ハッドの泊まる宿は豪奢なものだった。灰色の空と味気ない建物たちの中で、鮮やかな彩りと飾り付けが目を引き、内部もそれと同じくらいに派手で、リシェルは目が回りそうになった。

「普通の客が泊まる所ではないです。わざわざ、自分の足で買い付けに来る物好きな豪商や、お忍びで宝石を買いに来る貴人たちのための宿です」

 ハッドは説明しながら、自分の泊まる部屋へと向かっていく。真紅の絨毯が引かれた廊下を随分と進み、その部屋に辿り着く。しげしげと辺りを見回していたリシェルは扉の中に消えていくハッドに気付かず、ドライスにどやされて慌てて後に続いた。

 部屋の中も隙はなく、窓から覗く汚れた空が似つかわしくないほどに清潔感が充満していた。ハッドは翆緑色の布張りがされた長椅子に腰を掛けると、テーブルを挟んで向かいにある同じような長椅子に掛ける様にリシェルとドライスを促した。背負っていた弓は立てかけるようにして隣に置いている。リシェルはその光景に何か違和感を覚えながらも腰を下ろした。長椅子は中に綿でも入っているのか、柔らかくてとても座り心地が良かった。ドライスは椅子に浅く座り、両足をしっかり床に下ろして膝に腕を置いて前かがみ気味にハッドに対面していた。

「まずは、お名前をお聞きしても?」

 自分たちがまだ名乗っていないことに気付いた。リシェルは姿勢を正して、一つ息を吐いてから声を出した

「リシェルと申します。此方はドライスさんです」

 ドライスはしかめっ面を崩さず、ハッドをねめつけていた。

「ではリシェル殿、なぜ貴女がアルテナの剣を持っているのか、説明してくれますか?」

 ハッドは穏やかな口調で問う。切れ長の細い目が自分の何を見ているのかは知れないが、リシェルは嘘偽りなく自分の出自と旅の目的を話した。出立の際、メイツァーからアルテナの剣を授かったことを話すと、ハッドは嘆息のような息を漏らした。

「なるほど、理解しました。すなわち、洗礼の儀を受けないまま、神器を持ってファルーナを出ていこうとなされているわけですね」

 椅子の沈み方が変わり、ドライスが少し腰を浮かせたのを感じる。リシェルはドライスの方に視線だけを向けた。

「たとえ適合者であろうと、神器を持ち逃げするのを許しはしないか?」

「ファルーナの神器は全て、ファルーナ教皇の持ち物ですから。ファルーナのお膝元を離れていこうものなら、聖絶士でも罰せられます」

「死罪、ということだな?」

 ドライスが低い声でそう問うと、ハッドは軽く頷いた。リシェルは胸の奥で臓器が縮こまる感触を得た。

「実際の話、神器を持って逃亡した聖絶士にそれが適用されることは稀です。なんせ、逃亡するのは決まって熟達した戦士なので、易々と後を追わせてくれない。不甲斐ないことに、ファルーナの歴史上で死罪が適用されたのは知れた数しかなく、ほとんど逃げ切られてしまっているんですよ」

「それゆえに、目の前でのうのうとしている小娘は逃がすわけにはいかないか?」

 これには首を横に振って否定した。

「それが目的なら、あの場所で貴方たちを見つけた時点でやってます。リシェル殿が持っている剣がアルテナであると、一目で気付きましたから」

「どうして、これがアルテナ様の剣であると分かったのですか?」

 リシェルは声が詰まりそうになるのを堪えて尋ねた。教会で祀られていたのは、偽物の神器だ。メイツァーによって秘匿されていた本物の神器を、ハッドがそれだと見抜いた理由を知りたかった。

「教皇庁にはファルーナが保持している神器やその神器に選ばれた聖絶士たちの資料があります。聖絶士はその全ての情報を頭の中に叩きこまなければならないのです。まあ、ほとんど役に立ったことはありませんが、今回初めて覚えておいて良かったと思いました。純白の鞘に納められた、金の柄の小振りの剣。資料の中に描かれたものと合致したので、確信しました」

