第16話 迫りくる罠、やがて絶望Ⅵ

 開かれた大口は、ほんの少し吐き出しただけでも凍り付きそうな程の冷気を帯びていた。


「ォォォッ……」


 やがて射出されたのは、鋭利な刃物に近い巨大な氷柱たち。


 杖を構えていたはずなのに、それは瞬きする間にこちらの腹部を刺し貫かんとする。


「アイス・シールド!」


「そんな薄っぺらいので……ふせげるとおもうなっ!」


 一発入っただけで氷の盾にひびが入る。次、また次と衝撃が走り、一瞬で粉々に砕けてしまった。


「くうっ!?」


 ならばとイリーナは箒で上に飛び、氷柱の間を抜ける。


 頭部を叩けば攻撃が緩むかもしれない。その可能性に賭け、巨体に有効打を与えんと魔力を込め始めた。


「アイス・エル……」


「やっ……やめておねえちゃん。私をいじめないで!」


 だがイリーナが魔法を放とうとした瞬間、全身を震わせながらストーリアの動きが止んだ。


 攻撃できない。頭では分かっていても、腕が動かなかった。


「ば、バレーナちゃん……?」


 罠だったのに、騙されたのに。クジラの潤む瞳が彼女と重なり、心が必死に動きを止めている。


「……なんちゃって。本当にバカだねえ、おねえちゃんは!」


「うああっ!?」


 嘲笑うように眼前で広げられる大口。隙だらけになったイリーナ目がけ、嵐のような冷気が吐き出された。


 箒ごと風に煽られ、強い勢いで壁に激突して倒れてしまう。


「くっ……卑怯者っ!」


 間髪入れずにミシェルが杖を持って前に進む。彼女が戦えないなら、自分がやるしかない。


「フレイム・ソード!」


「おおっ……こわーい」


 滞留する冷気をまとめて溶かすような、炎の剣での斬撃。


 だが皮膚に刃が通るその直前、膜のように張られた氷が攻撃を弾き返してしまう。


「ぐうっ……!」


 ミシェルは勢い余って地面を転がってしまう。一度では効かないなら、膜が壊れるまで何度でも。


「絶対に、許さないんだから!」


「……ちょ、ちょっと待ってよ、ミシェル!」


 だが、杖を突き出そうとした彼女の腕をイリーナが止めた。


 どうして、と目を丸くしたミシェルを、自身も混乱しながらも鋭い視線で制する。


「やり過ぎたら、バレーナちゃんも巻き込んじゃうかも!」


「そ、それは……」


 無駄だ、もう中にいる人間は助からない。その一言が口に出せず、彼女の動きが一瞬だけ止まった。


「今そんなことを考えてる場合じゃない。早く倒さないと!」


 ストーリアに魔法を放ち、攻撃を加えていく度に彼女の姿が頭に思い浮かんでしまう。


 こんな時だからこそ、目の前の光景に頭が真っ白になる。


「まったく……どうしてボーっとしてるのさ!」


 攻撃を躊躇っている間にストーリアが雄叫びを上げる。背から溢れ出てきたのは、目を覆いたくなる程の濃霧。


「何、これ……っ!?」


 前後左右の視覚が全て遮断され、平衡感覚が失われる。


 数瞬遅れて、自分たちの足元に透き通る程に透明な氷が巣食っていることに気付いた。


「こんなんじゃ、倒しがいがないよっ!」


「はっ……きゃぁっ!」


 霧が晴れると、目の前に尾びれが迫る。地面に張られた氷を砕き、イリーナたちもまとめて吹き飛ばした。


「ううっ、強い……!」


 地面に倒れ伏して敵を睨む。本気が出せないという以上に、今までのストーリアとは数段違う強さ。


 多くの人間を食ってきたことが分かる、その貫禄と威圧感。


「おねえちゃんみたいな小さくて薄っぺらいチカラじゃ、どうやっても私にはかてないよ?」


 揺れ動く巨体が太陽を覆い隠す。ふふっ、と無邪気な笑い声が耳に入った。


「そんなこと、無い……今までだって、私たちはどんなに壁が高くても、乗り越えてきたんだから」


「……ふぅん?」


 だが、そんな絶望的な状況でもイリーナは立ち上がる。


 アセビやクリスは今でも必死に戦っている。諦めるわけにはいかない、信じる仲間のためにも。


「どれだけ否定されても、私たちは貴方を救ってみせる!」


 まだ後戻りはできる。イリーナの握る杖には。負けない勇気と彼女への優しさが込められていた。




