鈴の音を聞いた
月未 露埜
1日目:出会い
鈴の音を聞いた。小さくて優しい、忘れられない音だった。
暗い部屋。カーテンを閉め切っているせいで日の光が少しも入らないのにもかかわらず、最低限のパソコンの光しかないのだから当然だ。
しかし、今は珍しく部屋全体が明るい蛍光灯の光で包まれていた。
そんな部屋の中でパソコンを抱え、基盤や同線を確認する一人の男、手入れ不足のせいでうっとうしい長さの黒い髪に光が灯らない黒い瞳。くたびれたジャージを身につけている、陰鬱な雰囲気を醸し出した男、
「うわ……これはアウトだな」
熱を持ち、完全にショートしたパソコンを抱え、呟く。
いつもなら、まぁいいかと放置する晴だが、今回ばかりはそうはいかなかった。
ひきこもりの晴にとってパソコンはこの世のなによりも大事である。
正確には、インターネットが必要不可欠なのだ。
家を出ずに買い物ができ、娯楽も充実している。
簡単な仕事ならネットがあればできてしまうのでお金だって稼ごうと思えば稼げる。
晴もその一人だ。半分趣味程度にやっているので実質ニートなことには変わりないが。
パソコンの方は幸いなことに数箇所の部品を変えれば修理可能なのだが、あいにく晴は先日スマホを壊したばかりだった。
そのスマホも修理自体はできるのだが、パソコンがあるからまだいいか、と部品の注文もせず後回しにしてしまっていた。
つまり今、晴にはインターネットが使えない状態なのである。
部品を通販で注文したくてもできないのだ。
「……しょうがない……外に出る……か」
重い。腰が重すぎる。もういつから外に出ていないのだろうか。
最初の方はちょくちょく出てはいたのだが、成人したあたりからは本格的にひきこもり生活にまっしぐらだった。最低でも三年以上は出ていない自信がある。
おそらく記録更新中である。特に誇らしくもないが、少し悔しい気持ちはあった。
約三年ぶりの外に出るための支度は、どこか新鮮な気分だった。
できるだけニートの空気感がマシになるよう、できる限りの努力はしたつもりだ。
着られる服がジャージしかなかったので比較的に綺麗なジャージとインナーを身につけた。
髪も簡単に整えた。目にかかるうっとうしい前髪を触りながら、「そろそろ切るか」と呟く。
これで多少ニートオーラは隠せただろうか。
支度が終わった後の部屋の扉を開けるだけの行動でも、いつも以上の葛藤があった。
扉を開けて、階段を下ってすぐにある玄関の扉を開くなんてこと、普通の人からするとなんの躊躇もないことだが、晴からすれば異世界に行くくらいの気持ちなのだ。
いつも部屋のカーテンを閉め切っているから、外の様子なんてわからない。
そんな知らない世界に踏み込むのは想像以上の勇気がいることだ。
そうやって部屋から出ない言い訳を並べていても、扉を開かなければ部品は買えないし、今後の生活が不便だ。不便どころではない、生活できないのだ。
そう自分に言い聞かせ、満を持して扉を開く。
母親がいるはずなのでバレないよう静かに家を出ようとしたのだが、案の定見つかった。
「晴!?」と背後から勢いよくリビングの扉を開ける音と自分を呼ぶ女性の声が響いた。
「……なに、母さん」
晴は母親の顔を見ずに玄関の扉に向かいながら返事をする。
「なにって、いつもこんな時間に部屋から出てこないから……外、行くの?」
母親の顔も、様子も、晴にはわからない。
しかしその声色は、我が子を心配する母親そのものだ。晴にもそれはわかっていた。
「……どうだっていいだろ」
母親の様子を確認することもせず、玄関の扉を開ける。
先程、部屋の扉を開けることにはあんなに躊躇したというのに、玄関の扉を軽々と開く晴は、逃げたい気持ちでいっぱいだったのだ。
