入社式当日に、トラックに轢かれて死ぬ男の話

yunomi

入社式当日に、トラックに轢かれて死ぬ男の話

2015年9月20日の文学フリマにて無料配布した中編小説です。

「世にも奇妙な物語」みたいな話を目指して書きました。






 今俺は手術室の扉の前にいる。誰かの手術が終わるのを待っているのではない。自分の手術が終わるのを待っているのだ。

 目が覚めた時、数人の医者と医療器具が、俺の体を取り囲んでいるのが見えた。俺の腹は開かれ、医者達が血で汚れた手を忙しなく動かしている。

 何に使うかよくわからない器具の名前を呼ぶ医者の声と、ピッピッピ…という機械音が室内にやけに大きく響いていた。

 不思議な感覚だ。自分で自分の体を見ているなんて。

 恐らく今の俺は体から抜け出た、魂なのだろう。俺がここにいるのに医者も、慌てて器具を渡す助手も、誰も俺の存在に気付いていない。

 体と魂が離れているということは、俺は死期が近いのだろうか。

 これが俗にいう、“臨死体験”というものなのか。

 とりあえず手術室の外へ出て、今に至るというわけだ。自分の持ち物とはいえ、内臓はグロテスクで見ていられない。

「手術、いつになったら終わるんだろう……」

 腕時計を見ると、あの瞬間……俺が、トラックに轢かれた時から、もう三時間も経過していた。




 今日は入社式の日だった。

家賃四万円の古アパートを出て、駅に向かって歩いた。

 桜並木をゆっくり歩きながら、のどかな春の風景を眺めた。

 あたたかい風がフウッと吹くと、俺の横を桜の花弁が何枚も横切る。それと一緒に、新品の制服に身を包んだ学生達も何人か俺を横切っていた。彼らもきっと俺と同じ、今日から新しい世界で生きていく身なのだろう。

 駅に着き、これから毎日乗るであろう満員電車に乗って、ようやく会社の最寄り駅まで辿り着く。

 会社に到着するまであと十分。

 コンビニで昼食のおにぎりを買い、横断歩道の前に立った。

 お釣りの小銭を財布に入れようとファスナーを開ける。それと同時に、指の間から五百円玉が零れ落ちてしまい、無意識に俺は五百円玉を追いかけて横断歩道を渡ってしまった。

 大型トラックがもうすぐそばまで近付いてきていることにも、気付かないで……。




「痛いって感覚もないし、記憶が走馬灯のようにとか、なんにもなかったなぁ。ただ目の前が突然真っ暗になったっだけというか……。あっけなかったな」

 俺はただ手術中と書かれた赤いランプをぼうっと見つめていた。この明かりが消えた時が自分が死ぬ時なのかもしれない。そう考えていた。

 その時、

「ヒョヒョヒョ……、あなたはかなり落ち着いた性格ですねェ……、清水たかしさん……」

 後ろから聞こえた声はずいぶん癖のある粘っこい声をしていた。

 振り返るとそこには、骸骨のように頬がこけ、一本も髪の毛がない禿げ頭の男が立っていた。全身を覆う真っ黒のローブはまさにこの世の人間ではない風貌をしている。

「あんた誰だ?」

「ヒョヒョッ。アタシはあなたを迎えに来た、死神です」

「死神?」

 確かに子どもの頃アニメで見た死神と、同じような風貌をしている。やはり死神は黒ずくめなのだな、と黙ったまま目の前の男を見つめた。

 それと同時に、やっぱり俺は死ぬんだなと納得もした。

「おや? 不思議ですねぇ。普通の人間なら、死神が来たというと驚いたり、怯えたり、まだ死にたくないと命乞いするものなのですが」

「別に……。あんな状態の自分を見たら、誰だってもう助からないって思うさ。それに、この世に未練なんてない。死ぬなら死ぬで、受け入れられるよ」

 俺は死ぬことがそんなに怖くなかった。

 生きていた頃も死んでいた、むしろ元々生きていなかったような生活を送っていた気がするからだ。

 自分の過去を振り返り、二十三年間で何か輝いていたことがあっただろうかと思い出してみても、それは時間の無駄以外に他ない。

 成績もスポーツも平均より少し下。喋るのが苦手で社交性もなく、趣味や没頭できるものは何一つない。

 死にたいと思ったことはなかったが、生きたいと思うことはもっとなかった。そんな人生を送っていた。

 唯一死に物狂いでやったことは、就職活動くらいだった気がする。しかしそれも終わればもう何も感じなかった。あぁ、俺は社会の歯車の一つになるんだ。内定通知を貰った時、その程度にしか考えられなかった。