「どこにでもあるような、ちゃちな剣にしか見えないのに確信しただと? 嘯くのも大概にしろ。もっと他に、決定的な根拠があるはずだ」

 リシェルは納得しそうになっていたが、ドライスが放った言葉で謎が消化されずに残った。改めてハッドの顔を見ると、ハッドは口元に微かに笑みを浮かべてドライスを見ていた。

「邪推は貴方自身を苦しめるだけですよ、ドライス殿。私は貴方たちに信用してもらおうと、口外してはならない教皇庁の機密事項を提示して、根拠を述べました。聖絶士にもならずに神器を持って逃亡しようと企むリシェル殿にも目を瞑ろうとしているのです。私がこうまでして、貴方がたにへつらう意味を考えていただきたい」

「……これは取り引きだ、とでも言いたいのか? 俺たちを見逃す代わりに、何を求めるというんだ」

 ドライスの険しい表情は変わらない。リシェルはハッドとドライスだけが理解している話の流れに、一人だけ取り残されていた。両者の顔を代わる代わる見て、なんとか話を理解しようとした。

「貴方たちが止めた喧嘩。あれはただの荒くれ者同士の喧嘩というわけではないんです」

 かたかたと窓が鳴った。リシェルはそれに気を取られそうになったが、我慢してハッドに視線を向け続ける。

「ランベルには町の長が二人います。しかも通常の町長とは違い、彼らは鉱業組合の長をそれぞれ務め、鉱山を中心に東西で真っ二つに分けた北と南を支配地として町の管理と鉱業活動を行っています。町の北側には黒鷹組、南側には赤鷹組。二つの組は互いに干渉し合わず、鉱山すらも半分に分け合って採掘を行っているのです」

 聞いたことがある言葉があった。喧嘩をしていた男たちの一人が赤鷹、と言っていたと記憶している。リシェルは二人の会話の内容を思い出そうとしながら、ハッドの言葉にも耳を傾ける。

「この二つの組が互いに研鑽と競争をしてきたためにランベルは繁栄しました。良好な関係を築いていると思われていたのですが、近頃、その関係が一変する出来事が起きました。黒鷹組の鉱夫が鉱山にて新種の鉱石を発掘したのです。通常であれば、それを発掘した黒鷹組に鉱石の鉱床の所有権があるのですが、それが発掘された場所は赤鷹組の管理する領域にあったことが判明しました。赤鷹組も鉱床の所有権を主張し、二つの組は互いに引かずに、今もなお鉱床がどちらのものかを争っている状態なのです。その争いは組員にまで波及し、瑣末な諍いがランベルのあちこちで起きる様になってしまいました」

 リシェルは頭の中で絡まっていた紐が解けたような感覚になった。思わず声を出し、見つけた答えをハッドに伝えようとする。

「先程、喧嘩をしていた二人。あの方々は黒鷹組と赤鷹組の組員さんだったのではないでしょうか」

 ハッドは何度も頷きながら答える。

「ええ、そうです。彼らを誰も止めなかったのは、関わって組の者に目を付けられたくないから。どちらかの組に肩入れしていると思われてしまったら、商売に支障をきたしたり、悪質な嫌がらせを受けることになりかねませんから」

 ドライスが何か言いたげな目を向けてきたが、直ぐに逸らしてハッドの方に戻した。

「町の人たちへの影響はまだその程度ですが、鉱業自体に多くの影響が及ぼされています。新種の鉱石の鉱床を勝手に使われないようにと、どちらの組も見張りを立てて、人員が多く割かれている状態にあります。そうなると、本来の鉱業に割かれる人手がなくなるわけで、生産量が著しく落ちてしまっているのです。ファルーナの軍で使われる武具はこのランベルで賄われています。その供給が途絶えてしまえば、賊や魔獣に対抗できる術がなくなってしまう。それを防ぐために、私は教皇庁より派遣されてきたのです」

