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リシェルたちがランベルに入ったのは町の西からだ。そこから、ハッドの泊まる宿はやや南にあり、そこは赤鷹組が支配する区画の中だった。なので、はじめは赤鷹組の組長の下へ行くのかと思っていたが、ハッドは北へと足を進める。
「南側にいたのですから、赤鷹組の方へ向かうものかと思っていました」
ハッドは振り向かずに、リシェルに答える。
「まずは黒鷹組から説得します。望みがあるのはどちらかといえば、黒鷹の方です」
「どんな奴なんだ、黒鷹の組長とやらは」
リシェルがハッドの要求を飲んだ後も、ドライスは納得できなさそうに愚痴ていたが、漸く受け入れたのか、自分たちの成すべきことに興味を向けた。
「一言で言えば頑固な人です。職人気質と呼べばいいんでしょうか。自分を曲げず、妥協も許さない。それ故に、自分たちが必死になって見つけた鉱床は自分、黒鷹組のものだと主張して引かないのです。名はオーデュボンといいます」
黒鷹組の長、オーデュボン。ハッドの言葉からの印象と、彼が直前に言った説得の望みがあるといったことが矛盾しているように感じる。赤鷹組の組長の方が気難しい人なのだろうか。それともオーデュボンを懐柔できる策がハッドにはあるのか。
ハッドが自分を求めた意味をリシェルは考えるが、これだという回答は見つからなかった。結局、黒鷹組の長がいる事務所に辿り着くまで、それを考え続けていた。上の空のようになっていたリシェルを、ドライスが肘で軽く突いて我に返らせた。
黒光りする鉄の門。そこに雄々しい鷹の意匠が施されている。門の背後には煤けて灰色になった壁の建物が立つ。縦に伸びる建物の側面には格子の嵌められた窓が均等に並んでいた。
ハッドが門の前に立つ厳つい男に話しかける。おそらく門番なのだろう。その門番に何かを告げると、門番はリシェルとドライスに一瞥をくれた後に気怠そうに門を開けた。重たい鉄の悲鳴が耳に不快感を与えながらそれが開き切るとハッドはずかずかと敷地に踏み込んでいく。リシェルとドライスもハッドの後を追い、建物の中へと入っていった。
入ってすぐの場所で待っていたのは若い女だった。門の前に立っていた厳つい男とは違い、物腰の柔らかそうな人に見える。彼女は一礼をすると、笑みを作ってハッドにこう言った。
「ようこそ、聖絶士様。本日はどのようなご用件でしょうか?」
ハッドも似たような笑みを返す。
「オーデュボン殿と面会させていただけませんか。用件は前と同じです」
「かしこまりました。此方で少々お待ちください」
女は一瞬、リシェルを見た後、踵を返して奥の方へと消えていった。言われた通りに待っていると、程なく女が帰ってきた。
「お待たせしました。此方へどうぞ」
女の案内でリシェルたちは奥へと進む。階段を使って二階、三階と上がっていき、一つの部屋の前に辿り着く。女が扉を軽く叩くと、中から野太い声が飛んできた。
「おう、通せ」
女が扉を開けて、ハッドたちに入る様に促す。扉が開いた瞬間、甘ったるい匂いと共に熱気のような空気が中から漏れてきた。部屋の中には、筋肉質な体躯の男が黒い獣の革で作られた長椅子にふんぞり返って座っていて、両脇に露出の多い服装の女性がいて、男に体を密着させて甘えていた。
「また懲りずに来たのか。それとも俺の方につく気になったか?」
この男がオーデュボンらしい。オーデュボンは女性にばかり目を向けて此方を見ようともしない。手で女性に悪戯をして、女性はくすぐったそうにしながらも喜んでいる。ハッドから伝えられた印象よりも軟派な人に見えて、リシェルは戸惑った。
「聖絶士様が味方になってくれれば、赤鷹なんぞ楽に黙らせられる。お前も仕事をさっさと終わらせられる。それに不満があるはずがないだろう」
「聖絶士は秩序を齎すためにあります。貴方の申し出を受けてしまったら、この町に混乱が生じてしまいます」
「赤鷹の連中を一人残らず追い出せばいいだけの話だ。そうすりゃランベルは黒鷹のもんだ。俺の言うことを聞く奴だけいりゃ、今よりずっと平和で円滑に仕事が出来るぞ」
