黒星と共に征く英雄の道 〜実体のない美女に命を救われたので、代わりに迷宮を進む話~

獣乃ユル

序章 迷宮脱出編

迷宮 十七階層にて

 初めに、世界があった。

 それに付随して、迷宮が生まれた。


 迷宮とは、人の手が加わらずしてどの人工物よりも雄大で美しいものであり、何よりも悪辣な血の箱庭である。

 けれど、その分迷宮の持つリターンは大きかった。現在の文明では作れない武具や、異常な出力を持った燃料、空を飛べるようになる道具まで。数多の人間が欲する金銀財宝が、迷宮には存在する。


 迷宮の輝きは鮮烈で。

 だからこそ、その影に呑まれて死にゆくものは後を絶たない。


 これは、それに少年の話である。


「っ……あぁ!」


 世界迷宮、第十七階層。


 洞穴があった。人が横並びで三人立っていられるほどの大きさで、迷宮の中だというのに何の変哲もない風景だった。

 ごつごつとした表面を持った岩肌が左右にあり、踏みしめる足からは無機質な石の感触が帰ってくる。迷宮の中だというのを忘れてしまいそうなほどなだらかで、穏やかな時間が流れていた。


 天井から水滴が滴り、落下する。

 それは、迷宮を一人で歩く少年の白髪を濡らした。


「なんでっ、こんなことに……!!」


 緩慢とした風景とは対照的に、少年の息は上がり切っている。

 彼の全身、その至る所には擦り傷がある。右手で動かなくなった左手を抑え、痛みで動かしにくい右足を引きずっている。


 まさに満身創痍。

 この少年は、まともに動ける状態ではない。


 彼の名前は「カナ・トーラド」。

 迷宮近辺の村に住んでいる、普通の農民だった。


「GYAOOOOO!!!!!」


「ひっ!?」


 何処かから聞こえてきた異形の咆哮に身を縮こまらせる。

 そして、脅威が過ぎ去ったかと思えば、また歩き始めた。


 彼の腰には剣がぶら下げられているが、手入れもまともにされておらず、粗悪な品だ。それに、カナはまともに剣を振れる様な技能を兼ね備えてはいなかった。畑仕事で鍬は振ってきたが、それで戦えるようになるはずもない。


 彼は無力だった。

 その上、野心もない。


 なら、何故カナはここに居るのか?

 理由は単純だ。彼は、眼を覆いたくなるほどに不運だった。


 迷宮は、時に地形を変化させる。

 下の階層に溜まった魔力や、抑えきれない程の魔力を持った何かが現れた時に、ガス抜きの為に縦穴を出現させる。


 一層を探索していたカナは、その縦穴……二十七階層、まで繋がる縦穴に、偶然巻き込まれただけだった。そう、只運が悪かっただけなのだ。


 余談だが、迷宮を探索する者達、「冒険者」の中では、一つの常識が存在する。

 「初心者は五階層まで到達できれば天才。普通なら三階で死にかける」


 普通、当たり前、常識。

 それらを越えた不運は、彼を死へと追い込んでいく。


「ぐっ……」


 カナの体が叫んでいる。


 傷が痛む。体の節々がいたい。

 このまま眠れたなら、どれだけ楽なんだろうな。でも、駄目だ。俺が帰らなきゃ、みんな心配するだろ。それに、まだあの時の事だって何も知らないままだ。こんなところで、死ねるわけがない──!


 そんな決意を滲ませた一歩は、また不幸にも。

 天井から滴り落ちる水滴でできた水たまりを、大きな音と共に踏み抜いた。


「QYA?」


「あ」


 巨大な虫のような何かが、カナを見ている。

 それは一瞬、困惑するように首を傾げ、嬉しそうに翅を羽ばたかせた。


 悪辣に、残酷に。

 それは、無抵抗の獲物を見つけた喜びを示す。


「クソがぁぁぁぁぁ!!!!!」


 カナは絶叫した。声も、音も出さなかった彼の理性は、恐ろしい羽虫によって粉々に打ち砕かれたのだ。疲れた彼の精神は、それほどまでに弱っていた。


 恐怖、絶望、悲哀。その叫び声に込められたのは、負の感情しかない。

 それでも、腑抜けきった体を動かすには十分だ。


「っ、っ!!」


 足を回して、体を只管前傾にして。

 カナが出せる全速力で、進んでいく。

 

