第4話「南雲 優陽」

 20年ぶりに会ったアルニラは、記憶よりも少し大きくなっていた。しかし紬からすれば、まだ若い子供だ。


「逃げちゃった……」


 20年来の再会から。本来はもっと感動的なものになるだろう再会から。アルニラは逃げ去った紬に、さぞ怒ったろうか。それとも傷ついたろうか。


 そのときだ。夜道に、携帯の着信音が響き渡った。電話だった。音と、その後確認した電話をかけてきた相手に、我に返る。


「優陽? どうしたの?」

『あっ、紬! 今週末の予定で話が……って、大丈夫? 声が沈んでいるみたいだけど……。体調が悪いなら、無理だけはするんじゃないよ。日曜だって、絶対今週じゃないと駄目なんてことはないんだから』

「何もないよ。日曜、ちゃんと行けるよ。日帰りだしね。これでも霜月山、楽しみにしてるんだから」


 なおも心配してくる相手に大丈夫だと何度も伝え、それから何往復かの会話を交わし、電話を切った。


 真っ暗になった携帯の画面を見つめ、婚約者か、と呟く。一応、嘘は言っていない。ただ、全部本当かと聞かれると、口ごもることになるだろう。


 アルニラを待つようになってから10年目、もしかするとアルニラは約束を忘れて、向こうの星でとっくの昔に別の彼女ができたのではないかと思うようになった。


 その頃ちょうど友人から、「子供の頃に結婚の約束をした幼馴染みとこの前再会したら、なんか彼女いたしその子と結婚するって言うの! 信じて待ち続けた私は何よ!」という話を聞いたのだ。有り得るかもしれないなと感じたが、アルニラに彼女がいることを想像しても、あまり嫉妬の感情は沸いてこなかった。まあそうだろうな、という考えのほうが強かった。


 文化祭のときに知り合った優陽からちょくちょく聞かされる宇宙の話のおかげで、宇宙がどんなに広い場所なのかかなり知ることができていた。そんなに広い場所を移動するのは時間がかかるだろうことも。その間に心変わりしても何もおかしくないだろう。


 紬だって、妹が生まれる前までは普通に両親に可愛がってもらっていたのだ。妹が生まれて大きくなると、明らかな区別をつけられるようになった。人はあっさり変わるというのが、紬の持論だった。


 アルニラを待つようになってから20年目になる頃には、アルニラを思い出す日はだいぶ減っていた。それでもアルニラと初めて出会った日付には、毎年あのススキ畑に向かって軽く月を眺めてから帰る。実家には近づかないようにしているので、地元に戻るのはこの日以外にない。


 月を見ながら思うことは、仮にアルニラと再会できたら、どうしたいかということだ。


 何を言いたいかとか、会話は多く思いつく。だが何をしたいのかになると、途端にわからなくなる。会える可能性は限りなく低くなっていると想定しているのもあるかもしれない。


 純粋で明るくて強い心の持ち主から、この20年でアルニラはどれだけ変わったのか。変わっているか、いないのか。生きている以上、変わらないままなのは難しいだろうが。


 一応、全然変わらない人というのもゼロではない。それが、優陽だった。


 文化祭の後、久しぶりに星を見たくなり向かったプラネタリウムで、偶然にも優陽と再会した。それがきっかけで、紬は優陽と交流を持つようになった。


 優陽は、とても優しい性格をしている。15年近い付き合いだが、ここがぶれたことはない。


 紬も優陽に助けられたことが何度もある。主に実家のことで悩んでいたとき、話を聞いてくれた。合理的に解決法を述べることも、慰めることも、両方やってくれた。早々に家族から完全に離れる判断を取れたのも、優陽がいなかったら間違いなくできなかった。


 自分より他人を優先するのは当たり前で、人の力になることを好む利他的な性格をしている。自分の利益を度外視するせいでお人好しがすぎる部分があり、また不器用でもあるので気遣いが空回ることが多い。空気を読むことも苦手で、お世辞にもスマートとは言えない。だから凄く優しい性格なのだが、全くモテなかった。