ハッドはオーデュボンに近付いていく。リシェルとドライスも部屋の奥へと進む。ふと、オーデュボンと目が合う。突き刺すような視線に、リシェルはありえないはずの痛みを覚えて、足を止める。オーデュボンは変わらず視線を刺し続ける。
「恨みを買うような行いはすべきではありませんよ。後々、手痛い報いを受けることになりますから。一旦、鉱床の件を保留して、本来の職務に専念していただくだけで良いのです。ランベルが持つ役割は貴方が一番お分かりでしょう? ファルーナの鉄鋼産業の一翼を担っているランベルが、果たすべき役割を放棄してしまったら、ファルーナの安寧が崩壊してしまいます」
「だからって、なんで俺が手を引かなきゃなんねえんだ。あれを見つけたのは俺だ。俺があれを使う権利を持っているのに、あいつが横取りをしようとしてきてんだぞ。あいつがあの小汚い手を引っ込めりゃ済む話だろうが。お前がやんなきゃなんねえのは、あいつを説き伏せることだろうがよ」
オーデュボンはハッドをねめつけ、怒気の籠った声で言った。両脇の女性はオーデュボンが立腹しているのを察してか、彼から離れていた。
「黒鷹組にも赤鷹組にも、冷静になってもらうことが私の成すべき使命です。先んじてオーデュボン殿にお伺いしたまでで、この後にハリス殿にも同じお話をさせていただきます。その折に、オーデュボン殿が撤退したという事実を持っていければ、あちらもすぐに対応してくれるでしょう」
「そういうことか」
オーデュボンは低い声でそう呟いた。ぎらついた目がリシェルに向く。
「俺ならすぐに懐柔できるから、先に済ませておこうと考えたんだな。女一人差し出せば、この男は簡単に従う、と。舐めてくれたな、聖絶士。これほどの屈辱はない。たとえ聖絶士であろうと、許さねえ!」
激昂したオーデュボンはハッドに掴みかかろうとする。ハッドは涼しい顔をリシェルに向けた。
「駄目ですね、引きましょう」
オーデュボンの拳を、それを見ることなく避けて、ハッドはそそくさと部屋を出ていく。唖然したままそれを見届けるリシェルを、ドライスが急かす。
「行くぞ。あの野郎を逃がすな」
なぜドライスがハッドを逃がすな、と言うのだろう。リシェルの頭の中で疑問符が消えないまま、ドライスに連れられて走る。背後からオーデュボンの怒声が届く。
「待て! お前ら、出てこい!」
それに呼応し、廊下の扉が一斉に開く。オーデュボンに劣らない屈強な男たちが追いかけてくる。前方で待ち構える男たちは、ドライスが次々と薙ぎ倒して道を切り開いていく。ドライスにかかれば、彼らは赤子と変わらないようだ。ただ腕を軽く振るうだけで、リシェルでは敵いそうにない男たちは吹き飛ばされる。おかげで、建物からの脱出は走っているだけで成った。
入り組んだ路地を逃げるハッドをリシェルとドライスは追う。尚も追ってきていた黒鷹組の男たちを撒くと、それに気付いたハッドは緩やかに速度を落として振り返った。ドライスは走る勢いを殺さずにハッドに詰め寄り、胸倉を掴んだ。
「リシェルを売るつもりだったな」
リシェルはドライスを止めようとしていたが、その言葉で静止した。
「あくまで彼の気を惹かせるための材料としか思ってませんでしたよ」
「奴が好色家であることはどうして隠していた? 俺たちにそういうふうに利用することを感づかれるのを避けるためだろ」
「抵抗を持たれるのは分かってました。実際にそのような状況にはしないつもりでしたけど、言葉だけでは信用しきれないでしょう? なので言わずにおこう、と」
ハッドは淡々と答える。それが気に障るのか、ドライスのハッドを掴む手に力が込められる。
「結局、お前は俺たちを都合よく使いたいだけなんだな。俺たちを見逃すなんてのも嘘だろ」
「まさか。ちゃんと協力してくだされば、約束通りマシティアに行く手伝いをしてあげますよ。ただ、黒鷹と赤鷹を説得できなければ、その話もなくなりますが」
ハッドは抵抗を見せない。怒りを露わにしたドライスの顔が間近にあっても、笑む余裕があった。
「平和的解決を模索しているのですから、貴方にも平和的であってほしいです。私に暴力を振るって、何かが得られますか? 寧ろ、不利益を被るのではありませんか?」
