩くはずの道だった。ふいに男の吸血鬼の話を思い出し、その話を信じてみたい気分になった。でも、自分が吸血鬼になってみたいかまでは、よくわからなかった。

 商店街を抜けると私たちのアパートが見えてくる。郵便受けの蓋を補強したガムテープは劣化していて、あまり触りたくない。スルーして階段を上った。もうすぐ玄関だ。私は立ち止まり、「吸血鬼吸血鬼」とつぶやいた。



 三島が職場に入ってきたのは、もう五年も前の話だ。

 経歴だけで言ったら私の方が先輩ということになるけど、正社員の三島は一年目から私の上司だった。

 翌月の社内報には新人社員のプロフィールが掲載された。社内報なんて読まずに捨てるのが普通だけど、昼休憩の合間になんとなく流し読みしてみた。小学生の三島がバットを持っている写真と、「大学までずっと野球やってました。これからは日本一の空気清浄機売りを目指します!」というコメントが目に止まった。コメント欄の枠が漫画の吹き出しっぽくなってたせいで、坊主頭の男の子がすごく現実的なことを言ってるみたいだった。

 三島の仕事は、名簿の電話番号にしらみつぶしに電話をかけ、空気清浄機を販売することだった。三島は電話相手の罵詈雑言をメモしては印刷し、シュレッダーにかけていた。「俺なりのストレス対処法なんです」と三島は言っていた。「〈邪魔〉とか〈クソ〉っていう言葉がバラバラになってくところを想像してるんです」

 私と三島が住んでいる部屋にも、空気清浄機はあった。私が退職するとき(つまり契約の更新切れのときってことだけど)、会社からタダで譲り受けたものだ。

 置き場所がないので、空気清浄機はとりあえずクローゼットの前にある。

「ねえ、この場所だとさ、扉が半分しか開かなくならない?」と私は言った。

「それはそうなんだけど。でも狭いから効きはいいはずなんだよな」と三島は言った。

「音もなんかするし、眠るときに気になると思うんだけど」

「それなら布団の位置、俺のと交換してみるか」

「別にそこまでしなくていいよ」

 三島は朝起きると、必ず水をセットし、電源を入れる。私はいつも空気清浄機の音で目を覚ます。

「おはよう」と三島は言う。「行ってきます」

 三島が玄関扉を閉める音を遠くに聞きながら、私はなんとかあの心地いい、半分起きて半分眠るモードに戻ろうとするけど、うまくいかない。それもこれも空気清浄機のせいだった。


 マクドナルドでポテトのMを頼んだら、明らかにLサイズのものだったけど、まあいいや。

 フードコートは混んでいて、回遊する魚みたいに、人々がテーブルの間を動いていた。私はゴミ箱横のカウンターに座り、文庫本を開いた。脳内で文字と音が衝突するから、外での読書はちょっと疲れる。何かを被って遮断したい、と思った。段ボール箱とか、意外にいいかもしれない。

 赤と白のストライプ柄のストローにはポテトの塩味が移っていて、でもどうせ口で混ざれば同じだろう、と烏龍茶を一気に飲み干した。

 フードコートを出たところで、妹の奈緒美から着信があった。

「映画を観に行こう」と奈緒美は言った。

「いいよ。何か観たいやつあるの?」

「特にないかな」

「そう、じゃ何でもいっか」と奈緒美は言った。「池袋のTOHOシネマズで合流しましょう」

 午後八時に映画館の入口に行くと、奈緒美はすでにいた。彼女は毛皮のコートを着ていて、肩から革のハンドバッグを下げていた。私が手を上げて合図をすると、彼女もすぐに気がついた。

 レイトショーを観終わった後に、「ちょっとドライブしてこうよ」と奈緒美が言った。あれ、車持ってたっけ? と聞くと、実はレンタカー借りてきたと奈緒美は言った。車種はハイエースだった。どうせなら速度が出るやつに乗りたくてさ。

 首都高は、東京に張り巡らされたもう一つの毛細血管だ。東京は坂が多いので、アップダウンもある。いつもより車高が高いせいか、速度がゆっくり感じられるけど、すでに一〇〇キロ以上出ていた。