「晴!!」と呼ぶ母親の声は、扉が閉まると同時に聞こえなくなった。
家から離れるまで、無心で歩き続ける。早歩きで、逃げるようにして歩みを進める。
人通りの多い道に出る。人の視線が痛い。
別に自分の事を話しているわけではないのに自分を嘲笑うかのような声達に耳を塞ぎたくなる。
『あぁ……外に出ると、ろくなことがない』
そう心の中で呟いて、ポケットにつっこんできた小型の音楽プレイヤーを取り出し、イヤホンを装着する。音楽を流すと、人の声が聞こえなくなり、少し気が楽になった。
しかしまだ多少の視線は気になる。帽子でも買おうか……いや、必要なほど外に出ないな。
そんなことを思いながら、パソコン部品が売っている店に向かう。
家の近くに昔からある唯一のショッピングモール内の店なので、地図がなくても行けるところだ。スマホが使えない今の晴からしてみれば、わかりやすい場所にあるのはありがたかった。それに家から出て人通りの多い道を少し歩いたところにバス停もある。このバスはショッピングモールにも駅にも行けるので、スマホがなくても迷うことはない。
歩いて行けないこともないが、時間をかける気もないのでありがたく使わせてもらおう。
人が少ないバス停でバスを待つ。暗くなり始めた空に、少し肌寒い気温。
4月20日の18時33分。まだパソコンが通常運転で稼働していた時に見た日付と時間だ。
点検や準備、躊躇していた時間を含めると、大体今は19時とかその辺だろう。
ショッピングモールが閉店する前に用は済むはずだ。
バスが来る音がした時、ふと小さな花びらが視界に映る。
しかし晴は特に気にせずバスに乗り、店へと向かった。
***
もう空も暗く、人工の明かりが道を照らす。
晴はボロボロの状態で、疲れ果てながら帰路についていた。
まさに晴は異世界に迷い込んだ気分だった。
ショッピングモールまでは迷わず着いたが、想像以上に人が多くて正直引き返したくなった。なにやら有名人が来ていたとかで人で溢れていた。そのせいで店に着くだけでも時間がかかった。休日とはいえ閉店間際のはずなのに、大胆なことをするようになったものだ。
それに帰りのバス停も長い列になっていて、乗ったら確実にぎゅうぎゅうに押しつぶされるだろう。そんなことを想像したら震えてきたので諦めて少し長い距離を歩いて帰ることにした。
自分が外に出た時に限ってこうなるのだから、神とやらは自分の事が嫌いなのだろう。
本気でそう思った。
とはいえ無事目当ての部品も買えたし、また当分は外に出なくても平気だろう。
そう言い聞かせた。今日のことは武勇伝にでもしよう。後世に語り継げる自信はないが。
ショッピングモールで思ったよりも時間をかけてしまったし、歩いて帰ることにしたからだいぶ時間が経っているだろう。
おそらく22時から23時前とか、その辺だろうか。
ショッピングモールに着いたあたりから体内時計が狂ってしまったので自信はない。
人通りの少ない道に入る。もう人の目を気にしなくても良さそうだ。
そう思った瞬間だった。
――――チリン
鈴の音が聞こえた。小さい音だが、確かに鈴の音だ。
音楽を聞いているにも関わらず聞こえる鈴の音はなんだか不気味でもあったが、本能的にその音がいやに気になった。
晴は帰路から少し道を逸れて、音の根源を探す。
近所にある山――
「あ、すいませ……」
そう言って振り返ると、そこには小さな少女がいた。少女が振り返った晴をじっと見る。
晴の腰辺りに顔があり、身長は小学生くらい。
雪のように白く綺麗な肌。一切の濁りがない蒼い瞳。白い髪は腰くらいまで伸ばし、左右とも緩く結われている。その髪飾りには小さく綺麗な鈴が二つ、ついていた。
顔立ちは幼く、美人というよりも、繊細に作られた高価な人形のような容姿だった。