「ところで清水さん。あなたの“死亡確定時刻”は、今日の十二時ぴったりです。それまであなたは生きていることになります。十二時まではご自由にしてくださって構いませんよ」

「死亡確定時刻?」

「読んで字の如く、あなたの死が確定する時間のことです」

「今すぐにでもあの世に連れて行けばいいだろう。俺は別に構わない」

 俺がそう答えると、死神は慌てた様子で首を横に振った。

「それはいけません!! 死神のルールで死亡確定時刻に、魂を現世と切り離すのが決まりなんです」

 俺は小さく舌打ちをした。もうあの世に行っても構わないのに。

「今、十一時。死亡確定時刻まであと一時間ありますが、どうしますか? 死亡確定時刻までなら、どこへ行っても構わないんですよ。あの世以外ならね。会いたい人に会いに行ってもいいんですよ。妻とか恋人とか。もちろん相手にはあなたが見えませんが」

 普通ならこういう時、死ぬ前に愛する人にひと目会いたいというのがテンプレートなのだろうが、生憎妻も恋人もいない。二十三年間一度も。

「ご両親とか……」

 両親は俺のやることなすことに全て無関心だった。千葉県の片田舎で暮らす両親は、父方の爺さんが始めた落花生農園を継いだ。自営業のため休みがほとんど無く、俺は両親とどこかへ遊びに行った記憶がほとんどない。将来はプロ野球選手になりたい、休みの日はピクニックに行きたい、という子どもらしい夢や積極性がなかったのも、両親が俺を構ってくれなかった原因の一つでもあるのだろう。

 特に父さんは無口だったため、まともに会話をした記憶がなかった。母は優しかったが、その優しさも俺が大人になるにつれ煩わしいと感じるようになった。

 大学のために上京してからは、正月休みにしか帰省しなかった。電話も月に一度、母さんとするかしないか。その程度だった。

 俺にとって、人間関係というものは面倒くさいだけなのだ。たとえそれが生みの親であっても。

 俺が何も答えないのを見て、死神は唸っていた。

 ここでぼーっと一時間待つのもいいが、ひとつやっておきたいことがあったのを思い出して俺は口を開いた。

「……じゃあ、俺が入るはずだった会社に行きたい。どんなところだったのか、ひと目見ておきたい」

「ヒョヒョヒョッ、いいでしょう。行きましょ、行きましょ」

 手で口元を隠しながら笑う死神は、ずいぶん楽しそうに見えた。

 死神は俺を手を掴むと、窓をすり抜けて外へ出た。窓をすり抜けた瞬間、やはり今の自分は幽霊のような存在なのだなと頭の片隅で思った。

 雲のように身体が浮き、行きたいところへ流されるように飛んでいく。その感覚は少し気持ちがよかった。しかし風を全く受けていないのに違和感も感じる。前に進んでいるのに服や髪の毛がなびかないのは不思議でたまらない。

 高所恐怖症の人間なら泣き叫ぶような高さの高層ビルの間をヒョイヒョイと通り抜け、目的地の会社へと向かう。

 下を向けば何人ものスーツを着たサラリーマン達が携帯電話片手に大通りを行き来しているのが見えた。

 同じような服、同じような髪型の人の群れ。

「まるで蟻のようですね。全部同じに見える個性のない働き蟻。ヒョヒョヒョ……あなたはああなる前に死ねたのですから、よかったですねぇ」

 よかった、とは思わないが内心ホッとはしていたかもしれない。でも死神には悟られないように黙った。




「つきましたよ、あなたが入るはずだった会社」

 窓から様子を伺うと、すでに入社式は始まっていた。今は支店長の話が始まっている。

「中に入ってみましょう」

 死神が俺の手を引っ張ると、窓をすり抜けて中へと入ることができた。

「いいかね君たち。会社はお客様あってこそなんだ。そのことを忘れちゃいけない!」

 熱く演説している支店長は、俺の最終面接の時に面接官としていた人だった。俺の苦手な体育会系だったが、仕事に対する熱意と、就活生に対してもフランクではなく礼儀を持って接する態度は、少し尊敬していた。

