アサトのHate

千田右永

第1話 アサトのHate

               

 やあ、お母さん。

 ボクだよ、アサトだよ。あんまり久しぶりだから見違えちゃったかな?ほら、よく見てよ。間違いなく、ボクはお母さんの息子のアサトでしょ。だからそんなにびっくりしないでよ。


 ボクはずっと元気だったよ。

 お母さんも元気そうだね。この前会ったときより、ずいぶん具合が良さそうだよ。そうか、きょうは土曜日で、こんなにいいお天気だから、お母さんの気分も晴れやかになったんだね。


 きょうの空は明るく清々しく、どこまでも晴れ渡っていたよ。

 だけど十二月も半分過ぎたから、チャリで走って来たらちょっと寒かった。だからきょうのボクはこの前来たときみたいに、ダラダラと汗をかいたりしてないでしょ。


 月に一度は会いに来るつもりだったんだよ。約束したのに守れなくて、わるかったと思ってる。ごめんね、お母さん。だってほら、七月に来たときのボクは、ヨレヨレのTシャツと短パンが汗だくで、ずいぶん見苦しかったでしょ。いまさらだけどあのときの分も、ごめんねって言いたかったんだ。


 あの日のお母さんは具合が悪そうで、息をするのも辛そうだった。その上にボクの身なりを見たらもっと辛そうに、キュッと鼻の頭に縦皺を寄せたんだった。まるで、怒ったネコみたいに。


 身体のどこかが痛いのに我慢しているとき、お母さんの鼻の頭にはくっきりと縦の皺が二本寄るってこと、知ってた?知らなかったの?気づいていたのはボクだけ、だったのかな。


 やあ、こんにちわ。母がお世話になってます。


 いまの人、新しい看護師さん?

 ああ。看護学校の生徒さんが実習に来てるんだ。ずいぶん若いみたいだけど、何歳くらいかな、へえ、たったの十六歳?


 そういえば。

 ベニカが元気でいたらあの子と同じ、十六歳になったんだね。二つ違いのボクが十八歳だから、ベニカは十六歳だ。

 いいじゃないか、もう、ベニカのことを話したって。全然かまわないとボクは思うよ。お母さんだって本当は、ベニカの思い出話をしたいんじゃないの?ずっと前からそんな気がしていたよ。


 ボクは平気だよ。

 だって、ボクと話しているお母さんが、一度もベニカの名前を口にしないなんて、そのほうがよっぽど不自然でヘンな感じがして、落ち着かない気分になっちゃうよ。


 ベニカはその名前の通りに、パッと目につく紅い花だったね。ボクたち家族の中で一輪だけ、咲き誇る紅い花だ。お母さんも花のように綺麗だったとボクは思うよ。でも、どちらかと言えばお母さんは白い花だった。紅い花にそっと寄り添って引き立てる、白い花。寮の庭で白いカスミソウが咲くたびに、ボクはお母さんを思い出しているんだよ。


 ベニカがオーディションを受けに行った日のこと、覚えてる?ベニカとボクと、お母さんが運転するワンボックスに乗って一時間、フォーシーズンズシアターを目指してドライブしたこと。たった一時間、だけどやけに長く感じたドライブだった。


 どのオーディションのことか、わからないの、お母さん?ベニカはフォーシーズンズのオーディションを三回も受けたから?でも、ボクがワンボックスに乗って一緒に行ったのは、あのとき一回だけだ。ほら、お父さんがさっさとゴルフに行ってしまって、ボクを預かってくれる人がいないから、しょうがなくて一緒に連れて行った日だよ。


 ボクはつまらなくて退屈だったけど、ベニカもプンプンして不機嫌だった。お母さんと二人きりで出かけるつもりだったから。オーディションが終わった後のショッピングのほうが楽しみだったから。お母さんの注意と関心を半分奪ってしまうボクは、いない方がよかったんだろうな。


 拗ねてるんじゃないよ。

 いない方がよかったと、ボクもつくづく思ったんだ、後になってから。そうだったらボクは、あんなことをしないで済んだ。ベニカの運命は変えようがないけど、父さんと母さんの悲しみを何十倍にも大きくすることは、しないで済んだと思うんだよ。