目を離せない。一瞬で魅入ってしまった。
「え、えっと……」
少女の声でハッと我に返る。長い間じっと少女を見つめてしまっていたらしい。
「あ、あぁ……悪い。怪我は……なさそうだな」
怪我がないことを確認して、晴は少女から一歩離れた。
今の社会、迷子の小さい子に善意で声をかけただけでも誘拐を疑われる世の中だ。
親子や兄妹だと誤魔化しが効くような年齢差や見た目ではないだろうし、というか誤魔化した時点でアウトだ。警察沙汰だけは勘弁してほしい。
その一心でなるべく少女から離れる。二メートル……いや、五メートルくらいは離れて話を聞きたい。
そんなことを考えながら晴は徐々に少女から離れていたが、そんな思いは叶わず、前から弱い力で引っ張られて遮られた。力の元を見ると少女が晴の服をギュッと掴んでいた。
「ねぇ! わたしの家族をさがしてほしいの!」
そう言った少女は眩しい程に瞳を輝かせていた。
「家族を捜してほしいって……やっぱお前、迷子なのか?」
「まいご……なのかなぁ……? きづいたら知らないところにいて、お母さんもお父さんもいなくて……」
『それを迷子って言うんだよな』
面倒なことになった。そんな考えが頭の中を埋め尽くした。
もう見慣れた少女の表情は眩しくて、すっかり空は暗く、街灯も少ない場所なのにハッキリと表情が見えた。
純粋で無垢な瞳。たいそうぬくぬくと育てられているのだろう。
赤の他人をなんの疑いもなく信じてしまうくらいには。
「はぁ……まぁ、ここに置いて行って後日誘拐ニュース見るよりマシか……」
「ゆうかい……?」
「あー、知らない人に連れてかれることだ。その辺少し捜して見つからなかったら交番連れてくからな」
「え! お母さんとお父さんのところ、つれてってくれるの?!」
純粋な目に気押されながら、嬉しそうに瞳を輝かせる少女を見る。
誘拐の意味を教えたばかりだというのに、何も理解していないのだろう。
俺も立派な知らない人だぞ。
『……やっぱ外に出ても、ろくなことがないな』
今日の出来事を思い返して、ため息が止まらなかった。
***
鈴の音が鳴り響いていた。傍らで、嬉しそうに、絶え間なく。
あれから三十分くらいは歩き回っただろう。
とりあえず少女から色々な話を聞いた。と言っても家族といたのに気が付いたら知らない山で一人だったという、有力な情報が一つもない話だけだが。
せめてどこに行こうとしたのかとか、どこに住んでいるのかとかがわかれば良かったのだが、期待外れだった。
子供に期待などすべきではないと改めて理解した。
「ねぇねぇ、これ……やらなきゃダメ? わんちゃんみたい……」
横を歩く少女が、手に持っているイヤホンの紐を見ながら晴に聞く。
「駄目。こうでもしなきゃ誘拐だと疑われるのはこっちなんだ。ただでさえ幼女と成人男性が一緒にいるだけでも世間の目は痛いのに……見た目が悪いのは謝るけど我慢しろ」
少女と晴を結ぶ、イヤホンの紐。
迷子になったくらいだから何かしらで繋いでおかないとまたいなくなるかもしれない。でも手を繋ぐのは世間的にアウトだよな……という葛藤の末に晴が出した解決案だった。
こんな犬の散歩みたいな見た目のせいか周りからは不審な目で見られている気もするが、警察を呼ばれていないからセーフだろう。
最近物議を醸している子供用ハーネスみたいなものだ。
「みてみて! きれいなお花! えっとぉ……がーべら? かわいくてきれいなお花だね!」
「はいはい、わかったわかった」
花屋の目の前で止まったと思えば楽しそうにピンク色のガーベラを見て瞳をキラキラさせて話す少女に軽く返事をする。呑気なものだ。本当に迷子なんだよな?と疑問に思えてくる。
それに花屋の店員からの不審人物を見るような視線が痛いので早くこの場を去りたい。