「やっぱりドライブ好きだな」と奈緒美は言った。「私はたぶん、移動性の人間なのよ」

「その割にはずっと東京にいるよね」

「まあ、そうだね。でもさ東京には故郷の感覚がないじゃん。定まった感じがしないっていうかさ。いろんなものが切り離されてるし、高速で動いてる」

 ハンドルを握って正面を見つめる妹の姿が、思いのほか母親に似ていた。顔のパーツが一致しているというより、もっと根源的なところで、二人は似ている気がした。同じところから生まれる二つの表象のようなものがあって、そのゆらぎをみていると、不意に「ああ、これは似ているな」という理解が差し迫ってくる、みたいな。

 妹が移動性の人間なら、母は定住性の人間だった。

 母の定住地はたいてい、一階リビングにあるパソコン前と決まっていた。母は、ライフゲームというレトロなPCゲームを好んでいた。画面は碁盤目のように格子状に分割されていて、その中で一つ一つの枠=セルが生きたり死んだりする。

 セルは、隣接する空間に他のセルが多すぎると死ぬし、少なすぎても死ぬ。適切な数のときのみ、セルは生き延びて、数を増やしていく。人間の群れと同じだよ、と母は言った。

 どういう仕組みでそうなるかはわからなかったけど、セルの群れはときどきアメーバみたいな特定のパターン行動をとった。座標の果てへ、孤独に進んでいくこともあった。


 どこ行こうとしてるの? と私が言うと、とりあえず東京の外へ、と奈緒美は言った。

 私と奈緒美は、銚子港まで行き、深夜のシーサイド通りを飛ばした。

「銚子、初めてだよ」と奈緒美は言った。

「私も」

 シートと自分の太ももとの間に手を差し入れると、布団に入り込んだ瞬間みたいな、温かさから来る安心感があった。

「なんか旅みたいだね」と奈緒美が言った。

「そうだね」と私は言った。


 母が引きこもり始めたのは、父の不倫が原因だった。でも父に言わせれば、そもそも不倫の原因は母にあった。

 父母が離婚したのは、私が大学三年、妹が高校二年のときだった。

 学費はもう援助できないと思う、すまないけど、と父は言った。

 そう、と私は言った。奈緒美はどうなるの?

 さすがに高校卒業までは頑張って援助するよ、ただアメリカ留学まではなあ、ちょっと無理かもなあ。

 そういえば、奈緒美は、この時期によくドライブをしていた。放課後家に帰ってきたと思ったら、車のキーをとってすぐ引き返し、戻ってくるのはたいてい深夜だった。彼女はどこに遊びに行くでもなく、トヨタの古い型式のセダンを乗り回しているだけのようだった。

「奈緒美もグレたらいいのにさ、せっかくなんだし」

「お姉ちゃんみたいに暇してるわけにはいかないのよ」と奈緒美は言った。「私にだってやりたいことはあるんだから」

 奈緒美はスナックのバイト、英語の家庭教師、掃除婦、タイ料理屋の看板娘、ヌードモデルなどを転々とした。今でも年に三回くらいの頻度で引っ越しをしている。宅配物は度重なる転送処理により、たいてい彼女の元へ届かない。


 金曜日に、石川つまりあの吸血鬼男からLINEがきた。どうやら石川は芸人のライブに出るらしく、それに来ないかという内容だった。

 たぶん行けると思います、と私は返信した。

 レモンイエローの総武線を使って新宿へ向かった。東口改札を出ると、目の前にあるマンホールの蓋の雨水は乾いていて、アスファルトから黴っぽい匂いが立ちのぼっていた。

 ようやく会場の入口を見つけた頃には、開始時間をちょっと過ぎていた。会場後方の椅子に座ると同時に、スポットライトの派手な点滅が始まった。舞台上には不吉な塊のような物体があった——よく見れば、それは膝を抱えた全身タイツの男だった。

「俺はモジャジャナン星人です!」

 タイツの男は立ち上がって言った——聞き覚えのある、石川の声だった。

 モジャジャナン星人ってなんだよ、という当然の疑問を置き去りにして、石川は踊り出した。そして、ひときわ大きな声で話し始めた。というかラップを始めた。


 モジャジャナン星人 知ってるかい?