「残念だが、それは無理な話だな」


 しかし、それは突如として耳に入ってきた男性の声によって阻まれてしまった。


 驚いて振り返る。路地裏の影から、黒いローブが見えた。


「遠く離れた星々を掴むことができないように、君に定められた運命を覆すことはできないよ」


「……えっ、誰?」


 首を傾げた瞬間、イリーナは理解した。彼が手に持つのは、かつてグレオが持っていた物と同じ黒い書物。


「カルミラの村ではお世話になったね。まさか、君のような人間が魔法使いになるとは思っていなかったが」


 一歩、また一歩と下がり、敵は倒れた二人に一礼をする。


 飄々とした、掴み所の無い長身の男。優しい雰囲気にも見えるが、薄い笑顔からは感情が消えていた。


「まさか、村を襲った呪術師!?」


「その通りさ。平穏だった箱庭に響き渡る村娘の悲鳴、実に心地良いものだったよ」


 長細い両手が広げられる。言葉の一つ一つに滲み出る、こちらを手玉に取るような感覚が異様で恐ろしい。


「僕はリューズ……リューズ・ファスタだ、お見知りおきを」


 リューズと名乗るその男は、蠢くストーリアを手で制した。


「後は僕に任せて。君はそこで休んでおくと良い」


「はい。ありがとうございます……リューズさま」


 来る。得体の知れない本を開き、ストーリアを自在に操る呪術師が自らの手で。


 何度も思い描いた光景は、思いもよらない程に息が詰まる。


「さあ、戯れの時間はここでおしまいだ」


 ミシェルも静かに立ち上がり、戦場で一人震えていたイリーナの隣で身構える。


 前触れも合図も無く、リューズはそっと足を踏み出した。




 静かに唱えられた呪文は、背筋が凍る程の低く鋭い声。


「アーマメント・ウルフ」


 リューズの両手が、オオカミを模した大きな爪に変化した。


 見覚えのある技。視線を落として相手の動きを凝視していると、彼の姿は残像となって消え失せた。


「はあっ!」


「う……ひゃあっ!?」


 背後に回り込まれ、構えていた盾が粉々に砕かれた。どうして、片時も目を離していなかったのに。


「フレイム・ムルバ!」


 続いてミシェルが放った火球を、リューズは避ける素振りも見せずに腕で受けた。


「……こんなものかい、二代目ちゃん?」


 だが焦げも傷付きもしない。最初から何も無かったように。


「貴方、一体どこまで知ってるの!?」


 一発、もう一発と放たれる炎をもろともせず。彼は身を翻して双方を爪で切り裂いた。


「ううっ! この技、どこかで……」


「オオカミの能力さ。僕たち呪術師は、一度召喚したストーリアの能力を自由に書から引き出せる!」


 イリーナを横蹴りで下げ、上に跳んで宙を舞いながらミシェルの懐に飛び込む。


 まずい。慌てて炎の剣を構えたが、相手が一歩早かった。


「終わりだっ!」


「きゃぁぁぁっ!!」


 受け身さえ取れずに地面を転がる。急所は避けたが、動こうとする度に鋭い痛みが全身を覆った。


「み、ミシェル!?」


 一瞬の出来事に身を震わせ、傷を負った彼女に視線を移す。


 だが、イリーナは思わず目を丸くした。どこにもいない、鋭い爪を纏ったリューズの姿が。


「……君は違和感を持ったことは無いか? ストーリアがどこから現れ、倒された後はどこへと還るのか」


「なっ……!?」


 気付けばミシェルに代わって隣に立っていたリューズが、彼女の肩を強引に掴んで引き寄せる。


「大切な人の命を守る。君はそう誓ったはずだが……」


「やめなさい……うぐっ!」


 知られてしまう。ミシェルは必死に止めに入ろうとしたが、深手を負ってしまった今の彼女にその余力は無い。


 今まで、あの子を傷付けまいと必死に戦ってきたのに。


「ストーリアの正体は負の感情を抱えた人間だ。そして、一度変化すれば死ぬまで戻りはしない」


 だが、その努力を嘲笑うかのように彼は真実を言い放った。


 時間が止まる感覚。やがて言葉の一つ一つを咀嚼すると、イリーナの表情が一瞬にして歪み始める。


 そんな。まさか、あれ程頑張って戦い続けたはずなのに。


「えっ……?」


 正体が人間。あのクジラだけじゃない、今まで倒してきたストーリアたちも全て……