ドライスはハッドを鋭く睨みつけた後、舌打ちを鳴らし、突き放すようにしてハッドを解放した。
「リシェルを犠牲にするやり方を取るのならば、俺たちは降りる。お前に追われることになろうとな」
「黒鷹組の説得はもう望めそうにありません。リシェル殿に求めていた役割はあれだけでしたから、此処からどうやって和解に持ち込むかは、もう一度考えなければならなくなりました。黒鷹の支配区画に居続けても、オーデュボン殿の追っ手に狙われるだけ。一旦、宿に戻って策を練り直しましょう」
立ち止まっていてはいずれ追っ手に見つかる。ハッドに従い、リシェルとドライスはハッドの宿がある赤鷹組の支配区画へと戻ることにした。
オーデュボンの追っ手から完全に逃げ切り、赤鷹組が目を光らせる区画に帰ってきた。リシェルは安堵し、長く息を吐いて緊張を解いた。
「安心しきるなよ。赤鷹の縄張りといえど、黒鷹の連中もいるはずだ。あの時の喧嘩だって、赤鷹の縄張りで起きただろう」
ドライスが辺りを警戒しながら、そう呟く。リシェルは背筋を伸ばし直して、同じように辺りを見回した。
「オーデュボン殿は私の拠点を知りませんから、まだ黒鷹組の支配区画で探し回っているんじゃないでしょうか。此方に見つからずに帰ってこられたのは僥倖です」
それからは運が良く、追っ手に出くわすこともなくハッドの宿に戻ってこられた。疲れているのか、困った素振りをしているのか、ハッドは大きな溜め息を吐いて、椅子に腰かける。
「思惑通りにはいかないものです。人の心を動かすのは、魔獣を狩るより難しい。本当に、どうしたものか」
ハッドは弓を手に取り、張り詰めた弦に指を這わせながら、視線を宙に泳がせる。リシェルとドライスがいることなど忘れてしまったかのように沈黙を続けた。
「時間が掛かるのなら一旦、退かせてもらう。まだ俺たちは泊まる場所も決めてないんでな。明日までにはまともな策を考えておけ」
「そうですね。分かりました」
ハッドが気のない返事をすると、ドライスは部屋を出ていく。リシェルはハッドに一礼した後、ドライスの後に付いていった。
宿を出ると、灰色の空が沈んだ暗さを齎していることに気付いた。夜の前兆たる赤い空が訪れることはなく、心構えもないままに闇が空を支配し始めていた。
リシェルとドライスは赤鷹組の区画から出ないように歩き回り、安すぎず高くもない宿を見つけて、そこに泊まることにした。部屋を取る時、「部屋を二つ」とドライスが言ってリシェルは今まで忘れていたロコロタのことを思い出した。
「そうだ、ロコロタさん! ロコロタさんは何処にいるんでしょうか。いつだったからか見かけていませんが」
慌てるリシェルに反して、ドライスは平静を保ったままだった。寧ろ、何の感情も抱いていないような様子で言葉を返す。
「ああ、あいつか。別に放っておいて構わないだろう。今までだって何処ぞへほっつき回っても帰ってきてはいたんだ。これだけでかい町だから、自慢の詩で金稼ぎに精を出してるんだろ」
確かにロコロタは旅の間、勝手にいなくなっていつの間にか帰ってくることは再三にあった。それでも、そういう放浪癖はランベルほど大きくない町や村でのことだし、加えて泊まる場所を知らせていないのは初めてだったので心配だった。
「なんなら、俺たちといないほうがあいつにとっては安全だろう」
そうした不安を呟くと、ドライスはこう返した。黒鷹組に追われている自分たちと一緒にいたらロコロタも狙われるかもしれない、ということを暗に言っている。リシェルはやはりロコロタが心配だったが、非のない彼を巻き込むのは申し訳ないとも思い、ドライスの言葉に納得することにした。
リシェルは荷物を部屋に置いてから、ドライスの部屋を訪ねた。ドライスは窓際にある椅子に座り、腕を組んで難しい顔をしていた。日中の出来事を考えれば、ドライスがそういう顔をしている理由も分かる。ドライスはハッドに対して不満と不信が募っているのだ。
「舐められている。不公平なのが嫌いだなどと宣っておいて、あの扱いだとは」
やはり、そうだ。リシェルはドライスと同じような感情を持てなかった。ハッドに騙されたとは思えない。彼の気持ちに嘘はないと信じたい自分がいた。