 モジャジャナン星人 知りたいかい?

 教えてあげたい、君たちに

 だけど俺も知らないぜ yeah

 俺が今、ここにいる意味と目的

 知ってることはそれしかねえ

 このバイブスで気持ち言いたくて

 始めたラップ、気づけば三年目

 君たちは、急にいろいろ言われてもって思うかもしれねえ

 それマジ正論 ぐうの音も出ねえ

 だけどしゃべるぜ 俺の人生論

 まずモジャジャナン星の歴史から話そうか

 さっき、モジャジャナン星人について何も知らねえって言ったけど

 それは前言撤回

 矛盾気になる奴は論文の査定でもしてな yeah


 私は石川を直視できなかった。舞台との距離が近くて、彼の声の震えがわかってしまった。たぶん石川は恥ずかしいんだ、と思った。それも演出されたものじゃなくて、素の感情として、恥ずかしいんだ。どうして恥ずかしいのに恥の元へと突き進んでしまうのか、わからなかった。私なら死にたくなるのに。

 舞台の明かりの輪郭は、前の席の観客でふちどられていて、それが影絵みたいに石川の身体を隠した。

 石川の出番が終わった後も、数組の芸人が続いた。私は一応ライブが終わるまで待ってから腰を上げた。出口の方を見ると、芸人たちが打ち解けた様子でファンと話していた。石川もいた。かがみこんでスニーカーの踵を気にしてるようだった。さすがにもう全身タイツは脱いでて、今は靴下の裏地みたいな素材のニットを着ていた。石川は私の視線に気づくと「あ、ちょっと」と声をかけてきた。

「来てくれたんですね」

「ええ、時間、あったので」

「ちょっと待っててください、今出る準備するんで」

「え?」

 石川は急いで奥に行き、リュックサックを手に戻ってきた。

 誘いを断りきれず、私たちは近くの喫茶店に入った。石川は灰皿を引き寄せたけど、「あ、すみません」と言って、元に戻した。

「今日の、ライブどうでした?」と私は言った。

「どうなんでしょうか……でも、それ、俺も聞こうと思ってたんです。今日のライブどうでしたって」

 そうですね、と私が口を開きかけたところを、石川は慌てて止めた。

「すみません、別に聞きたくはないんで。聞きたくないって別に変な意味じゃなくて、聞いたところであんま意味ないっていうか、落ち着かなくなっちゃうんですよ、俺。褒められたら本当かなって疑っちゃうし、貶されたらそれはそれで腹が立つし。だから、感想はいつも聞かないようにしてるんです」

「わかりました」

「でも本当は聞いた方がいいんだろうな。そうやって客観的な意見もとりいれるべきだって先輩はよく言うんですよね」

 石川は「先輩」とやらの話を続けたけど、私はあまり聞いていなかった。抹茶パフェの餡と生クリームを混ぜ合わせ、どろっとした質感の液体をすくう。

「舞台に立つのってすごく勇気がいりませんか?」と私は言った。

「うん、めちゃくちゃ恥ずかしい」

「じゃあ、どうしてやるんですか?」

「恥ずかしいからこそですよ」

 なにそれ意味わかんない、と思ったけど、私は大人だから神妙な顔で話を促した。

「俺はほんと生きてるだけで恥ずかしいんです。もう頭の中が恥ずかしいって感じなんです」と石川は言った。「どちらにせよ恥ずかしいなら、自由にやりたいじゃないですか。でもそれは、自分の気持ちに素直になろうとか、そんなんとは違くて、ただ変なやつって思われてたいんですよ。こんなこと言うとイタイって思われちゃうかもしれないですけど(まあ既に思われてるかもしれないですけど)俺は昔から自分のキャラ意識しちゃってて、なんかそのキャラを一貫させなくちゃって思ってるんです。そういう圧力ってありますよね。空気読めよとか言いますけど、あれはキャラ守れよって意味でもあって、でもそれって暴力じゃないですか? 暴力に立ち向かうには覚悟と力が必要だけど、俺にはどちらもありません。なんでせめて『変なやつ』として認められたいんです。『変なやつ』であれば、何をしても『変』という枠で収まるんで、他人の視線から自由になれるんです」