「この戦いは魔法使いと呪術師によるものじゃない。哀れな魔法使いと、復讐に燃える人間の殺し合いなのさ」


「そ、んな……じゃあ私は、今まで」


 人助けじゃない。みんなの過去も想いも知らず、私が向こう見ずにやり続けていたことは、人殺し。


「私は今まで、誰のために戦ってきたの?」


 紐の切れた操り人形のように崩れ落ちる。感情の抜け落ちたイリーナの髪を撫で、リューズはその頭に触れた。


 透き通っていたガラスの心に、黒く淀みとヒビが入る。




「……インヘリット・ホッグ」


「あっ……うぁぁぁっ!」


 頭から足先まで命が吸い上げられていく感覚。唸りとも違う、声にならない叫び声。


 本から飛び出た異形の腕が、イリーナの心臓を掴んだ。


「イリーナに、何をしたのっ……!?」


「豚のストーリア、その能力を応用したのさ。全ての魔力が吸い上げられ、やがて身動きも取れなくなるだろう」


 イリーナの周囲に暗雲が立ち込める。寒い、熱い。あらゆる不快感が全身を包み、身体がガタガタと震えあがる。


「わ、たし、いままで……」


 だがどの感覚よりも耐え難いのは、心から溢れ出る絶望。


 自分がやってきたことは人殺し。何も救えていない、守れていない。何も知らないのに出しゃばって。


「みんなを、傷付けてた。弱いのに、なんにもできないのに」


 クリスやミシェルは分かっていたのだ。戦いの先に死があることを知って、それでも命がけで戦い続けていた。


「ふざけないでよ、全部一人で背負おうとするなんて!」


「良いよ全然。でも、次からはちゃんと私のことも頼ってね」


「はい。まだ覚えたての魔法ですけど、迷惑をかけないように頑張ります!」


 ああ、ああ。何ということを。どうして私はあんなことを。


 涙を流して、手を伸ばしてももう取返しがつかない。醜く汚れた傷だらけの手で、一体何が掴めるのだろう。


「呪術師とどんどん戦って、ストーリアをみんなやっつけるのも時間の問題かな……なんてね!」


 こんな私をどうか許して下さい。殺したい程に憎くても、せめてそっぽを向いて見捨てないで下さい。


 イリーナは心の中で、思い浮かぶ全ての人に頭を下げた。


「クリス、ミシェル、ルヴェルちゃん、リカルドさん、エルア先生、マルクさん、アセビさん、パパ、ママ……」


 そして最後に力が尽きる寸前、決して会うことのできない憧れの人の名を告げた。


「……ごめんなさい、ベルドールさん」




 魔力の果てたイリーナは、抵抗する余力も無く倒れた。


「さあクジラちゃん。あれ程憎かった魔法使いへの復讐を果たす時だよ」


 自分の役目はここまで。そう言わんばかりに、リューズは微笑みながら後ろに下がる。


 そして、入れ替わりにストーリアが唸り声を上げた。


「ふふっ。今楽にしてあげるね、おねえちゃん」


「待って……イリーナを殺さないで!」


 彼女の周囲に数え切れない程の氷柱が作り出される。固く鋭い、人の体を容易に貫くことのできる凶器。


「その子は何も関係無い。私が全部……うっ!」


 ここで立ち上がらなければ。ミシェルは必死に腕を動かそうとしたが、激しい痛みに思考が止まりそうになる。


 親友のために命を懸けて戦うと、そう誓ったはずなのに。


「やめてぇぇっ!」


「……これで、おしまいだよっ!」


 彼女の叫びを嘲笑うかのように、夥しい数の氷柱はイリーナの頭部を狙って襲いかかった。


「あっ……」


 薄れゆく意識。イリーナの視界には、必死に身体を動かそうとするミシェルとストーリアの姿が見えた。


 ここで終わってしまうんだ、私の学校生活も人生さえも。


「バレーナ、ちゃん」


 結局、最後に彼女の真意を聞くことはできなかった。痛みはいつ来るだろう。死んだら、私はどこへ行くのだろう。


「みん、なっ……!」


 叫んで吐き出して擦り切れた、ごめんなさいを再び告げる。


 最後にふと目を閉じる。氷柱がイリーナの頭に届き、儚い命を刈り取ろうとした、その時。




「……あれ?」


 その痛みはいつまでも来ず、イリーナは静かに目を開けた。