 20代後半の頃、やっと彼女ができたと嬉しそうに報告してきたが、三ヶ月もしないうちに、浮気されて別れたんだ、と憔悴しきった顔で言ってきた。


「面白味の欠片もないのが嫌だったんだって……。まあ僕が格好悪いのは、自分でもわかってることだけどさ……。まあ、こうやって弱音言うところがもう駄目なんだろうな……」

「こら、自分のことを悪く言うのやめなよ。弱音を我慢して何になるの」

「でも……僕がこういう性格なせいで、あの子に嫌な思いをさせてたんだなって思うと、浮気はひどいなって思うけど、やっぱり申し訳ないなって気持ちが」

「浮気するほうが100%悪いに決まってるでしょうが!!」


 何を言ってるんだ、とさすがに呆れた。


 それに別れた彼女のことを紬は知らないが、見る目がないなあと感じた。


 宇宙を好きな気持ちが実り、かねてより夢だった天文台で勤務している優陽は、宇宙の話をするときが一番楽しそうだ。キラキラを通り越してギラギラした眼差しで、早口気味で語る宇宙の話はさっぱりわからないが、宇宙について話すときの優陽はとても幸せそうなので、見ていてなんだか満足できる。


 それとは別に、少しでも嬉しいことや楽しいことがあったときは、気の抜けた風船のようなふにゃふにゃした笑みを浮かべる。その笑顔は紬の中で、少々癖になるものだった。


 もっとこの笑顔が見たくて、慣れない冗談を言うこともある。そういうとき、優陽は「どういうこと?」とクエスチョンマークを浮かべるので、恥ずかしくなり二度とやるかと決意する。が、結局また、同じ失敗を繰り返す下りを行うのだ。


 真面目でお人好しなのに損をすることが多い優陽に、少しでも笑顔でいる時間が増えればいいと思うからだった。


 優陽とは友人関係でいたし、死ぬまで友人だろうと漫然と思っていた。


 が、先月。10月の終わり頃のことだった。


 休日、一人での買い物帰りにばったり優陽と会った。せっかくだしどこか寄って何か食べようか、という話になり、どこに行こうか相談していたときだ。突然優陽がぐるんと背後を振り返った。


「焼き芋屋の音だ! 紬! 焼き芋! 石焼き芋食べよう! 紬も好きだよね、芋!」

「ちょっと、ごはんは?!」

「ごはんも食べるけど焼き芋も食べよう! おやつ先でもいいじゃない! な!!!」


 じゃ買ってくると、優陽は駆け足で去って行った。確かに風に乗って、石焼き芋のアナウンスが聞こえてきていた。この音を聞いてあそこまで全力疾走する人を生まれて初めて見た。


 程なくして優陽は袋を抱えて満足そうに笑いながら戻ってきて、川原近くの土手に設置されたベンチに座って食べることになった。優陽は幸せそうに焼き芋を頬張っていたが、紬は、いい大人二人が並んで何をしているんだろう、と少し遠い目になっていた。


 けれども、焼き芋は美味しかった。炭の匂いを漂わせる芋の、優しい黄色。ねっとりした歯触りにほくほくの食感、優しい甘みにちょっと熱いなと感じる温度。


 秋空の下で食べる芋は、普通の焼き芋と違う味がした。また、一人で食べる焼き芋とも違うように思った。一人のときより、ずっと美味しく、味が深い気がしたのだ。


 そのときは優陽と、中身のない雑談ばかり交わしていた。交わしていたはずだったのだ。

 焼き芋を食べ終わって少しした頃。この年齢だからか職場で結婚はまだか結婚はまだかと聞かれることが増えてきてうんざりしている、というような愚痴を零したときだった。


 おもむろに優陽が立ち上がった。何度も深呼吸をして、かくかくした動作で紬の正面に立つと、真っ赤になった顔でこう言ったのだ。


「あの、紬、さん!」

「つ、紬さん?」

「ぼ、僕と、その! 結婚を前提としたお付き合いをするのはどうで」


 ひゅー、と紬と優陽の間に白い何かが落下してきた。頭上で響いたカラスの鳴き声。鳥の糞だった。優陽はうわあ、と叫びながら体勢を崩し、その勢いで、背後の土手を転がり落ちていった。