 でも、羽音は離れない。それどころか、近づいてきている。

 響く牙の音は、餌に在りつけた喜びに震えているようだった。


 カナの心臓が早鐘を鳴らしている。すぐそばで響く雑音が、真っすぐにカナの末路を伝えていた。

 死ぬ、死ぬ。ここで、何もできずに。死──


 キン、と金属音が響いて。

 羽音も、牙を打ち鳴らす音も聞こえなくなった。


「QYU」


 カナの耳には確かに、何かが落ちる音が背後から聞こえた。

 それは、蟲の死骸が転がった音なんだと、直感で理解した。


 虫が死ぬ前に響いたその金属音は、剣を引き抜いたときに奏でられるもののようだった。けれど、カナは剣を抜いてすらいない。

 じゃあ、助けが来たのか?そんな、希望と楽観に満ち溢れた考えが脳を通り抜ける。


 でも、違うと分かっていた。

 虫に出会った時よりも深刻に、体が泣いている。叫んでいる。


 終わりたくないと。


「けん、し?」


「……」


 振り返ってみると、そこに在る影は人型だった。それも、成人の男性ほどの背丈を持っている。

 全身は薄手の鎧で包まれており、その右手には剣が握られている。高名な騎士が落ちぶれたようにも見えるその姿だが、カナにはそれが人ではないと容易に理解できた。

 兜の中で揺らめく二つの炎が、双眸のように自分を捉えていたからだ。


 その時、カナは自分が偶然救われただけというのを理解した。

 騎士から放たれる刺すような殺意がそれを物語っている。


 世界では、「幽鬼グリオーガム」と呼ばれているその魔物。人間を模したそれが、カナに対して剣先を向ける。

 それは攻撃でも、威嚇でもなかった。


(抜けって、言いたいのか)


 剣の切っ先はカナの腰に向けられている。

 ちょうど、護身用の剣がかけられている場所に。


 幽鬼は、一対一を好む性質を持っている。

 武器を持った相手に正面衝突を挑み、それに勝利することで自分を磨いていくのだ。この厄介なところは、別に幽鬼は強者との戦いを望んでいるわけではないというところにある。