「ほう、無駄なことをしてくれたな」


 リューズの乾いた笑みと共に、眩しかった光景が見えた。


 誰かが大剣を持って氷柱を弾き返している。だが全ては防ぎ切れず、胸や腹部には大きな穴が開き……


「アセビ、さん?」


「大、丈夫? イリーナちゃん……」


 風の剣が手から零れ落ちる。彼女の掠れた声で、薄れかけていた意識が殴られたように戻ってきた。


「アセビさんっ!?」


 遅れて目を覆いたくなる程の血が地面に溢れ出た。内臓を貫かれ、地面に倒れたアセビは僅かに痙攣する。


 他でも無い、死に直面したイリーナを守った結果だった。


「……アセビっ!」


後を追っていたクリスもその惨状を目の当たりにし、穴だらけとなった彼女に言葉を失う。


「し、しっかりして下さいっ!」


 痛みが徐々に消えていく。身体の限界を超え、痛覚が飛ぶ。


 イリーナはよろめきながら倒れたアセビに駆け寄った。だが、魔力が尽きた彼女に治す術は無い、何もできない。


「どうして……どうしてこんなことを!」


「ごめんね。みんなのこと守るって、誓ったはずなのに……」


「違うんです! これは、私が……」


 僅かに開く悲しげな瞳が、取り返しのつかないことをしてしまったとやんわり告げる。


 それでも、殺されるべきなのは私なのに。必死に戦ってきたはずのアセビが、弱い自分なんかのために。


「血を、止めないと。でも、この量は、えっと、わ、私の力じゃ、でも、どうすれば……」


「もう良いよ、イリーナちゃん」


 突き放すのではなく、焦る彼女をやんわりと止める。


 体を抱きかかえ、助けようと必死に考えを巡らせるイリーナの頭を、瀕死の彼女は優しく撫でた。


「私は、もう助からない。それに、イリーナちゃんは今まで、すっごく、頑張ったんだから……」


 時が経つにつれ声が弱々しくなる。命の燈った暖かい手と、青白くなった冷たい手が重なる。


「貴方の、してきたことは、人殺しなんかじゃない……昨日、私と一緒に、ストーリアと戦ってくれた時、私とっても、嬉しかった、よ?」


 優しい笑顔を向ける彼女、しかし息はしゃくり上げるように不安定で、乾いた唇からは血が零れ出る。


 その胸元に、イリーナの透明な涙がゆっくりと注がれた。


「そんなこと、無いです。私はっ!」


「私なんかよりも、イリーナちゃんは、ずっと強いよ。貴方のお陰で、私やクリスちゃん、エルア先生だって、みんなすくわれたから」


 最後に彼女は青い空を見上げた。太陽の光が、ぼやけて、何重にも重なって見える。


「あの人、との約束、まもれなかったなあ……」


 先生はどうなるのだろうか。怒るだろうか、軽蔑するだろうか、それとも少しは悲しむのだろうか。


 どちらにしても、私は本当にどうしようもなく酷い奴だ。


「イリーナちゃん。これからも、がんばってね。離れていても、おうえん、してるから……」


 静かに瞼が閉じられ、その全身から力が抜けてアセビは地面に横たわる。


 あれだけ満ちていた生命の輝きが、消えて無くなっていく。


「アセビ、さ」




「……いただきまぁす」


 その寸前、アセビの身体が何者かに持ち上げられた。


「えっ……?」


 ぐしゃり、ぐしゃ、ぐしゃ。ばきばき、ぼりぼり。


「アセビ、さん?」


 彼女はストーリアの口に入れられていた。丸呑みにされて、異様な音を立てながら、咀嚼されて。


「うそ、でしょ?」


 やがて不味そうに口から吐き出されたのは、彼女の片腕。


 死の淵に立ったアセビを貪り喰ったストーリアは、残った血をイリーナに向けて噴き出した。


「いや、いや……いやぁぁぁぁぁっっ!!」


 違う、こんなの嘘だ、幻だ、夢だ、そう、これはきっと意地の悪いただの夢なんだ。


「アセビさん……アセビさん、アセビさぁぁぁんっ!」


 だが叫んでも、涙を流しても目の前の景色は覆らない。


 片腕を残してアセビの遺骸が食べられた。その事実だけが、彼女の胸にずっしりと伸しかかって離れない。


「私、私のせい、私がもっと、わたし、わた、しっ……!」


 魔法学校の先生になりたい。そんな彼女の夢も、希望も、前に進む力も、こんな一瞬で。


「そんな……アセビさんが?」