 私は頷いた。

「なんとなく伝わりました、たぶん。でもそれはそれで大変な感じ、しますけど」

「地獄です」と石川は言った。「けど、どうせ生きることは地獄なんで、だったら自分の選んだ地獄の方がいいよなって感じです、うまく言えないですけど」

 石川の言う「地獄」は、なんだかとてもカジュアルなふうに聞こえた。

 地獄からの連想で、私は母のことを思い出していた。母はときどき夜中に部屋で発作を起こした。大声で、誰かに向けて呪いの言葉を吐いた。母の部屋は私の部屋の真上にあって、だから私は声が聞こえるたびに天井に目を向けた。三島と同棲を始めるまではそんな生活だった。

 石川の分の苺のフルーツ・パフェが遅れて届いた。あ、おいしそ、と石川は言って、スマホで写真を撮った。きっとSNSに投稿するのだろう。カメラのレンズは多数の目に向けられていて、私はここにいないみたい、と思った。

「写真撮る派、なんですね」と私は言った。

「あ、うん。なんでですか?」

「男の人だと珍しいなって」

「あー別に意味ないですけどね、なんか本能です本能」

「インスタにあげたりしないんですか?」

「あげませんよ。そもそもインスタやってないですし」

「あ、そうなんですね」と私は言った。「じゃあ思い出作りって感じですか、言葉違うかもですけど」

「うーん、それに近いですかね。死んで後悔しないようにってことです」

「もう、死ぬんですか?」

 石川はなぜか自信なさげに首を振った。

「まだ死なないよ、たぶんですけど」と石川は言った。「たぶん記念ってことなんだと思うんです。ちょっと楽しいなってときに、その瞬間を残したいというか、時間を所有したいと思うんです。で、撮るんです。でも人を撮るのはやっぱり許可とか必要で、お願いが難しいから(そういうのってキモいって思われるじゃないですか)、代わりに許可のいらない物を撮るんです」

「なるほど」

 私は他に何を言ったらいいかわからなくて、そのままスプーンでパフェの底をすくう動作を続けた。

「そういえば、石川さんはご結婚、とかしてるんですか?」

 しばらくして私は言った。

「いや、俺はしてないですよ結婚。恋人とかもいないです」

「へえ」

「アサミヤさんはどうなんですか?」

「私も結婚、してないです。けど同棲はしてます」

「同棲ですか。でも誰かと暮らすのって大変じゃないですか?」

「まあ、いいこともあります」

「たとえば?」

「たとえば、なんだろう、ぱっとは出てこないですけど、ペット飼えることとか。ペットって一人暮らしだとなかなか飼えない、じゃないですか。まだ飼ってないですけど、犬ならトイプードル、猫ならアメリカンショートヘアーがいいかなって、話してます」と私は言った。「それに同棲は、なんだかんだいって、役割分担さえしっかりしてれば大丈夫なんです。いまは私が散らかし担当で、向こうが片付け担当です」

「それ、不平等条約すぎません?」

 石川は笑った。思いのほか勢いのいい笑い方で、なんだかこっちまで気が抜けてしまった。

「アサミヤさんは結婚とか、考えてるんですか?」

 どうなんでしょうね、わからないですよ先のことは、と私は条件反射で答えた。

「でも本当のことを言うと、ぼんやりとですけど、結婚は考えてる、と思います」

「思います、なんですね」

「はい、そんな感じです、すみません。いや、謝るのも変ですかね。結婚をしたい理由とかは別になくて、正直なところ、他にやることが残ってないからというのが一番本音に近いです。暇だからってことなんです。なんか軽薄にきこえちゃうかもですけど」

「そんなことないんじゃないですか。理由なんて別にどうでもいいんだと思いますよ俺は。結婚とか、よくわからないですけど、でも結婚に限らずなんでも」と石川は言った。「たとえば俺が煙草を好きなのは、夜の電灯に上っていく煙を美しいと思ってるからです。そんなの単なる言い訳だろとか、ニコチンに支配されてるだけだろとか周りから言われるんですけど、やっぱり美しいもんは美しいでいいと思うし、その感性を曲げるのは違います。それにアサミヤさんが言いたいこと、暇だってことはたぶん本質的に暇だってことで、空っぽに耐えられないのは皆そうなんだと思うんです。そのことは誰も責められないはずです」