「奴の策はあまりに稚拙だ。あんなことで本当に懐柔できると本気で考えていたのなら、奴は俺たちだけじゃなくて、オーデュボンも見下していることになる。自分以外は単純で低能な哀れな生き物とでも思っているような、そういう見下し方だ」
反論は出来なかった。しかし、同意も出来なかった。リシェルは黙って、ドライスの次の言葉を待つ。
「これ以上、奴に協力したとして、俺たちの願いが叶えられる可能性はない。どう転んでも、リシェルが捕縛されることに変わりはないだろう。下手に利用されて、お終いだ。明朝にランベルを出て、国境を目指す。聖絶士に見つかってしまったからには、ファルーナに長居できない。国境は無理矢理にでも突破するしかないな」
「見捨てるんですか」
ドライスは厳めしい顔を保ったまま、目だけを丸くしてリシェルを見返してきた。
「この期に及んで何を言ってやがる。この町の問題を解決しなきゃならないのはハッドだけだ。もう俺たちが関わるべき問題じゃない。婆さんに会わなきゃならないだろう? 都合よく利用されるのを分かっていてまで、首を突っ込むべきことじゃない」
「そうかもしれませんが、でも……」
「随分と薄情なんだな」
何処からか声が聞こえた。リシェルとドライスは辺りを見回すが、人がいるはずもない。隠れられる場所はベッドの下くらいで、ドライスがすぐに確認したが誰もいなかった。
ドライスがベッドの下から頭を出そうとした時、その後頭部に小さな獣が飛び乗った。リシェルは一瞬ネズミかと思ったが、焦げ茶色の毛並みとふさふさの毛で覆われた長い尾から、リスであると認識を改めた。そのリスはドライスの頭にしがみつきながら、人のような笑い声をあげた。
「あはは! 残念だったな」
笑い声に続いて、はっきりとした言葉をリスが発した。ドライスはリスを掴もうとするが、指の間を鮮やかに抜けられ、ドライスの腕を伝っていって、肘の辺りで大きく跳躍してベッドの上に着地した。
「このヒースキー様が只の人間に捕まると思うか?」
後ろの足だけで立って薄黄色の腹を見せながら、ヒースキーと名乗るリスは煽るような素振りをした。ドライスは舌打ちをしたものの、ヒースキーを捕まえようとはせずに冷たい視線で見下ろし続けた。
「聖獣だな。ハッドの間諜として尾行してきていたのか」
聖獣という言葉でリシェルは昔の記憶を鮮明にさせて思い出していた。それを余所に、ドライスとヒースキーは問答をしていた。
「人聞きの悪い。俺様はお前らが誤解してんじゃねえか、って心配になってついてきただけだ」
「それならば、どうして姿を見せずにいた? 俺たちの動向を見張るためだろう」
「見張るのが目的なら、見つからないようにずっと隠れてらあ。わざわざ姿晒して、お前たちの前に出てやったんだ。お前は見かけによらず頭が切れるようだが、俺様が出てきた意味くらい考えたらどうだ?」
ドライスは頬を引きつらせてヒースキーを見る。その様を見て、ヒースキーは人間がするような意地の悪い表情をした。
「まあ、喧嘩しに来たわけじゃねえからな。口下手なご主人を救ってやるのも聖獣の役目だ。面食らったままのお嬢ちゃん、話を聞く準備は出来てるか?」
意識が現実へと戻る。リシェルは何を聞かれたのかも分からずに、ヒースキーをまじまじと見た。
「聖獣って喋れるんですね」
聖絶士も聖獣も、リシェルは身に染みてその存在を知っている。ファルーナの言葉を覚えてから、自分を助けてくれた人と傍に寄り添っていた獣のことを真っ先に教えてもらっていた。彼とその獣の名は今でも覚えている。いつか礼を言える日がくれば、という思いを胸に秘めたまま、未だに彼らと会うことは出来ずにいた。
彼の聖獣と違ってヒースキーは小さく、か弱そうだ。だが、普通のリスにしか見えないのに、人間と同じような振る舞いをしていることがリシェルには不思議に思えた。
聖獣とは聖絶士のために聖なる神が遣わした魔を祓う手助けをしてくれる獣のことだと言われている。聖獣がどのようにして生まれて、どういう経緯で聖絶士に遣わされるのかは知らない。ただ、聖獣は共にある聖絶士に従順であり、心を通わせることが出来る存在であるということだけが聖なる獣と呼ばれるものたちについて知りえた情報だった。