 仮に、第一層でも苦しむような軟弱な少年が相手であろうとも、幽鬼は淡々と、冷徹に勝負を挑む。


 逃げることは許されない。

 背を向けた瞬間、迫りくるのは斬撃だ。見送ってくれるような優しさはない。


「……ああ」


 剣を向けられたまま、カナは呟いた。

 そして、膝から崩れ落ちた。


 カナは、限界を迎えた。

 身体的にも、精神もだ。平穏な生活を享受していた彼は浴びるには迷宮の絶望は濃厚で、強大なものだった。


 思考が、靄がかかったかのようにぼやけていく。下半身の神経が無くなったかのように、両の脚に力が入らなくなっていく。その脱力に身を任せ、カナは地面に膝をついた。


 目の前は、真っ白だった。幽鬼の姿も、迷宮も無い。死の間際に視た、泡沫の走馬灯だ。

 真っ白になった視界の中で、一つだけ、浮かび上がってくるものがあった。


 故郷の風景。

 一面に広がる畑、一緒に遊んできた同年代の友人、あくびが出るくらい、退屈な日々。それが、崩れ去ったあの日。


 畑の作物が燃料となって燃えて。

 同年代の友人は全て死んで。


 自分だけが残ったあの日に、誓った筈なのに。アイツらの分まで生きると、そう願った筈なのに。


「……」


 人生の後悔だとか、悔やんでも悔やみきれないような過去が、脳髄を支配する。

 暗いだけのあらすじを読み聞かされているようで、カナは何処か他人事だった。だから、頭が冷え切っていたからこそ、気づいたのだろう。


 幽鬼が、一つの身じろぎもしないこと、天井から、一つも水滴が堕ちてきていないことに。


 時が、止まっていた。


「ねぇ、そこの君?」


「え」


 いつの間にか、眼前には女の顔が在った。

 その顔しか見えない程近距離に。


 女は艶のある黒髪が印象的で、それは毛先に行けば行くほど紫がかっている。

 カナを見つめるその瞳は優しい深淵のようで、吸い込まれるような魅力を持っていた。


 そして何よりも、美しかった。

 整った顔立ちが、何処か達観した表情によって色付けされている。艶やかで、流麗な顔つきだった。


「死にたくない?」


「……そりゃ、勿論」


 何も呑み込めていない脳内。

 何で時が止まって、俺の眼の前に美女が現れたのか。疑問だらけの脳みそで、それでも口から出てきたのは、本音だった。


「こんなところで、死にたくない」


 まだ何も残せていない。

 終われない。


「そっか。なら、取引しない?」


「取引?」


「うん」


 悪戯っぽく女が嗤う。

 その相貌は、名画のように美しかった。


「私も、死にたくないんだ。でも、このままじゃ死ぬ。だから、君の力を借りたい」


「俺に出来る事なんて」


「良いんだ。君は、生きているだけでいい。その代わりに、私を体の中で住まわせてほしい」


「……え?」


 カナは困惑した。

 もっと疑問が増えていく。


「そうすれば、この状況は脱せられる」


「そうすれば、生き残れる?」


「勿論だ」


「……なら」


 ぱっ、と。

 カナの頭が晴れ渡っていく。疑問も、後悔もどうだっていい。ここから抜け出せる方法があるんだっていうのなら、藁にだって縋りついて見せる。


「取引を、受けます」


「良かった。君が賢い人間で」


 ふわりと笑った女は、カナの指先に触れる。

 女の指の辺りが微かに発光し、それが伝播するようにカナの体へと伝わって、仄かな光で体が包まれた。


「契約は成立した。此処から脱出させることを約束しよう」


 女が微笑んで、その姿がほどけるように消えていく。

 それと反対に、体の奥底に燃えてしまいそうなほどに滾った何かが現れたのを感じた。


「まずはその力を試してもらおうか。手始めに」


 止まった時間が動き出し、幽鬼が剣を構えなおす。

 慄くような、驚愕するような動きで咄嗟に臨戦態勢をとる幽鬼からは、先ほどまでの余裕は消え去っていた。ただの獲物ではない。今のカナは、そう認識されるほどに──


「その幽鬼を討伐してもらう」


 対「幽鬼グリオーガム」戦、開幕。



 ◆




 迷宮の崩落は、余りある力を抑えるための防衛機能だ。

 迷宮の内部に居てはいけないほどの力を持った何か。それを今この場で……


 


「……」


 幽鬼よりも亡霊のように、ゆらりとカナは立ち上がる。

 弱弱しくて、頼りない。けれど、絶対にもう斃れはしない。


 カナによって抜き放たれた剣が、光を反射して輝く。

 まともに振るったことは殆ど無い。けれど、何故だか異常に体になじんでいることが分かった。手足があることが当たり前であるように、その剣を握っている事が当たり前だと感じる。


「君の体では長くは持たないよ。さっさと終わらせよう」


「了解」


 あふれんばかりの力から齎される全能感を理性で押し殺して、剣を構える。

 強くなったのかもしれない。でも、俺は俺のままだ。


 落ち着け。


「っ!」


 幽鬼が動き出す。

 魔力と筋力が炸裂し、足元の岩肌がはじけ飛ぶ。瞬間移動にも見えるほどの踏み込み、常人なら反応できない理不尽の押し付け。だが、カナの瞳は、それを捉え切っていた。


(早い。でも、


 カナの、真っ白な瞳。その眼が、昏い光を灯す。

 紫と黒の中間のような眼光は、幽鬼の姿をカナに視せることを可能にした。


 カナが滑らせるように幽鬼の攻撃の軌道上に剣を移動させ、攻撃を防ぐ。

 受け止め、鍔迫り合いへと移行する。


「っ、あぁ!!」


「……!?」


 幽鬼が驚愕に眼を見開いた、ように見えた。

 振り下ろした剣と、受け止めた剣。力の差も踏まえて、幽鬼が負けるはずがない。だが実際、幽鬼の剣は押し返されていた。


「ふき、とべ!」


 驚愕に染まった幽鬼の意識の隙間に、カナが動く。

 剣の角度をずらすことで幽鬼の力を受け流し、体勢を崩した幽鬼の腹に蹴りを入れる。


 幽鬼の鎧が歪み、体が吹き飛ばされる。

 何とか両足で踏ん張って立っているようだが、足元には深く轍が刻まれていた。


 距離が生まれる。そして、両方動きを止めた。

 互いが互いを推し量るが故に生まれたこの距離と時間で、カナは息を吸い込む。


(つらいな)