 すると死神は不気味に笑いだした。なんとも不快な笑い声だ。

「ヒョヒョヒョ…。あの人は恐らくこの一年以内に自殺するでしょう」

 熱くしゃべる支店長を見て死神はそう言った。

「は?」

「死神というのはですね、人間の死期がわかるんです。あの人はこの一年以内に死ぬでしょう。原因は自殺です」

 こんな熱血系が自殺を。と俺は不思議に思った。

「なんでまた」

「自殺の原因は、犯した罪が表沙汰になったためです」

「罪?」

「横領ですよ」

「横領?いくら?」

「ざっと八億円ですね」

 八億円?! と思わず大声で聞き返してしまった。この場に俺が見えて、声が聞こえていたら間違いなくつまみ出されていただろう。

「今はまっとうなことを喋っていますが、所詮人間なんて、上辺ではいくらでもきれいごとが言えます。心の中は私利私欲にまみれている生き物ですからねぇ」

 死神は不適な笑みを浮かべて、未だに「働くことは素晴らしい。お客様に感謝しよう」と熱く語る支店長を見つめて言った。


「ここへ来るんじゃなかった……。少しでもあの人を尊敬した自分がバカらしくなった」

 窓をすり抜けて会社から出ると、そのままゆっくり地上へ降り立った。死神も慌てて俺を後をついてきている。

 オフィス街を行き来する人たちを見て、本当にこうなる前に死ねてよかった、とぼんやり思った。

「俺がもし生き延びたら、目的もなくただ生きてるだけの人生になるんだな……。はやく“ドロップアウト”できて、よかった」

 俺の声は、行き来する人々の雑踏で掻き消された。元々死神以外には聞こえていないのだから消されるも何もないのだが。




「おや、あの人……」

 何かを見つけたのか、死神は向かい側の道に立つ一人の男を指さした。その先には見覚えのある顔が見える。

「……地実(ちみ)じゃないか……?」

 その男は俺が大学時代、同志と呼んだ男だ。趣味も生きる希望も特になく、平凡で地味な人生をこれからも送るだろうからお互い頑張ろうと誓った同志。それが奴だ。

 姿を見たのは恐らく一年以上ぶりだろう。就職活動に追われ、同じ大学内でも顔を合わせることがなくなっていた。わざわざ会いに行くような仲でもなかったため、顔を見たのは久しぶりだ。

 しかし様子が変だ。いや、変という言い方は失礼なのかもしれない。

 俺達にとっては変でも、周りからすると普通なのだ。つまり、垢抜けている。

 地実は、大学時代は毎日同じようなTシャツを着て、度がきついメガネをかけたぼさぼさ頭の青年だったのに。今見えるのは新品のスーツに爽やかなショートカットの髪。いつも俯きがちで下ばかり向いた頭が、元気に前を向いている好青年だった。

 俺は地実をもっと近くで見ようと宙に浮いた。そのまま地実の背後へと回ると、スマートフォンでだれかと喋っている声が聞こえた。

「あぁ、今日は早く帰るよ。今日はちゃんと式場予約しておいてね。帰ったら招待状の準備手伝うから。数も多いほうがいいし、ちょっと嫌だけど大学時代のツレも何人か誘うよ」

 地実の言葉を聞いた瞬間、俺は宙に浮いたまま体が硬直した。

 俺の心の中で何か痛いくらい冷たいものが溢れ出たような気がして、そのまま倒れそうになった。

 地実は、やつは、俺と同じ種類の人間だと思っていた。恋人はおろか好きな人すらできず、天涯孤独の道を全力疾走する“同志”だと。

「ヒョッヒョッ……。あの人、あと数日の命でしょう。彼は詐欺に合っています」

「……詐欺?」

 聞き返すと死神は軽く頷いて続けた。

「電話の相手の女性は結婚詐欺師です。事あるごとにあの男性からお金をせびっています。彼もそれに素直に従っていますね。それが詐欺とは理解できずに。しかも相手の女性には、夫がいることにも気付いていないようです。闇金に手を出してまであの女性に……。今でも相当な額を借りていますから、彼はどうなるか……恐ろしくて言えませんねぇ……ヒョヒョヒョ」