 ミシェルも動けないまま目の前の光景に愕然とする。だが、最も言葉を失ったのはその当事者だった。


「ころした……私が魔女を、ころしたんだ」


 仲間の死に崩壊したイリーナを目の当たりにして、ストーリアは自身の行ったことを理解する。


「やったよ、おとうさん、おかあさんっ! 私、みんなのためにがんばったよ、仇をうったよ!」


 無邪気な笑い声が、空虚で無機質な街に木霊した。


 これで家族の魂は救われる。命を捨てる覚悟をしてまでストーリアになったことは、決して無駄ではなかった。


「素晴らしい。君のたゆまぬ努力でまた一歩、争いの無い世界に近付いたね」


 パチ、パチと乾いた拍手が地獄の光景に花を添える。人であることを捨てた怪物に贈られたのは、嘘偽りの無い賞賛と前に進むための鼓舞だった。


「さあ、僕と共に倒れ伏す愚民たちを皆殺しにしよう。あの方の理想のために、僕たちの願いのためにね」


「あ、あ、ああっ……!」


 そんなに悲しまなくとも、今同じ場所に連れて行ってやる。


リューズは視線を移し、今もなおアセビの残骸に涙を零すイリーナに照準を合わせた。


「うん。もっともっとがんばります、リューズさまっ!」


 次は失敗しない。一人ずつ、確実に倒して勝利を奪い取る。




「争いの無い、理想の世界だと……?」


 しかし、意を決して攻撃を放とうとした瞬間、ストーリアとリューズの間に激しい電磁波が走った。


「ほう……」


「人の命を犠牲にして叶えられる理想など、あるはずが無いだろう!」


 音がした方を振り向いても、彼女はもうそこにはいない。


 怒りに半ば我を忘れてしまったクリスは、槍を構えて二体の敵の間に瞬間移動していた。


「面白いことを言うね。毎度のようにストーリアを下し、その命を滅ぼしているのは君たちじゃないか」


 鳩尾を狙った刺突。しかし、その動きを読んでいたかのように、リューズは後ろに飛んで回避した。


「聞こえの良い言葉で人を騙す貴様らが、どの口を!」


「彼らは自分の意思で人を捨てている。僕たち呪術師はただ、その意思を尊重しているだけさ」


 間一髪の所で横切った槍を、彼は煩わしそうに蹴り上げる。


 こんな所で終わらせない。クリスが諦めずに身構えていると、後ろから純白の霧が襲いかかってきた。


「何を……!」


「貴方の相手は私だよ、雷のおねえちゃん!」


 視界に入る冷気を振り払う。霧の中から放たれた氷柱を弾き返し、ストーリアの方に向き直った。


「貴様もだ……そんな力に手を染めて、家族が喜ぶと本気で思っているのか!?」


「おねえちゃんのきめることじゃないよ、そんなの!」


 氷の膜に身を包み、再び攻撃から身を守る態勢を整える。


 クリスは目線を低く保ったまま、懐から三つの異なる輝きを持った魔石を取り出した。


「……トライ・レ・ムルバ!」


 炎、氷、そして雷。異なる特性を持った三つの魔法が強固な装いを融解し、その身を貫いていく。


「ん、あっ……!?」


 轟く悲鳴を耳に入れ、攻撃が効いたと確信したクリスは一機に距離を詰めようとする。


 だが、その足が突如として一歩も動かなくなってしまう。


「これで……ぬうっ!?」


「ざんねん。足元がガラ空きだよ、ネボスケさん?」


 払ったはずの霧が足元に。そう気付いた時には。膝から下の動きはもう完全に封じられていた。


「何をしてもむだだよ。わるい魔法使いは、私が全部やっつけてやるんだから!」


 アセビやイリーナに浴びせた、山のような鋭い氷柱。


 凌ぐ余地は無い。目の前に迫った危機に覚悟しつつも、クリスは槍を構えて諦めなかった。


「……来るなら来い、ストーリア」


 今ここで自分が倒れれば、二人の大切な仲間はどうなる。


「ボクは決して負けない。たとえ相打ちになろうともな!」


 挫けそうになる自身を奮い立たせ、クリスはストーリアの脳天を目がけて雷撃を放つ。




 だが……その攻撃を何かが凄まじい速さで追い抜いた。


「うァァァッ!?」


 ストーリアの身体に生々しく突き刺さる、光る弓矢。


 クリスは驚いて辺りを見回した。魔力の切れたイリーナ、傷付いたミシェル。二人の放った魔法では無い。