「ま、私フリーターですしね」

 と私は言った。

「俺もほぼフリーターみたいなもんです。そしてフリーターはいつも祝祭を求めます」

 私は頷き、トイレのために立ち上がった。手を洗ってからテーブルに戻ろうとしたとき、ふと自分が石川とのやりとりに満足を感じていることに気がついた。石川の言ってることを完全に理解したわけではなかったけど、なんだか久しぶりに、他人と会話したような気分だった。

「あのさ、石川さん」

 私は席につくなり彼に言った。

「さっき生きることが恥ずかしいって言ってたじゃないですか? でも恥ずかしさこそが芸の動機だし、祝祭、なんですよね。だったら、もっと恥ずかしくなること、協力してあげましょうか?」

 石川は目を丸くした。

「あ、違います。誘惑的なことしたいわけじゃなくて、なんかもっとこう、純粋な申し出、みたいなものです」

「純粋な申し出」

「はい」

「どんなことですか?」

 うーん、と私は言った。

「思いついたら言います」

 石川の困った表情が、かえって私にやる気を与えた。自分が恐ろしい怪物になったみたいで、ちょっと気持ちよかった。



 夏の初めに、空気清浄機が壊れた。元々調子は悪かったけど、故障は想定外だった。

 会社から代わりをもらえたらもらおう、と私と三島は話した。粗大ゴミの出し方を調べて、ゴミに貼るシールも購入した。でも、すぐに処分する気になれなかった。

「俺も出世したし、新しい型番もらえるかもな」と三島は言って、私の胸に手を当てた。私たちは、空気清浄機が故障した日にセックスした。たぶん半年くらいはしてなかったと思う。

 ちょっと気まずい時間が終わると、三島は「明日、早番なんだ」と言って眠った。

 ねえ、起きてる? と言ってみたけど、返事はなかった。

 私は布団からそっと抜け出した。窓を開けると珍しく霧が立っていた。湿った空気が肌に触れる感覚は不快だったし、天井のカビがちょっと気になったけど、これはこれで一応肌の保湿になる、と思うことにした。

 私は手のひらで三島の頬に触れた。三島の髭は濃い。でも昔からずっとそうだったわけじゃない、と本人は言っていた——明確なきっかけがあるんだ。

 それは高校二年生の一月のことらしい。オートバイを親友が運転し、三島は後ろに乗った。「いい山道だったし、いい天気だった。まさにツーリングにうってつけの日だった」と三島は言った。

 でも、天気は途中から崩れた。雨が路面を濡らして、風は運転手の指先を凍らせた。そうして、中古のGS750はガードレールに衝突した。親友は即死し、三島自身も強く頭を打ち付けたせいで、しばらく昏睡状態に陥った。

「でも、その後回復した。精密検査をしても、頭に異常は見つからなかった。奇跡的な回復、と医者は言っていたよ」

 と三島は言った。

「退院後、俺は日常に戻った。毎日遅くまで野球をして、休日はガールフレンドとデートをした。自分でも驚くほどスムーズに日常へ戻れた。ただ一つ変わったことがあったとすれば、髭が伸び始めたことだった。これまでは髭なんて全然なかったけど、事故後に髭は濃く、深く生えてくるようになった」

 本当に事故が原因だったのかはわからない、と三島は言った。

「わからない。単に成長期というだけだったかもしれないし、事故によってホルモンに変化が生じてしまったのかもしれない。俺はその変化を恐れた。一日二回、髭を剃るようになった。朝に一回と、昼休みの時間にトイレの個室でもう一回。まあ、同級生にはすぐ怪しまれたよ。オナニー中毒ってからかわれたけど、笑って否定しなかった。本当のことを言うより、その方がずっと楽だったから」