 優勢だ。負ける気はしない。

 力で勝ち、動きは補足しきっている。それでも、足りないのだ。傷ついた体が痛んで、この力を振るうには軟弱な肉体が軋む。


 足りない。


「動き回るには、あまりにも」


 幽鬼の動きについていくのは不可能だ。

 どうすれば


「なら、動かなければいいんじゃない?」


 沈黙を貫いていた女が、思考の中で囁いてくる。

 端的な一言。それだけで、カナの凝り固まった思考は解された。


「……そうか!」


 カナは姿勢を屈め、幽鬼に肉薄する。

 反応される前に左手で拳を叩き込み、怯んだ幽鬼に剣を振るう。


「……!!」


 反撃で幽鬼の剣筋が閃く。

 カナは、避けようとはしなかった。


「う、ぐうっあ!!!」


 腕に剣が食い込む。

 女から受け取った魔力が腕に集中したことで、魔力の塊として剣の勢いを殺した。だがら攻撃を受け止め切れる程制御は出来ていない。


 腕からは血が流れ、激痛が走る。それでも、カナは一歩前へと踏み出した。


 肉を切らせて骨を断つ。

 腕ならくれてやる。だから、その剣を


「寄こせ」


 右足を軸に、少し体を回転させる。それによって生まれた勢いは、その鉄拳の威力を増大させる!


 狙う先は、ただ一つ。


 幽鬼が狙いに気づき、手を引こうとする。

 それよりも速くに、拳が奔る。


「!?」


 剣を握りしめた手を目掛けてカナは攻撃を繰り出し、命中させた。

 幽鬼の手が衝撃で痺れ、剣を落とす。からんと響いた音が、虚しく反響した。


「やっと、隙見せたな」


 攻撃の要を失ったこと。

 魔物として、魂ともいえるような剣を失ってしまったこと。


 その二つが重なりあい、幽鬼は、致命的な隙を晒した。

 その瞬間を、少年は逃さない。


 大上段に振り上げた剣に、闇が灯る。もやのようなそれは、刃先にまとわりついたまま離れない。

 闇を纏い、攻撃を強化する力。それは、魔法と呼ばれるものの一種であり、カナには有り余るほどの力だ。だが、カナはそれを知らない。


 知らなければ、魔法は使えない。

 だから、知っている女が紡ぐのだ。その歌を。


「【ダリン堕空フォーリラ】」


 女の言葉によって激しさを増した闇に答えるように、カナの体に異変が起こる。

 純白だった彼の頭髪が、真っ黒に染まった。


 描いた黒の斬撃は、頭髪が残した漆黒の軌跡はまるで

 黒い彗星。


「っ!」


 会心。

 致命の一撃を、幽鬼に叩き込む。それと同時に、剣に後戻りは出来ない程の亀裂が入る。


 手に残ったのは、強度の限界を迎えて砕け散った剣の儚さと、命を奪ったという実感だった。


 カナの視界が、ぐんっと下に引っ張られる。

 立っていることさえできない。瞼が重たくて、仕方がない。ぼやけて、薄くなっていく意識の中で、死にゆく幽鬼の姿だけを、カナは見つめていた。



 ◆



 暗転したカナの意識の中で、女がひとりごつ。


「流石に、限界だね」


 正直、もっと苦戦するものだと思っていたし、いざとなれば彼の体に後遺症が残ってでも力を行使せざる追えないと考えていた。それも、杞憂に終わったが。


「でも、大丈夫。助けは、もう来てるから」


 カナには聞こえない、意識の向こう側で。

 風が唸るような足音が聞こえてくる。

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