「あれは……風魔法か!?」


 まさか。半ば導かれるように古びた建物に視界を移すと、その上に弓矢を放った主の影があった。


「……アザー・ディメンション」


 虚空から現れた箒を片手に、巨大なストーリアの背丈を優に超える高さから躊躇いも無く飛び降りる。


 ゆっくりと降り立ったその人物は、新たな魔法使いの少女。


「久しぶり。相変わらず甘いわね、クリス」


「何故だ。どうして君がここにいる?」


 緑色の長い髪をポニーテールにまとめた彼女は、足元の凍り付いたクリスに憐みに近い視線を向けた。


「新手の魔女か。ゾロゾロと厄介なものだ」


「一緒にしないでくれるかな。こんな奴らとは全然違うから」


こんな存在は聞いていない。今まで余裕を保っていたリューズも表情を崩し、目を細めて視線を泳がせた。


「あたしはシルビア・エンゲルス。風の魔法使いにして、この世界に変革をもたらす魔女狩りの魔女よ」


 着込まれた魔法学校の制服が、強い向かい風に当てられて上下左右に大きくたなびく。


 それは、今までとは違う新しい時代が始まった証拠だった。




「誰がこようが……おんなじだよっ!」


 激しい痛みから立ち上がったストーリアが、仕返しと言わんばかりに大量の氷柱を作り出す。


「……ウインド・アロー」


 弾き返されても、次の攻撃がこちらの身体を貫こうとする。


 シルビアは自身の杖を弓矢に変え、両足に力を込めて攻撃に怯まず前へと進んだ。


「な、何っ!?」


 瞬く間に襲ってくる標的。しかしそれらの隙を見逃さず、構えられた弓は対象を正確に射止めていく。


「そんな……リューズさまにもらった力なのに!」


「はあっ!」


 再び箒に乗って上に飛び上がる。身をよじり、蹴り飛ばし、向かってくる氷柱を確実に砕く。


 攻撃がシルビアの隣をすり抜け。あと一歩で当たらない。


「魔法使いのくせに、よくも!」


 怒りの叫びに呼応して残った五つの氷が花弁状に集まり、ストーリアの身を守る。


「エンハンス・ブレス!」


 だが、その程度では彼女の魔法を止めることは叶わない。


 光を放った箒は氷の盾を弾き飛ばし、シルビアは相手の懐に飛び込んでその頭を蹴り飛ばした。


「くうっ……調子にのらないでよね!」


 怯んで後ろに下がったストーリアは、慌てて霧に隠れる。


 ゆっくりと箒から降りて視界を確かめる。巨体は見えない、それどころか、このままでは凍らされてしまう。


「足だけじゃない。全身をこおらせてあげるっ!」


「……へえ、少しは頭も回るみたいね」


 どこから敵が来るかも分からない。普通であれば、怖気づいて声も出せなくなるような状況。


 だが、シルビアはどこからか聞こえる彼女の言葉にはまるで耳を貸さず、一人静かに杖を構え続けた。


「ウインド・ムルバ!」


 足元から吹き荒れる風が、巻き付く冷気を寄せ付けない。


「そんな……まさか!?」


 瞬く間に、シルビアを包み込んでいた霧は嵐によって綺麗さっぱり消滅してしまった。


「薄っぺらいのよ、あんたの力は全部ね!」


 目の前を塞ぐ邪魔者がいなくなったシルビアは、両足を開いて弓矢に力を溜め込む。


 この距離なら、その大き過ぎる巨体もくっきりと見える。


「あれ、は……」


 その時、魔力も気力も失ったイリーナは、その朧げな視界の中で一人戦う魔法使いの姿が映った。


「あの、時の、魔女?」


 ストーリアと戦う私に突如として降り注いだ、風の矢の主。


 アセビではない。敵か味方かも分からなかったあの人物の正体は、シルビア・エンゲルス。


「まさか、これ程の強さだなんて……」


 その姿を初めて見たイリーナとミシェルの間に、興奮とも驚きとも違う言葉にし難い感情が湧き上がった。




 一瞬の隙に生まれた標的を、シルビアは決して逃さない。


「これで終わりよ。薄汚いストーリア!」


 弓矢に込められた魔力が徐々に増大していき、その長さと射程をより広大なものに変えていく。


 絶対に外さない。相手の中心に、その反応より早い一発を。


「ウインド・エル・ムルバ!」


「ウァァァァッ……!?」