「本当のことってなんだろう、よくわからない。親友がいなくなって、心に穴が空いたみたいだった。もちろん自分だけが成長していくことに罪悪感はあったけど、それ以上に、セクシュアリティに混乱が生じていた、気がする。俺はこれまで自分のことを100%異性愛者と思っていたんだけど、急に男性であることに戸惑い、みたいなものを感じた。親友を思っていた気持ちに、もしかしたら友情だけじゃなくて、愛情もあったんじゃないかって、わからなくなった。だから、髭が生えてくるのが怖かったんだと思う」

 まあ、もう昔のことだけどね、と言って、三島は肩をすくめた。今は、髭のことも気にしてない。


 目覚めた時、もう昼になっていた。

 日差しがブラインドの隙間から差し込み、床に縞模様をつくっていた。私は頭からタオルケットを被り縮こまって、生八ツ橋みたいなフォルムになった。

 働いてた頃なら今何してたか、考えてみようとしたけど、時計を見るのもかったるかった。


 さっきからとにかく音楽がうるさいし、頭が痛い。部屋は薄暗くて、深海魚の水槽みたいなブルーの光があるだけで、踊る人たちの頬とか鼻とか、顔の丸いところの境界線がとりわけ白く照らされていた。

 ロッカールームに行くと、私たちをここまで連れてきた男の先輩が、知らない女といた。身体の境界は埋められていた。私はまたメインの部屋に戻った。

「どこから来たの?」と浅黒い男が言った。

 私は曖昧に首を振った。

「来たの、初めて?」と男は言った。

「まあ、はい、そうです。知人に、連れられて」

「頭痛くなるでしょ? ここ。僕も最初は、そうだったよ」

「そうなんです、か」

「うんうん、でもそのうちさ、慣れてくるっていうか、これくらいの刺激がないと、やってらんなくなるよ絶対」

 突然女の叫び声が聞こえて、男は話すのを止めた。

 女の周りにはすでに空間があって、女は錯乱したように、血のついた手のひらを周りに見せつけていた。女の露出した肩には五センチメートルくらいの切り傷があった。

 そんくらいで流れ止めんなよ、と隣の男は言った。

 大柄な男が女に近づいた。彼はスリーピースのスーツを着ていた。水色のシャツにタイをしっかり締めていて、ベルトから警棒をぶら下げていた。二人は低い声で話し始めた。

 もう帰った方がいいね、と隣の男が言った。警察来るかもしれないから。お嬢さんも帰った方がいいよ。

 場を見渡すと、石川と目があった。おそろしく猫背なので、上着がハンガーでかけられてるのか、と思うほど首が下がっている。石川はまだ入り口で渡された紙コップを握っていた。

「先輩見なかったですか?」と石川は言った。

「さあ、見てません」

「参ったな」

「私、帰ります」

「じゃあ俺も帰ろうかな」と石川は言った。「警備員の人が話すのを聞いていたんですけど、最近多いらしいです、切り裂き魔。毒とかも塗ってたりするって。最悪ですよね」

「うん」

 商業ビルを出て駅の方向に歩いていると、石川が言った。

「アサミヤさん、血!」

「え?」

「シャツの襟のとこ、血、出てます」

 うなじを拭うと、確かに血が出ていた。乾いた絵の具を擦ったみたいな跡だった。

「まあこのくらいなら何とかなる?」

「いや、何とかならない方だと思いますけど。いつやられたんですか?」

「わかんない、ええ。どうしたらいいのこれ」

「血は吸い込んで、吐き出したほうがいいかもしれないです、意味あるかわからないですけど。やるとしたら俺がやりますけど」

 じゃ、お願い、と言って、私は前屈の姿勢をとった。

 石川はぐずぐずしていたけど、やがて私の肩甲骨に手を乗せ、髪を慎重にかき分けた。湿った唇がうなじに吸いつき、呼気は首筋で感じられた。石川の体はすごく華奢だった。ほとんど女の子みたいだ。軽い胸板、軽い心臓。私は目を閉じ、まぶたの裏側の、不規則に変化する模様を見ていた。暗闇の中を、それより薄い黒色のクラゲがいくつも漂っているようなイメージで、石川の舌先が私の生毛をなぞるたびに、クラゲたちは破裂し、また結集した。