 オーディションを受けるベニカは、お気に入りの紅いドレスを着ていた。ベニカの可愛らしさを最大限に引き立てる、ひらひらした薄いドレスだ。よく似合っていたけどあの日は十一月の末、おまけにつめたい雨も降っていた。ワンボックスのヒーターはせっせと温風を吹き出していたのに、車内は冷え冷えしてうすら寒かった。


 ジャージを着たボクが寒かったんだから、薄着のベニカはもっと寒かったはずだ。それなのにあいつは、頑としてダウンコートを着なかった。皺にならないように紅いドレスのスカートをふわりと広げ、オーディション用の写真を撮ったときみたいに、背筋を伸ばして気取ったポーズを決めていた。


 駐車場に入ろうとするクルマが列を成していた。待ちきれずにベニカはさっさと降りた。トイレに行きたかったから、シアターまで二ブロックの道のりを、走るつもりだったんだ。雨が止まないのでさすがにダウンコートを羽織り、フードも被った。


 少し迷ったけど、ボクもベニカを追って走った。追いついたとき、ベニカは点滅している青信号の横断歩道へ飛び出す寸前だった。左折する大型トラックが迫っていた。ベニカもトラックも、止まる気配はまるでなかった。


 ボクは咄嗟にベニカの腕をつかみ、思い切り引き寄せた。ベニカはバランスを崩し、水溜まりの中に尻もちをついた。それでもそこは、ギリギリ歩道の上だった。トラックは何ごともなかったかのように、ベニカとボクの鼻先をかすめて走り去った。


 思い出したかい、母さん?

 水溜まりで尻もちついたベニカが、ボクのせいで転んでしまったと、わんわん泣いたあのときのことだよ。すごく危なかったのも、それが自分の不注意からだったのも、よくわかっていたくせに、あいつは全部ボクのせいにした。わんわん泣いていれば母さんに叱られないですむと、知っていたんだ。


 あの一瞬、ボクの手がベニカの腕をつかんでいなかったら。


 何度も思い返しては、その度にすごく不思議な気分になったよ。だってボクは、控えめに言ってもあいつが大キライだったのに、あのときは反射的に手が伸びた。考えるより先にベニカの腕をつかんで引いた。いなくなればいいと思っていたあいつを、助けてしまった。後で気づいて、びっくり仰天だった。

 

 いまさらだけど、母さんには知っておいてほしかった。ボクはベニカを助けたこともあったんだって。人間らしさとか良心とか、カケラも持っていないモンスターみたいに、世界中の人々がボクを罵ったとしても。母さんだけにはそうじゃないってこと、知っておいてほしかったんだ。


 だって、もしボクが助けなかったら。

あいつは大好きなフォーシーズンズシアターまであと二ブロックの交差点で、横断歩道の上に自分の血や脳みそや何やかやをぶちまけ、おぞましいヒトガタを描いたはずだったんだ、母さんの可愛いベニカは。


 そんなの、見たくなかっただろ?

 ベニカのそんなひどい有り様を、母さんに見せないで済んだ。それだけでもボクのことを、褒めてくれてもいいんじゃないかな、ねえ母さん?


 返事をしてくれないんだね。じゃあ、ハナシを変えよう。


 ここへ来る前にボクは、どこへ行っていたと思う?母さんの具合がわるいようだったら、びっくりさせてはいけないから、黙っているつもりだったけど。


 でも、大丈夫そうだから言っちゃうね、父さんのところだよ。会社のワンルームじゃなくて、昔みんなで一緒に住んだあの家のことだ。そうだよ、海辺の街にあるボクたちの家に帰って、昨夜は自分のベッドで寝たんだ。


 なんだ。

 母さんは知っていたの?

 父さんに新しい子どもがいるってことを。マナトっていう名前でね、九歳だってさ。それ聞いたときは、ぶん殴られてアタマが破裂したみたいにガーンとなった。だって九歳だよ、それじゃ、ベニカがいなくなってたった一年後に、生まれたんじゃないか。そんなの早すぎるだろ、まったく信じられないよ。


 母さんは、それも知っていたの?

 へえ。意外と冷静なんだね、母さんは。カッカしてるのはボクだけなのか。ふうん。もう、どうでもいいと思ったの?ベニカがいなくなったら元気が出なくて、何もかもがどうでもよくなっちゃったの?