「聖絶士というのは魔獣を祓うことが役目だと思っていたのですが、このようなこともなさるのですね」

 ハッドは細い目を更に細めて苦笑いを浮かべた。

「魔獣もそんなに出現するわけではありませんから、我々の任務の大半はこんなことです。言われたことをこなす。それに逆らうことは許されない。しかも休みもないままに次の仕事が宛がわれるんですから大変です。目的があるリシェル殿が聖絶士になってしまったら、それを叶えることは死ぬまで無理でしょうね」

 リシェルは腹の底がぞくりと冷えるのを感じた。聖絶士になったら、祖母と一生会えなくなる。だが、聖絶士になることを拒んだら死が待っている。どちらを選択しても、リシェルの影に夜よりも深い闇が落ちる。そして今、聖絶士でない自分の前に自分を粛清するであろう聖絶士がいる。彼は何食わぬ顔をしているが、その手の中で一つの命を転がして弄んでいるのかもしれない。表情に影のないハッドに、リシェルは却って悍ましさを覚えた。

「お前の任務は分かった。それで、俺たちに何を望む? 俺たちを見逃すことと釣り合うようなことをさせるんだろう?」

「単純です。黒鷹組と赤鷹組を和解させるのを手伝ってください。一度、二人の長と話し合いをしたのですが、全く聞く耳を持ってもらえなかった。リシェル殿がいれば、もしかしたら、話を聞いてもらえるかもしれないのです」

「こいつが? こいつは交渉術なんて持ち合わせてないぞ」

 値切りの交渉なら、と口に出かかったが、馬鹿にされるだけだと気付き、喉の奥に押し戻した。

「必要なのはそういう類の能力ではありません。リシェル殿にしか出来ないことをしていただきたい。どうでしょう、この取り引きに応じていただけますか?」

「断れないことを分かってるくせに」

 ドライスがそう零したように、拒否することは出来ない問いかけだった。従わなければ、自分はファルーナに仇なすものとして殺される。首を縦に振る以外に答えは用意されていない。だから、ふと疑問に思った。

「取り引きである必要なんてないのでは? 立場を考えれば、強制的に従わせるほどにハッドさんの方が優位ではありませんか」

 任務を手伝わせた後、教皇庁に送り、聖絶士にさせてしまえる。ハッドならば、それが出来るのではないか。わざわざ、取り引きという形で協力を仰ぐ意味が見えなかった。

 ハッドが笑みを浮かべた。彼が今まで見せた笑みとは違う、穏やかさや愛想を振り撒くものでない、面白いと思っているだけの笑みのように見えた。

「不公平なのは嫌いなんです。貴女は間違ったことをしたわけではない。この国の規則からずれてしまっているだけで、故国に帰りたい、肉親に会いたいという思いは否定されてはいけないものだ。しかし、私は聖絶士。この国の秩序を守るために神器に選ばれた者。建前として、貴方を罰しなければならない立場にいる。どうにもそれが歯痒く感じてしまっています。私の責務とリシェル殿の純粋な思い。この取り引きで釣り合いが取れているとはまだ思っていないほどです。もし、二つの組を和解に導くことが出来たら、マシティアへ入る手伝いをさせてもらいたい。これならば、不満もなく快諾していただけるのではないでしょうか」

「信用はできない」

 ドライスは吐き捨てる様に言った。ハッドの笑みが苦笑に変わる。

「辛いですね、信じてもらえないのは。でも、私はそのつもりで貴方たちに協力を願います。もし断ったとしても、拘束したりすることはありません。ですから、自分の意志で私の手を取ってくれませんか?」

 マシティアに入る方法は未だに見つかっていない。ハッドの任務を手伝えば、それが解決する可能性が上がる。それに、あの喧嘩を見てしまっている。いがみ合い、憎しみを爆発させる二人。それを素知らぬ顔でやり過ごす人々。それを放置しておくことはリシェルの性根が許さなかった。

 差し出されたハッドの手に、リシェルは自分の手を重ねた。包み込むようにして優しく握ると、ハッドは同じように握り返してくれた。

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