「これで俺も立派な吸血鬼ですね」と石川は言った。

「ええ、そうですね」と私は笑った。


 木曜日の昼、奈緒美と映画を観に行った。

 ふと、父が学生時代、映画監督を目指していたことを思い出した。うわ、懐かしいねそれ、と奈緒美は言った。彼女は、左手を腰あたりの高さに据えた。私がこれくらいの時によく聞いてたな。ほら、あのカビの話とかもさ。

 カビの話? と私は言った。

 パパっ子だったから、お姉ちゃんより覚えてる自信あるよ、と彼女は言った。ちょうどそのとき予告が終わり、映画泥棒のアレが始まった。座席に深く座り直すと、クッションが脊椎の隙間を埋める感じがした。

 本編が終わって人心地ついてから、「カビの話っていうのはさ」と、奈緒美は言った。「お父さんの友人が作った映画でさ、タマホコリカビとかなんとかっていうカビを撮ったものだったでしょ。といっても、私も観たことはないけど。お父さんが言ってたのを聞いただけだけど。そのカビは、糸を引くように伸びる線の先に、透明なビーズがついてるみたいなフォルムで、性があったりなかったりする。栄養がたっぷりある環境では単独で生きていくけど、そうじゃなければ群れになって、それが一つの生命みたいになる」

 よく覚えてるね、と私は苦笑しながら言った。

「カメラはずっとカビを正面から捉えていて、カビは早送りに成長していくの。背景はピントがずれてるけど、たぶん廃屋かなんかの木の柱だと思う。ただそれだけ。でも、お父さんはそれを観て、こんな才能には敵わないなって思って、それで映画監督の道を諦めちゃった。で、普通に地元で国語教師やって、お見合いでお母さんと出会ったってわけ。逃亡者だって自分で言ってた。そんなに否定的なふうじゃなく」

「子供の時にも思ってたけど、お父さんがどうしてその映画で感動したのかよくわかんないんだよね」

「そう?」と奈緒美は言って、車のアクセルを踏んだ。「タマホコリカビってさ、すごく曖昧だと思わない? 自分のコピー作ったり、セックスで増えたり。個人でもあり多数でもある。それってなんていうかさ、私たちがさ、コインの裏と表だと思ってたものが、実は同じ表面にありましたっていう驚きなんだよね。騙し絵みたいに、一方に視線を向けたら、もう一方が消えちゃって、それに気づいて今度は消えた方に目を向けるっていう視線の反復をしながら、どんどん定点が浮き上がるっていうかさ、意味が背景に引いて、ただリズムだけが残る気がするんだよね。そのリズムが映画にはあったんだよ」

「本当に見たみたいに話すね」

「まあね」

 交差点に紙ナプキンが落ちていた。

 あ、天使の羽、と奈緒美は言った。



 今でも覚えてるけど、職場で唯一テンションの上がる時間は、昼休みにスイーツを食べるときだった。スイーツは朝に駅前のコンビニで買い、共用の冷蔵庫に入れていた。たいていはプリンだった。

 いつ頃からか、私のプリンが盗まれるようになった。

 犯人は榎本くんという、私の知らない人だった。社員旅行に行った時の集合写真があって、左端前列で榎本くんはダブルピースをしている。それが、いわば榎本くんのサムネイルみたいなもので、私は「榎本くん」と口に出すとき、いつもそのダブルピース顔をイメージしていた。

 なんで榎本くんがプリンを盗んだかはわからなかった。というか、彼が口を割らなかった。まあやったことは悪いけどこれ以上責めるのはやめましょう、という空気があって、課長からも「穏便に、ね」と言われていた。榎本くんはやばい宗教に関わっているという噂だった。


 三島から初めて夕飯に誘われたのは、ちょうどその頃だった。私たちはこれまで仕事以外の話をしたことがなかったから、三島から最近できたばかりの発酵食品店の話をされたとき、食事の誘いだとすぐにはピンとこなかった。