 でも、父さんは違った。

 ベニカがいなくなったら、すぐに会社の事務員だったハルカさんと、新しい子どもをつくった。父さんは言ってたよ、マナトが中学生になる前に母さんと離婚して、ハルカさんと再婚したいんだと。中学生になる前って、父さんはさも大事なことみたいに言ったけど、一体どういう基準でそうなるんだ?勝手につくった婚外子なんだから、勝手にそのままでオトナになればいいだろうが。


 そんなの、ものすごく不公平で自己チューな言い分だよね。


 へえ。

 父さんは元々そういう人だから、しょうがないと母さんは思ったの?ふうん。悲しい出来事を乗り越えようとするとき、悲しくないふりをして突っ走るのが、父さんという人のやり方だから?


 そっか。

 だけど母さんはもう、一緒について行くチカラも争うチカラも湧かなかった。じきに死ぬつもりでいたのに、意外となかなか死なないから、父さんは困ってるんじゃないかと思うの?


 ねえ母さん。微笑んだりして、なんか可笑しいことあった?


 ああ。

 そうなんだよ、実はね。

 ほんとのところは、ちょっとばかり違うんだ。けど、嘘ついたわけじゃない。ただ、母さんに聞かせていいこととそうじゃないこと、分別しようと思ったんだ、重い病気の人だから。

 けど、やっぱり母さんにはバレバレだったね。ハナシを分けるなんて、そんなことしても全然イミなかったんだね。


 じゃあ。

 なるべくわかりやすく、はじめから順を追って話すよ、全部。

 最初は父さんのほうからボクのところに来たんだ。学校の三者面談てやつ、ボクの進路について担任と話し合うお決まりの行事だ。それが、三週間前の金曜日だった。


 たしかに、ボクの成績はCランクだよ。それがなにより一番のダメ要素だってことは、よくわかってる。国立大学を目指せるくらいの成績なら、父さんの態度もだいぶ違っただろうから。


 私立大学の学費は出せないと、父さんはきっぱり言った。たとえAランクでも一流でも一切ナシだと。ボクとしてもそこに異論はなかった、大学へ行って勉強するなんて、考えただけでもウンザリだからさ。正直言って勉強なんかもう金輪際、やりたくないんだ。


 父さんはボクに提案したよ、珍しくニタニタ笑いながら。

 看護師とか介護士とか作業療法士とか、病院の医療スタッフを育成する大学ならOKだって。人材不足のせいで学費が免除になるからだと、そこのところは真顔で言った。


 けど、学費免除だからって、ボクが医療スタッフなんてやれると思う?ハッキリ言っていいんだよ、思わないでしょ?母さんも。


 ボクだけじゃない、同世代のやつらはだいたいみんなそうだ。だれかに世話してもらうのが当たり前の環境で育ったから、自分が他人の世話をするなんて、そもそも出来やしないのさ。そういう神経回路がオンになっていないんで、仕事だからと割り切るのもムリだ。元々仕事するってこと自体を、やりたくないんだし。


 あれは、提案っていうより宣告だったな。

医療スタッフに興味がないなら、いっそ就職したらどうかと父さんは言い出した、あくまでも冗談めかした調子で。自動車部品の工場なんかどうだ?専ら機械の相手をしてればいいんだから、アサトにピッタリだろ。父さんは大口開けてガハハッと笑った。それよりはいくぶん控えめに、担任も笑った。


 学校の裏手の駐車場で、クルマに乗ろうとする父さんの姿が見えた。見送ったんじゃなく、たまたま廊下の窓から見えたんだ。

 父さんは昔からずっとクラウンに乗っていたよね?そのクルマもやっぱりクラウンだった。でも、ボクが知っている古い型のクルマじゃなかった。それはピカピカの最新型クラウンで、シルバーのボディが眩しいくらいに光り輝いていた。


 駐車場から滑るように出て行く父さんのクラウンを、ボクは茫然と眺めた。それでもナンバープレートの文字と数字はきっちり覚えた。忘れないように、口の中で復唱した。携帯にメモって、ようやくホッと息をついた。


 そうしたら、いろんな考えがドクドクと頭の中に湧いて来たんだ。


 ピカピカの最新型クラウンに乗っている父さんが、ボクには自動車部品工場で働けと言った。生まれてこの方〈社長の息子〉だった身分から、蹴り落とされたような気がした。その言葉が、耳にこびりついて離れなくなった。左右の耳の間で反響してガンガン鳴った。増幅して熱を帯びた。