 氷の防御が間に合わない。その身を貫いた一本の弓矢は、ストーリアの全身を巻き込んで爆散した。


「こんなのやだよ、ヴェ―ネットォォォ!」


 弟の名を必死に叫んでも、既に先立った彼が助けに来てくれることなど有り得ない。


 その最期まで孤独のまま、ストーリアになったバレーナは粉々になって息絶えた。


「くそっ、少しは使える奴だと思ったのに!」


 リューズは焦って前に踏み出すが、既に残骸となってしまったストーリアを蘇らせる術は無い。


 失意の中、遺骸を踏んだシルビアはゆっくりと振り向く。


「……で、まだ続けるの?」


「ふん……そうやって人を舐め腐った態度を取っていれば、いずれ君自身が痛い目を見ることになるよ?」


 戦いを続行している暇は無い。そう判断した彼は、身構える相手に背を向けて黒い本を開いた。


「乱入者に助けられたな、イリーナ・マーヴェリ」


 本から現れた黒い靄に包まれ、全身が徐々に薄れていく。


「また会おう。次があるかは分からないけどね」


 撤退の合図。シルビアがそう気付いた時には、彼の姿はすっかり掻き消えていなくなっていた。


「痛い目ならとっくに見ているわ。嫌になる程ね」


 まただ。彼らはいつも、運命から無責任に逃げていく。


 呪術師がいなくなった戦場で、彼女が呟いたのは行くあてを失った感情と言葉だった。




「お、終わったの……?」


 爆風が止んだ後、ミシェルはゆっくりと顔を上げた。


 自分一人ではどうにもできなかった脅威。強大な敵を容易く片付け、虚空を見上げるシルビアが視界に入る。


「……いや、まだ終わっていない」


 だが、足元の氷が解けたクリスは依然として警戒の表情を緩めていなかった。


「魔女が三人。なるほど、ハンデにはちょうど良いわね」


 つい先程、役目を終えたはずの弓矢がこちらに向けられる。


 魔女を倒そうとするシルビアと、仲間を守ろうとするクリスの鋭い視線がぶつかり合った。


「えっ、どうして!?」


「やはり君だったのだな。各地で魔法使いを襲い、見境無く戦場から追い払っていたのは」


 彼女もまた槍をシルビアに向ける。まるで、最初からその運命が分かっていたかのように。


「そうよ、あたしは魔女狩りの魔女。半端な覚悟で戦いに挑むあんたたちを倒しに来たのよ」


 否定はしない。言葉が重しとなってこちらの心を圧倒する。


 ちょっと待ってという一言も口から出せなかった。向かい合う二人はもう、燃え盛る炎の中のよう。


「どうしても、戦わなければならないのか?」


「……そういう生き方しか、教えられていないからね」


 そうか、とクリスは視線を落とす。ほんの少し悲しげな表情を浮かべた後、魔石を握り締める音が聞こえた。


「ならば、かつての仲間としてボクが止めてみせる!」


 意外にも、一歩先に魔力を込めたのはクリスの方だった。




 コインを宙に投げるように、三色の魔石が空を舞う。


「トライ・レ・ムルバ!」


 炎、雷、氷の魔法が隙間無くシルビアに向けて押し寄せる。


 だが地上を駆け、壁を蹴り、軽やかに上に飛んだ彼女はどんな魔法も寄せ付けない。


「ウインド・ムルバ!」


「……ぬわっ!」


 射程に入った時間、僅か一秒。反応する間も無く、クリスの身に風を纏った矢が襲いかかる。


「どうしたの、止めてみせるんでしょ?」


 ほんの一瞬笑みを見せた後、再びシルビアの姿が消える。


 全ての動きが読まれているようだった。手玉に取られて、一つ一つじっくりと退路を断たれている。


「こうなったら……私も!」


 休んでいる場合では無い。そう判断したミシェルは、怪我を押し切って戦いを止めるために立ち上がった。


「フレイム・ソードっ!」


 イリーナは戦えない。彼女を守りたいという願いが込められた剣は、シルビアの姿を僅かに捉えた。


「もうやめて、こんな戦いに意味は無いよ!」


「……そう思うなら力で示しなさい、一人の魔女として!」


 弓と剣がぶつかり合う。だがあと一歩で押し切れない、必死に戦っているはずなのに。


「どうして……」


 今の自分には、彼女を助ける資格があるのだろうか?