「そうか……」

 可哀想に。と思った。一瞬だけ。

 本当は心の底から嘲笑っていた。

 女に騙されてバカじゃないのか、ざまあみろ。

 口には出さなかったが、表情には出ていたのだろう。死神は俺を見てヒョヒョヒョと笑っていた。

「他人の不幸は楽しいものですよねぇ」

 頷こうと頭を持ち上げた。しかしそのまま下げられなかった。 俺の心の中で、何かが制止させたのだ。

 俺は黙ったまま、空に向かって飛んだ。どこまで上れるのかわからないが、とりあえず近くのビルの屋上が眺められるくらいの高さまで上った。そして地上を見下ろした。小さな働き蟻達が、アスファルトを右往左往する。その様をぼうっと眺めた。

 もう何もかもが嫌になった。

 なによりも嫌なのが、他人の不幸で呆れたり喜んだりする自分だった。みんなも、自分も、大嫌いだ。

「この二十三年間、なんだったんだろう……。何が楽しくて、何のために、二十三年も生きていたんだろう……」

 ビルよりも高い場所で浮きながら、俺は悲しく呟いた。



「すぐそうやってどこかへ飛んでいく。待ってくださいよ」

 再び慌てた様子で死神も俺のところまで浮かんできた。怒ったように腕を組んでいる。

「もうすぐ十二時だろ。はやくあの世へ連れて行ってく……」

 そう言って下を見下ろした瞬間だった。

 自分のすぐ真下を走る小型トラック。

 見覚えがある。

 泥とマジックペンの落書きで汚れた荷台が目に飛び込んできた。

「あれは……うちの車だ……」

「ちょっ、清水さん、どこへ行くんです?」

 見間違えるはずがなかった。

 考えるよりも先に、俺の体は自然と動いていた。

 走る小型トラックに近付こうと地上へ滑り下りて追いかけた。やはり父さんの車だった。

 小学一年生の時、漢字で「清水」と書けたことがあまりにも嬉しくて、トラックの荷台に「清水のうえん」と書いた。今見ればただの汚い落書きだが、当時父さんも母さんも叱らず、黙って俺の頭を撫でてくれたのをよく覚えている。   