 週末の二日間、ボクはひたすら歩いた。耳から後頭部にかけてこもった熱が一向に冷めず、じっとしていられなかった。寮から最寄り駅までの道のりを、何度も往復した。それだけで足りず、駅周辺の入り組んだ路地を闇雲に歩きまわった。


 そうしたら奇跡のように、あの電動チャリと出会ったんだ。


 やつはビルとビルとの狭い隙間に押し込まれて身じろぎも出来ず、気づいたボクにひっそりと助けを求めた。本当にそんな気がした。引き出してみると、なんの変哲もない黒一色の車体だ。ロックはないがこれといった故障もなさそうで、奇跡的にバッテリーがついていた。残量はゼロだったけど、ふつうに乗って漕いでみたら車輪は問題なく転がった。


 ほら、いまそこのコンセントで充電してるだろ、それがやつのバッテリーだよ。きょうもずいぶん走ったのに、ボクが汗だくにならないですんだのは、電動チャリのおかげだったのさ。


 次の一週間は授業が終わった後、やつに乗って駅の周辺を走りまわった。そのチャリは自分のものだと、申し出る者はいなかった。たとえいたとしても、ボクはもうやつを手放したくなかったが。

 自転車屋で必要なメンテナンスをしてもらった。フルフェイスのヘルメットも買った。父さんがくれた小遣いを使い果たしたけど、それだけの価値はあった。電動チャリは原付バイク並みに速く走った。


 こんなふうにして、思いがけなく準備は調ったんだ。


 雨が降ったら、やめておくつもりだった。

 だけど次の土曜日も、きょうみたいに晴天だった。賽は投げられたって気がした。ボクはフルフェイスのヘルメットを被り、バッテリーを満タンにした電動チャリに乗って、朝早く寮を出発した。休み休みのんびり走って、海辺の街までの所要時間を測ってみようと、その程度の気持ちだった、始めたときには。


 午前中に海辺の街の中心部に着いた。案外疲れもせずスムーズに行けたので、拍子抜けがした。駅前商店街のバーガーショップで腹ごしらえをしながら、向かい側のビルの駐車スペースに止まっている、父さんのクラウンを眺めた。そこは父さんの会社が入っているビルだから、クラウンはあって当然だった。


 この時点のボクは、まだなにも知らなかったんだ。


 父さんは単身生活になって以来、会社と同じビルのワンルームに住んでいると言ったはずだった。そうするつもりだと、言っただけかもしれない。あるいは、ボクが勝手にそう思い込んだのか。


 真相がどれだったかは、最早どうでもよくなった。


 バーガーを食べ終えた頃、父さんが出て来た。ボクの知らない男の子と手をつないでいた。子どもはもう一方の手に、細長い包みを抱えている。後ろの女の人には見覚えがあった。会社の事務員のハルカさんだ。ハルカさんは父さんよりだいぶ若いはずだが、遠目にも三人は親子のように見えた。


 ボクは後頭部に火がつき、ボッと燃え上がったみたいに熱くなった。耳と耳の間がグイグイ締めつけられ、割れそうに痛んだ。それでも何より先にフルフェイスのヘルメットを被り、バーガーショップを出て電動チャリに跨った。その間ボクの目は、父さんのクラウンから一瞬も離れなかった。


 クラウンがバッティングセンターへ入ったのを見届けたら、チャリではなくボク自身の電池が切れた。つまり、どうしていいかわからず、何も考えられない空白状態に落ち込んだ。

 ボクは悄然と電柱に凭れ、目にしたばかりの光景や事物を痺れる頭の中でなぞった。何を探すというのでもなく、ただひたすら繰り返し反芻していた。


 すると、さっきの子どもが抱えていた細長い包みに意識が留まった。キラキラ光る赤と緑のリボン模様がついたゴールドの包み紙。クリスマスカラーの赤と緑とゴールド。


 ボクとベニカがリクエストしたクリスマスプレゼントを、父さんはイヴの夜まで会社に隠しておいたものだった。ボクたちはそのことに気づいても、おとなしく待った。プレゼントをもらうに相応しい、そのときが来るまで。


 あの子どもは待てなかったのだ。細長い包みの中身は野球のバットに違いない。そしてバッティングセンターへ。その後は休日の遅いランチだ。しばらくは三人とも、帰宅しないだろう。


 帰宅って、どこへ?