 その日の夜、私は薄い桃色のトレンチコートをクローゼットの奥から取り出し、洗面台の前に立ってみた。コートは奈緒美からのお下がりだったけど、ほとんど新品の匂いがした。これを着れば、奈緒美の自信というか、周りにある空気感のようなものまで身につけられる気がした。

 集合時間の三〇分前には、待ち合わせ場所の新宿駅南口に着いた。三島はすでに来ていた。大きい柱に寄りかかって、白い息を吐きながら目の前の広告を眺めていた。

 私たちはおすすめの、季節の温野菜と豚汁の定食を食べた。こういう豚汁の表面に浮いてる油は、箸でつなげて大きな円にしたくなる、と思った。

「三島さんは仕事楽しいですか」と私が言うと、「難しい質問ですね」と三島は言い、箸を置いて顎下の皮膚を引っ張った。

「楽しいかどうかで判断できるほど、俺はロマンチストじゃないです」

 駅までの帰り道、三島は私に封筒を渡した。その中には五万円が入っていた。

「プリンの弁償代です」と三島は言った。「榎本とは大学時代からの友達、みたいなものなんで」

 それから一か月以上、三島が話しかけてくることはなかった。

 やっぱりそうだったか、と思うと同時に、これでようやく普段の自分に戻れるという安心感もあった。別にそれほど守りたい日常があったわけではないけど。

 私は普段、納品日の管理とか会議資料の印刷とかをやっていた。オフィスには自社製の空気清浄機があって、一日2回の水交換も私たち事務員の仕事だった。

 事務員は私のほかにも何人かいた。たとえば、団藤さん。毎日のようにチロルチョコを渡してくれていたけど、いつの間にか更新切れでいなくなってしまった。団藤さんには休憩時間をちょいちょいごまかす癖があって、それが原因になったらしい。それから堀さん。信じられないくらい細い煙草を吸う。仲がよかったというほどではないけど、隣の席だったので、たまに話した。あれだけ大きなネイルをつけていてタイプミスしないのが、いつも不思議だった。

 私たちの仕事は、習慣化された動きの中で、だいたいが完結した。毎日はぐるぐると回るループのようだった。英語の〈year〉の語源は、行くこと、から来ていると何かの番組が言っていた。それなら、日々の生活は、らせん運動をしながら一応どこかへ向かってるのかもしれない。先にはきっと死があるんだろうけど、どうもぼんやりしている。


 仕事の合間によくツイッターをしていた。指先で画面を下に引っ張って離すと、まだ見てないツイートが表示される。快楽は、ツイートの質より量に比例していた。

 そういえば昔、ツイッターのことを川と呼ぶ友達がいた。その人は、言葉を水瓶に入った液体としてイメージしていた。SNSでの絡みは、文字通り交流で、自分の水瓶に新しい水を足すようなものらしい。かき混ぜたら、化学反応。平日の日中、たいてい川は涸れていた。

 その人とは高校以来会ってなかったけど、なぜか川の話だけは記憶に残っていた。人間関係とか、過去の出来事とかをただの水の作用として捉えられたら、楽に生きられるはずだ。私はそうやって彼女の思想を利用してきたのだと思う。榎本くんの件についても、プリンが盗まれたことには腹が立ったけど、意味は遠くにやって、ただ波と波がぶつかり合ってできたノイズとして捉えようとした。

 宗教についての噂は、榎本くん自身の発言から生まれたものだった。

 昼休憩の時間、いつも誰かがテレビの電源を入れるので、何となくそれを見る人は多かった。その日は新興宗教団体に関する特集をやっていて、いくつかのカットの後、隠し撮り風のアングルで、信徒たちの映像が流れた——彼らは頭の上に大きな照明をつけていた。照明は、本来工場で野菜を育てる用途のやつらしい。それを針金で、ヘッドセットに固定していた。

「あっお母さんだ」

 榎本くんが突然言った。そのとき画面には、紫のセーターの小太り気味の女性が写っていた。床から垂直に、3つの玉が積み重なっているようなフォルムだった。まず輪郭は身体の膨らみをなぞり、首にかけてぐっと細くなってから頭部の曲線となる。直線が上に走って、最後にまた照明の丸み。

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東京メトロに乗った吸血鬼 oniwa-pan @oniwa-pan

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