「俺様みたいに喋れる奴には会ったことはないな。普通の聖獣はそんな手間なことしなくても、相棒とは心と心で会話できるらしいが、俺様にはさっぱりそのやり方が分からない。まあ、その必要もないといえばないし、相棒以外ともこうやって喋れるのはお得だよな」
「会話は出来なくても、私が気持ちを言葉にしたら、それを理解してくれるでしょうか」
小さな体でもヒースキーが眉を顰めたのがはっきり見て取れた。
「礼でも言いたい相手がいるのかい?」
「命を救ってくれた聖絶士の方がいるんです。ファルーナを出ていく身ですが、もしその前にその御方と聖獣にもう一度お会いできたなら、しっかり感謝を伝えたくて。聖絶士はガルフという名で、聖獣の方はアルドラという名だということは分かっているのですが」
「ガルフだって?」
ヒースキーは声を裏返らせて、そう言った。リシェルは驚きを体全体で表すヒースキーを少し滑稽に思いながらも、そのような態度を見せたことに疑問を覚えた。
「ご存知なんですか?」
「そりゃ仲間だったから、知ってて当然だ。あいつらに助けられたのか。だったら尚更、忠告してやらなきゃいけない。ファルーナに仇為すものは死という制裁を与えられるまで、安らぎを得られない。お前たちもハッドに後ろ足で砂を掛けるような真似はするなよ。ガルフのように、死体となるまで追われ続けることになっちまうからな」
どういう意味なのか、飲み込むまで間があった。飲み下し、腹の中に収まった時、体全体がひやりと冷たくなった。唇を震わせて、リシェルは聞き返す。
「ガルフさんは、亡くなられたのですか?」
「数年前、教皇庁への離反が認められて奴は裁かれた。奴もしぶとく逃げ回っていたが、聖絶士たちが総出で追跡し続けて、ソルヴァの奥地で発見された。奴は稀代の聖絶士と呼ばれていてな。抵抗が激しくて苦戦を強いられたが、なんとか奴を殺すことができた。ガルフは聖絶士としてファルーナに最も貢献した人物だったが、そんな奴でも、教皇庁の意に反する行いをすれば容赦なく殺される。何があろうと、絶対に殺される。お嬢ちゃんにも今、その制裁の手が喉元まで伸びてきてるんだ。そいつをハッドは善意だけで振り払ってやろうとしてるんだぜ? まあ、ちょっと人とズレてる感覚を持ってる奴ではあるけど、悪気があるわけじゃないんだ。頼むよ、もう少しだけ、あいつを信じてはくれないか?」
リシェルは後半の話がほとんど耳に入っていなかった。ガルフが殺されていたことが衝撃的すぎて、それ以外の事が考えられずにいた。
「俺たちに選択する権利が消えている。お前の真の役割がなんであろうと、監視されている事実が付きまとうわけだ。強烈な脅しもされた以上、お前たちに従う他ないだろう」
代わって、ドライスが淡々とヒースキーに話す。自分には無駄な情報を排し、置かれている状況を的確に分析して言葉にしている。今、心が凍り付いているリシェルには、冷静にこの場を取り繕ってくれているドライスは体温を取り戻す猶予を作ってくれる唯一の存在だった。
いくつかの問答が繰り返された後、ヒースキーが「お前たちが決めることにケチはつけないが、一番安全な選択はハッドに協力することだからな」と念を押して、窓を少し開けて作った隙間からいなくなるのをリシェルは認識した。開けられたままの窓をドライスは不必要なほどの力を込めて閉める。再び椅子に座ると、疲弊の色をその目に見せた。
「死んだ人間のことを考えるな」
覇気のない声でリシェルに言う。リシェルは崩れる様にしてベッドの端に腰を下ろした。
「思いを伝えたい人に限って、この世にいない。こんなに辛いことはありません」
「そういう感情を背負い込んだところで重荷にしかならん。楽になりたいなら、この世にいないもののことなど忘れろ」
割り切ることなどリシェルには出来なかった。命を救ってくれた恩人がまた一人、いなくなった。マリーとガルフがいなければ、自分は生きていなかった。自分だけが生きて、この命を守り、支えてくれた人が死んだ。痛感するには鋭すぎるその事実が、リシェルを酷く落ち込ませた。
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