 熱を帯びていたボクの後頭部が、フルフェイスのヘルメットの中で急速に冷えた。現実的に、ごくシンプルに。ふっと、空白だったボクの頭の中にささやかな閃きが灯った。


 ビクビクすることないって。

 どこからか、ささやきかける声が聴こえた。

 ダメもとで行ってみたらいいじゃん。


 行ってみたら。

 ボクらと母さんが住んだあの家に、父さんは新しい家族と住んでいた。そのことは、ひと目でわかった。花の季節が終わった花壇はきれいに手入れがなされ、サーモンピンクの軽自動車と青い子ども用チャリが、家族の存在を告げていた。


 寮に入ったとき持ち出したキーホルダーに、裏口の合い鍵もあった。ボクはそれを使って難なく家に入れた。表の玄関ドアは新調されていたけど、裏口は昔のままだったんだ。


 母さんが花壇の手入れをするときや、ボクらが水遊びをするときに使った裏口だよ、覚えてるだろ?夏以外はだれも使わないドアの中に電動チャリを仕舞い込み、バッテリーは廊下のコンセントに挿し込んだ。


 意外にも、ボクの部屋は昔のままだった。そりゃそうだ、生きているボクは自分の持ち物を取りに来るかも知れない。あいつらも考えたんだろう。死んでしまったベニカの部屋には段ボール箱が積んであり、チラッと中を見たら、ベニカの服と母さんの服がごちゃ混ぜに詰め込んであった。


 懐かしい自分のベッドにもぐり込んで眠りたかった。けど、それをやってしまったら起きられなくなって、丸一日でも眠ってしまいそうだ。それは今じゃない、後でも出来ることだ。ボクはグッと堪えてベッドの誘惑を押しのけ、保留した。


 屋根裏から地下室まで続く裏階段の入り口は、固く閉じてボクを撥ねつけた。さもありなん。何しろここは、この家で一番不吉な場所だ。父さんと母さんの可愛いベニカが、二階から地下までの長い階段を転がり落ち、たった六歳の人生を終えてしまった事故現場だから。


 だけど。

 あれが事故ではなくてボクのしたことだと、父さんと母さんは初めから知っていたよね?それなのに見事な阿吽の呼吸で、ふたりとも気づかないふりをした。ボクを守るために。それが文字通りにホントだったら、ボクにとってこの世界は、もう少しマシな場所になったはずだったのに。


 だからこそ。

 ここにはだれも近づいて来ないとボクは確信できた。取っ手にぶら下がった古い南京錠の鍵穴と、キーホルダーについているそれらしき鍵を合わせてみた。三個目で南京錠が開いた。


 それでも。

 正直言ってドアを開けるには、けっこうな勇気が要ったよ。ひょっとしたら、そこにはベニカが待ち構えていて、ボクに文句をつけてくるかも知れない。あいつらしい爆発的な勢いと執拗さで。あるいは、死者らしい不穏な不気味さで。あたしが死んだのはアサトのせいだと、金切り声で喚きながら迫って来るかも知れない。


 そっか。

 そうしたらまた、突き落としてやればいいんだ、ねえ母さん?ボクはあれからだいぶデカくなったし、チビのままのあいつに負ける気はしない、たとえ悪霊化していても。

 なんて、考えたりして構えたんだけど。


 ベニカはいなかったし、その後もついに現れなかった。


 細長く急勾配の階段室はあの家を貫く大動脈のような案配で、居心地は意外と悪くなかった。最上段の踊り場でコの字形に寝そべると、一階のリビングからあいつらの気配と話し声が、壁を伝って立ちのぼり、ボクの耳に届いた。


 さっき母さんに話したことはだいたい全部、この階段室にいて聞いたハナシなんだ。父さんが電話でだれかと喋る声、ハルカさんと交わすやりとり、マナトにかける言葉。中学生になる前にきちんとしよう云々、調子こいた大法螺のアレだ。あいつらにとってはいつもの会話だろうが、ボクには初めて知ったことばかり、魂消ることばかりだった。


 ボクだけが、なんにも知らなかった。そのことを思い知った。


 寮へ戻るのは面倒だったよ。けど、ボクが行方不明になったら、学校もあいつらも一応は捜すだろう。少なくとも意識する。そうしたらボクの行動は制限され、だいぶ不自由になる。すぐに見つかってしまいそうだ。それはマズイ、そんなのはダメだ。