 五十キロ以上出したことがない父さんのトラックは、何台も車を追い越して猛スピードでどこかへ向かっている。

「どこへ向かうんだ?」

 実体のない魂であることを忘れて、俺は車を避けるように飛びながら夢中でトラックを追いかけた。遠く後ろのほうで死神が、待って~、と言っているが関係ない。




 ようやくトラックが止まった場所は、俺が手術を受けている病院だった。

「医者が俺のことを知らせたのか……。そりゃ駆けつけるよな、死ぬんだから」

 車から降りた父さんは、助手席の母さんの手をひいて早歩きで病院の受付へと向かっていた。

 俺も地上へ降り、病院のドアをすり抜けて父さんたちの様子を後ろから見た。

 慌てた様子で、父さんは受付のナースと話している。母さんは黙ったまま俯いていた。

「さっきここに運びこまれた、清水たかしの両親です。息子は……、たかしは大丈夫なんですか?」

 ナースは慌てて電話の受話器を取って、どこかに電話をかけていた。状況がわかったのか、受話器から顔を離すと、父さんを見て答えた。

「ただ今清水さんは手術中です」

「たかしの怪我は、ひどいんですか?」

「大型トラックにはねられたとお聞きしたので、私からはなんとも……」

 その言葉を聞いた瞬間、父さんの隣にいた母さんは、わあと声を上げて泣き出し、膝から崩れ落ちた。

「どうか、どうか助けてください……。大事な息子なんです……。どうか、どうか……」

 父さんの膝を掴んで母さんは泣いていた。そばにいた他の患者も、母さんをじっと見ている。

「母さん、たかしは大丈夫だ。きっと助かる」

 母さんの手を握る父さんの手は小さく震えていた。その震えを止めるためでもあるのか、母さんの手を強く握った。

「今たかしは頑張ってるんだ。私達は手術室の前で待たせてもらおう」

 こちらです、とナースが案内しようとした時、母さんは大声で泣いた。

「どうか……、たかしの足を切るんなら私の足をあの子にやってください。心臓でもなんでも、私のものを移植してもらって構いません。あの子を、たかしを助けてください」

 ここまで聞いて俺は胸が張り裂けそうになった。その気持ちは堪えきれず、目から涙となって溢れ出た。

「二ヶ月前…膝が悪くなって、立つのも大変だって、言ってたじゃないか、母さん。……そんな足、いらないよ……」

 なんで俺なんかのためにそこまで言えるんだよ、と俺は呟いた。

 すると死神は母さんを見つめながら、ぼそっと答えた。

「息子のためだからじゃないんですか。……いいお母さんですね」

 母さんは父さんに支えられ、膝を気遣いながらゆっくり立ち上がった。その後ろ姿は悲しみに耐えるように小さく震えていた。二人はナースとともに手術室へと向かう。

 その後を俺と死神も黙ってついて行った。

 手術室の前に着くと、傍に設置されたソファーへ二人は腰掛けた。俺達は少し離れたところからその様子を見守る。

 父さんは未だに泣き止まない母さんの背中を優しくさすりながら、険しい顔で手術中の赤いランプをじっと見つめている。

「大丈夫。たかしは私達より先に死ぬなんて親不孝なことはせんよ。たかしはいい子だ。きっと死なない。きっと、無事だから」

 母さんに言っているのか、自分に言い聞かせているのか、ずっと父さんは小さく呟いていた。

 消えそうな小さな声だが、俺の耳にしっかり届いている。その呟きひとつひとつが、俺の頭と心を熱く包みこんだ。

「死神さん…、俺、やっぱり……」

 死にたくないかもしれない。小声だが、はっきりと言った。

「無理なのはわかってる。でも……」

「いいえ、あんなご両親の姿を見れば、そう思うのも無理ないでしょう。アタシもうるっときちゃいました」

 鼻をすんとすすり、死神は傍にある掛け時計を確認した。針は十一時五十九分を指している。

 もう、俺は……。

「死にたくない……」

 俺はたった一人で、自分のためだけに生きるのが人生だと思っていた。人間関係なんて煩わしく、面倒くさいだけだと。

 自分一人のために生きていたら、輝きも味気もない人生になってしまうのも当たり前のことだ。でも誰かに生かされて、誰かのために生きるのもいいかもしれない。この時、たしかにそう思ったのだ。

 しかし、もう全てが手遅れだ。何もかも遅かった。

「ごめん……、父さん、母さん……」

 後悔の波が押し寄せる中、病院内に十二時を知らせるアナウンスが流れる。

『お昼の時間です。看護師が食事を持ってくるまで、患者さんは少々お待ちください』

「おっ、もう時間ですか。清水さん」

 死神は俺の肩をぽんと叩いて笑っていた。あぁ、とうとう、死ぬのか……。


「ハッピィイ……エェイプリルフゥウルズデェエエイィィィ!!」


 死神は両手を広げ、大きな声でそう叫んだ。

 急な言動に意味がわからず、俺は眉間に皺を寄せて「は?」と聞き返した。

「あなたは死にませんよ。手術は成功するでしょう。見た目は確かに酷い有様でしたし、一旦心肺停止もしますが、脳の損傷は少なく、右手と両足の骨、肋骨を折り、内臓が轢かれた衝撃で破裂しているだけです。危なかったでしょうが、この病院の医者は名医です。すぐに対処してくれるでしょう」

 俺は耳を疑った。死なない? 願っていたことだが突然言われたために理解するのに時間を要した。

「どういうことだ。俺は死ぬんじゃなかったのか」

「だから手術は成功して、生き延びられるんですよ。あと少しすれば、あなたはベッドの上で目を覚ますでしょう」

 それを聞いて俺は、母さんと同じように膝から崩れ落ちた。

 よかった……。

「俺はまだ生きられるんだ……」

 安心のあまり、俺は笑みがこぼれていた。それと同時に今度は嬉し泣き。涙が止まらなかった。

 しかし、それと同時に疑問を感じた。

「なんで死神なのに、十二時に死ぬなんて言ったんだ?死神は死期が見えるんじゃ…」

 死神は俺を見下ろして笑っていた。

「ヒョッヒョッヒョ、そんなこと知りませんよ。本物の死神に聞いてください」


 ……ん?