 川に落ちることは避けられたものの、土手を上って戻ってきた優陽は、怪我はなかったものの、服も髪も土と草に塗れてぼろぼろになっていた。


「あの……。後日やり直しさせて頂いてもよろしいでございましょうか……」


 つい、窒息するのではないかという程大笑いした。


 ひとしきり笑った後で、動揺が追いついた。今、自分は、何を言われたのか?


 今は格好悪いから、と渋る優陽に、どういう意味かと問い詰めた。優陽は早々に根負けし、打ち明けてくれた。


「そのままの意味だよ。紬と過ごす時間は居心地がいい。紬の好きなことや嫌いなことを、どんなことであってももっと知っていきたい。この先ずっと、お互い歳を取るまで紬といられたら幸せだろうなあって考えることが、前々から結構あったけど、最近特に増えてきたんだよ。……これもっと、それっぽく言うつもりだったんだけどなあ」


 情けなさすぎる、と肩を落として優陽は言った。その後で首を振り、穏やかな笑みを向けた。


「それに、さ。紬はたまに遠くを見つめている。そこを見ているとき、いつも悲しそうだよね?」


 紬は、息を呑んだ。


「あの、それは……」

「うん、余計なことは聞かない。これはただ単純な話で、そこを見て辛くなるのなら、たまに僕のほうを少しだけ見たとき、ほんのちょっとでも笑顔になれる。僕は君にとって、そういう存在になりたいんだよ」


 紬は身を固まらせながら、その言葉を聞いていた。なんと返せばいいかわからなかった。しかし何か言わなくてはいけない。ようやく口を開いたときに言えたのは、「やり直しの後日を、少し待っていてほしい」というものだった。


「こんな我が儘って思うけど……。でも今、わけがわからなくなってて……」

「いや、もちろんだよ。あまりにも急だしね、大丈夫。それに気遣わなくていいよ。断ってもいい。けどそのときは、友達までやめないでいてくれると嬉しいかな」


 その日以降も優陽は、保留を続ける紬を内心どう思っているかはわからないが、催促も何もしてこず「友人」として接してくれている。


 自分はアルニラからも優陽からも逃げたわけだ。良くないのはわかっている。逃げても何にもならないことも。しかし本当に、自分がどうしたいか「わからない」のだ。


 どちらを選んでも、自分が幸せな家庭を築けられる想像が、全く湧いてこない。


 しかし決めなくてはならない。大きく息を吐き出したときだった。ふと背後で物音が聞こえた気がして、紬は振り返った。薄暗い住宅街の道を、ちかちかした街灯のみが照らしている。


 夜道に一人は危険だ。早く帰ろうと、紬は早足でその場を去った。




 ツムギの小さくなっていく後ろ姿を曲がり角の影から見つめながら、アルニラは叫んだ。


「旅行ってどういうことだーーー!!!!!」

「落ち着け、日帰りって言ってただろ?」

「けどもし、ももももし、何かがあったらどうする! そうなったら僕はチキュウを破壊してしまうかもしれない!!!」

「そんな力あるのか?」

「ないよ! それくらい嫌だってことだよ!」


 その場で地団駄を踏む。ツムギの電話していた相手が婚約者だろうということは、会話の流れから察せた。

 どうするどうする、と回らない頭をフル回転させる。しかしもうとっくに、冷静に思考できる範疇を超えているのだ。


「日曜にシモツキヤマ、と言っていたな……」


 思考できなくなっているなら、残る方法は一つ。行動に出ることのみだ。


「シェダル! 僕達もシモツキヤマに行くぞ! そこでツムギを、どんな手を使ってでも、間男から取り戻すッ!!」

「大丈夫かよ……」


 決戦だ、とアルニラは鼻息荒くして意気込んだ。

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