 だからしょうがなく、一旦戻ることにした。


 それでも土曜日の午後から日曜日の昼頃まで、ボクはずっと家の中にいたんだよ。なかなかスリリングで、面白い体験だった。あいつらの動きを読んで隙を伺い、階段室から出た。トイレを使ったついでに、冷蔵庫からザンギのパックとコーラをいただいた。無事に階段室へ戻れたら、興奮のあまり叫んでしまいそうだった。


 学校と寮で過ごす日々は長たらしくて退屈だった。ボクは焼けつくような激しさで、階段室へ帰りたいと欲した。そんな自分に驚きながら、金曜日に終業するなり即出発した。すっかり暗くなって寒かったけど、そんなの全然苦にもならなかった。


 家の窓も暗かった。常夜灯が点いているだけ、クラウンはない。クソオヤジと婚外子とその母親は留守だった。口に出してあいつらをそう呼んだら、少しだけ溜飲が下がった。けど、こんなもんじゃ足りない。だから、留守は好都合だ。


 ペン型ライトの灯りで廊下を進んだ。リビングに大きな影が見えてギョッとした。なんと、馬鹿デカいクリスマスツリーだ。ボクの身長を超える高さがあった。ツリーを見上げ、今日はクリスマスイヴ直近の金曜日だったと気づいた。


 ベニカにせがまれてクソオヤジが買って来たツリーだって、こんなにデカくなかった。ツリーの根元には、赤と緑とゴールドの包み紙にくるみ直した金属バットがあった。婚外子マナトがイヴにもらうべきだった、クリスマスプレゼントだ。たぶん、正しい手順で最初からやり直そうと、そこに置いたのだろう。


 あれれ?

 母さんの鼻の頭の縦皺、二本どころじゃなくいっぱい寄ってるよ。どうしたの?どっか痛むの?看護師さん呼ぼうか? 


 ああ、そうだ。

 その通りだよ。バットを使ってやったんだ、ちょうどよく手近にあったしね。それと、マナトがもらったクリスマスプレゼントだからさ。そこのところは、マジに外せないキーポイントだった。


 忘れたふりしないでよ、母さん。

 父さんと母さんはふたりとも、ベニカが欲しがったゲームソフトを買ってきた。ベニカには同じソフトがふたつ。でも、ボクが欲しかったソフトは、お互いに相手が買うはずと思い込んでいた。


 売り切れて買えなかった、予約したからもう少し待って。母さんの咄嗟のアドリブに免じて、ボクは納得したフリをしたんだ。


 ドヤ顔のベニカが、ボクをバカにして嘲笑ったりしなければ。ボクだって、あいつを突き落としたりなんかしなかったよ。


 なんでわかっちゃったの、母さん?

 ボクのダウンジャケットの袖口に、赤い点々がこびりついてるから?黒地に赤は目立たないけど、ベッドに寝てる母さんの目線で下から見ると、乾いた血の飛沫だってことがわかるの?


 ああ、これか。

 けっこう派手に飛び散ってたな。

 最初にだれをやったのかって?もちろんクソオヤジだ。階段室のドアをいきなり開けやがったから、こっちもいきなり一発目を喰らわした。二発目は母親に、婚外子は三発目で階段の下に落としたさ、親たちの目の前で。イケてるだろ。やつらが散々泣き喚いた後で、黙らせたんだ。


 ねえママ。

 気に入ってくれたかい?きっと喜んでくれると思ったんだけどな。半分は、ママのためにやったんだからさ。


 引き出しの奥に花柄のポーチ?あったよ、開けていいの?札が三万円と小銭、それとキャッシュカードだ。暗証番号はボクの誕生日だって?へえ、それマジで?


 逃げなさいって言ったの、ねえママ?

 どこまでも、逃げられるだけ逃げてみなさいって。どうしようかな。ボクはママと一緒にいたかったんだけど、ダメなの?


 だってさ、どこへ行ったらいいのか、わかんないよ。


 どこでも、行ってみたかったところへ、行けばいいの?もうじき冬休みだし、雪が積もるし、なにもかも凍りつく前に。行けるだけ、遠くに。

 そうだね。


 だけど。

 お金を全部ボクにくれたら、ママが困るんじゃないの?

 じゃあ、困らないで済むように。

 ママがもう辛い呼吸をしないで済むように。

 しようか?



















 

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アサトのHate 千田右永 @20170617

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