「今何て言った?」

 俺はすぐに立ち上がり、聞き返した。死神はそれを不思議そうに見ながら、先ほどの言葉を繰り返している。

「だから自分の本当の死期が知りたければ、本物の死神に聞いてください、って言ったんですよ。でもまぁ、ここに本物の死神がいないってことは、あなたの寿命はまだまだ先ということですね」

「どういうことだ? あんた……、死神じゃないのか?!」

 ぼろぼろで何本か歯がない口を大きく開いて、目の前の男は笑った。

「アタシは神は神でも、貧乏神です。ほら、今日は四月一日。エイプリルフールですからねぇ。ずっと憧れていたんですよ、死神になって、人間をびっくりさせるの」

 ヒョヒョヒョと笑う男に、俺は理解することができず呆然と立ち尽くした。

「は……? エイプリルフール?」

 たしかに今日は四月一日、エイプリルフールだ。さっきこいつが言っていた「ハッピーエイプリルフールズデイ」というのはそのことなのか。

 しかしそれでも納得できない。俺は混乱する頭を整理するために男に質問を続けた。

「ちょっ、ちょっと待て。意味がわからない。じゃあ……なんで、昼までって、あれは一体なんだ……?」

「エイプリルフールは、四月一日の午前中までしか嘘をついちゃいけないんですよ。そして午後からはその嘘を暴露しなきゃいけない。それがエイプリルフールのルールです」

 どこで仕入れたかわからない情報を得意げに説明する目の前の男はとても嬉しそうに見えた。そりゃそうだ。俺はまんまとこの嘘に騙されて、涙まで流したのだから。

「あの支店長や、地実は……?」

 やつらは死ぬんじゃなかったのか、と尋ねる前に死神は顔を横に振った。

「そんなこと知りませんよ。嘘に決まってるじゃないですか。今日はエイプリルフールなんですよ、嘘をついていい日なんですから。死期がわかるわけないでしょう、アタシ貧乏神ですよ。あっ、でもね、横領と結婚詐欺は嘘じゃありませんよ」

 お金の事はなんでもわかっちゃうんです、と男はまた得意げに語っている。

「いやぁ~まさかここまで上手く騙されてくれるとは思っていませんでした。最初はどの人間を騙そうかと人間界を彷徨っていたら、ちょうど騙されやすそうな人、つまりあなたが見えて。そっと近付いたら、貧乏神(アタシ)の妖力でお金を落としてしまって」

 貧乏神にとりつかれた人間は貧乏になるんですよ。そう説明をはさんで男は話を続けた。

「あなたそのままお金を追いかけるからびっくりしましたよ。でもあなたがトラックに轢かれてくれたおかげで、アタシは長年の夢だった死神になりきれたので、とても楽しかったんですがね」

 ヒョッヒョッヒョ……。粘っこい笑い声が俺の耳に届く。

 しかしそれは遠のいて聞こえた。いや、俺の魂がどこかに引っ張られているようだった。目の前がぼんやり薄暗くなってゆく。

 俺はニヤニヤと笑う死神だか貧乏神だかの顔が見えなくなる前に、左手を振りかぶった。




 目を覚ますと俺は病室のベッドに仰向けになって寝ていた。

 父さんと母さんは、目を覚ました、よかったと泣いて喜んでいる。

 俺も気付くと目から涙が溢れていた。

 唯一動かせる左手で涙を拭おうとした瞬間、手の甲がジンと痛んだ。

 あぁそうだ。俺はあの時あまりにも腹が立って、高らかに笑う“死神”を、この拳でぶん殴ってやったのだ。

 二十三年間一度も人を殴ったことがなかった俺は、ジンジンと痛む手で涙を拭って、喜ぶ両親の顔を見つめた。






(おわり)

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