「それより、お前の親は見つかったのか?」
「……ううん……いない」
楽しそうな表情と一変して少女は悲しそうに俯いた。
こんなに捜しても見つからないということは、もうこの辺りにはいないのだろうか。
「キリがないな……そろそろ交番行くか。その方がすぐ見つかるだろ」
晴がそう言うと、少女は悲しそうな表情のまま静かに頷いた。
「くっそ……こんな時に不在って……警察仕事しろよ……」
晴は苛立ちを隠せずブツブツと呟きながら歩く。
交番には行ったのだが、電気がついていなかった。
ダメもとで扉を叩いてみても返事も物音もしない。近くに警察も見当たらないし、その場に留まるわけにもいかず、とりあえず歩き出す事にした。
「だ、だいじょうぶ……?」
「あー、いや、大丈夫じゃないけど……どうするか……」
変に遠くまで行ったら帰ってこられないだろう。かといって少女を置いていくことはできない。短い時間だが一緒にいてよくわかった。こいつは誘拐される、確実に。
このまま放置すれば後日の誘拐ニュースは免れないだろう。
「……しょうがない。今日は中断して家族が見つかるまで……俺の家来るか?」
「いいの?! ほんとうに?!」
「ほっとくわけにもいかないしな。もし誘拐疑われたら、ちゃんと弁明しろよ」
バレたら完全に誘拐だが、こればっかりはどうにかして隠し通すしかないだろう。
なぜか少女はすごく嬉しそうだ。知らない人……ではもうないが、そんな嬉しがる状況ではないはずだ。いや、案外一人で心細かったのかもしれない。子供だからな。
「ほら、行くぞ」
少女を繋いでいたイヤホンの紐を軽く引く。
「うん!」と元気よく駆け足でついて来た。
そんな少女を見て、晴は歩くスピードを少し下げる。二人はゆっくりと晴の家へと向かった。
少し歩いて晴の家に着く。
最初の想定を遥かに超えるくらいは歩いているし、少女の足に合わせたから時間も想定の倍以上かかった。
ゆっくり歩いたとはいえ、ほとんど運動をしていなかった晴には充分過ぎる運動量だ。
今にも地面でいいから倒れこみたい。あわよくばお布団にダイブしたい。そう思わずにはいられなかった。
そんな晴の傍らに立つ少女は、じっと一点を見つめていた。
「えっと……きゅうじゅうきゅう……? おもしろいお名前だね!」
そう言って表札を指差す。表札には〈九十九〉と書いている。
「きゅうじゅうきゅうじゃなくて『つくも』な」
「つ、つ…くも……? つ、くも……」
言いづらそうに何回も復唱する。
おそらく聞いたこともない文字列や発音に苦労しているのだろう。
そこで晴はまだ名前を教えていなかったことを思い出した。元々こんな事になる予定もなかったから教えなくてもいいだろうと思っていたのだが、こうなってしまったなら話は別だ。
「あー『はる』でいい。名前、
「はる……ハル! うん! ハル!」
楽しそうに何回も復唱する。少し舌足らずな感じがするが、年齢的にも仕方ないのだろう。
「あ! わたしはね、くきさき りん!」
『くきさき』。ダメ元で知り合いの名前であれ……と少し期待したが案の定聞き覚えはない。
漢字は分からないが、少女に聞いても分からないだろう、と早々に諦めた。
「じゃあ、リンな」
「うん! ハル!」
名前だけでこんなにも楽しそうにできるのは子供だからなのだろうか。
いや、多分リンだからだろうな。
まぁ名前を呼び合っていれば多少は誘拐に見えにくいかもしれない。
「ほら。早く家に入るぞ。見つからないように静かに入れよ」
「うん…! わかった…!」
リンが声のボリュームを下げて話す。
まるでスパイにでもなったつもりなのだろうか。なんだかとても楽しそうだった。
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