 その考えが頭をよぎった途端、逆にミシェルの剣は大きく弾き飛ばされてしまった。


「それが、今のあんたの限界よ!」


「このっ……サンダー・ムルバ!」


 後ろに倒れたミシェルの影から雷撃が押し寄せる。シルビアが後ろに避けると、双方に大きな距離が生まれた。


「ボクたちには覚悟が足りないと、君はそう言うのか!?」


 クリスが必死に声を張り上げても、彼女の耳には届かない。


 距離だけじゃない。そこには何人たりとも入ることを許されないような、大きく高い障壁があった。


「その通りよ。仲間のため、みんなのため。そんなことを考えながら戦っているから、限界を超えられない」


 身構えるクリスたちの背後に、冷たい風が吹き抜けた。


「終わらせてあげる……アルター・スピリット」




 シルビアが一人、また一人と増えていき、数え切れない程の彼女が二人の魔女を覆い隠した。


「……分身魔法か」


 どこから攻撃が来るかも分からない、その標的は全方位。


「あんたたちが弱かったから、大切な仲間は命を落とした」


「戦場での迷いは死を生むって、今までに学ばなかったの?」


「いっそのこと、何もかもを捨てれば楽になれるのにね」


 シルビアたちが弓を構える。鋭い程の殺気が何本も折り重なり、誰も立ち向かえない威圧感を生み出した。


「まずい……」


 分身したそれぞれが、個別に魔法を使うことができる。


 その事実に気付いて防御の姿勢に入った時には、もう彼女らは魔力を溜め終わっていた。


「ウインド・アロー!」


 弓矢が地面を抉り、足元から爆風が駆け抜ける。余波は二人を巻き込み、嵐のようにこちらを軽く拭き飛ばした。


「うわぁぁぁっ!」


「うっ……くうっ!」


 為す術も無く、クリスとミシェルは乾いた地面に転がる。


 これが力の差だと言わんばかりに、分身を解いたシルビアは勝ち誇った視線で見下してきた。


「強さの、次元が違うっ……」


 込められた感情も積み上がった経験値も違う。その魔法の練度が、シルビアの揺るぎない信念を示していた。


「覚悟が足りないなら消えなさい。戦場はいつもあんたたちを守ってくれる程、優しい存在じゃないのよ」


 ここで退けば彼女の思う壺。力を振り絞って立ち上がろうとしたクリスの腕を、隣のミシェルが掴んで止めた。


「今の私たちじゃ勝てない……逃げるよ」


「し、しかし……」


 一呼吸を置いて、クリスは身の回りの状況に目を配った。


 ここでシルビアを取り逃してしまったら、諦めの悪い熱を帯びた心が、彼女から冷静な判断力を奪っていく。


「このままじゃイリーナまでやられちゃう。私たちが立ち上がれても、あの子はもう戦えないよ!」


 ミシェルの表情と倒れ伏すイリーナの姿を見比べる。そこでようやく、クリスは我に返ることができた。


「分かった。ここは撤退しよう……」


 手に持つ槍を静かに振り上げる。相手はまだ攻撃の体勢に入っていない、今なら。


「サンダー・ジャッジメント!」


「っ……!」


 推測の通り、電撃を受けたシルビアが一瞬だけ怯む。


 立ち上がれないイリーナをミシェルが抱え、クリスが箒を持って戦場から離脱を図る。


「イリーナ……動ける?」


「うん……」


「退くぞ。ウインド・レ・ムルバ!」


 半ば強引に魔力を込め、身を寄せた二人を掬い上げる。


「……ちょっと、まさか逃げるつもり?」


 背中に突き刺さる視線が燃えるように熱い。だが、今はただ逃げることだけを考えるしか無かった。


「いつか君とは決着を付ける。必ずな!」


 張り上げた声は、自分でも負け惜しみと分かる程に弱い。


 行き場の無い感情を抱えたまま、クリスたち三人を乗せた箒は魔法学校に向けて進み始めた。




 電撃が解けた時、既に箒の姿は見えなくなっていた。


「ふん、口の割には及び腰な奴……」


 ゆっくりと深呼吸をして光を帯びた弓を魔法の杖に戻し、シルビアも同じく箒に跨る。


戦意を失った彼女たちを、必死に追いかける必要は無い。


「また会える日を楽しみにしておくわ。クリス・サキュラ」


 覚悟が残っていれば彼女はまた戦場に来て、覚悟が無ければ再び戦うことも無い。


 ただそれだけのこと、それ以上でもそれ以下でも無い。


「ウインド・レ・ムルバ!」


 来るべき次の戦いに備え、シルビアは自身の拠点に向けてゆっくりと箒を飛ばした。




「ごめんなさい、エルア先生……」


 イリーナは顔を俯けたまま、アセビの杖を差し出した。


 謝って済むことでは無い。自分がもっとしっかり戦っていれば、こんなことにはならなかったのだから。


「まさか、そんな……」


「私のせいなんです。私なんかのために、アセビさんが」


 殴るわけでも、叱り飛ばすわけでも無い。ただエルアは呆然とした後に、微かな力で杖を手に取った。


「調子に乗ってたんです。今の私なら何でもできるって……どんなに強い敵でも、頑張ったら倒せるかもって」


 信じていた正義はただの思い込み、人助けだと思っていたことは、ただの人殺し。


 堪えていたはずなのに、涙が自然と溢れ出てきた。


「本当は、私一人じゃ何もできないのにっ……!」


 身を震わせるエルアの表情ははっきりと見えなかった。いや、怖くてとても見られなかった。


「……ごめんなさい、ごめんなさい。こんな私で、何もできない私でごめんなさいっ!」


 卑怯者と言う他に無かった。相手の顔も見ずに、大切なことから逃げ続けて頭を下げるなんて。


 でも今のイリーナにできることは、これが精一杯だった。


「……貴方のせいではありませんよ、イリーナさん」


「えっ……?」


 耳を澄ませないと聞き取れない程の声。彼女が首を傾げると、エルアは静かに頷いて背を向けた。


「後のことは僕たちに任せて下さい。皆さんも決して、無傷ではないのでしょう?」


 求められていなくても、イリーナは手を伸ばしたかった。


 だって今の彼は、少し触れれば壊れてしまいそうになる程に弱々しかったから。


「でも、エルア先生……」


「私なんか、なんて……言わないで下さい!」


 だがエルアは振り向かなかった。その場に釘付けになる彼女らに向けて、早く行けと背中を押す。


「貴方たちは厳しい状況下でも必死に戦い続けた。今回の件は、生徒をしっかり見ていなかった僕の責任です」


 物音は消えていた。魔法の練習をする生徒たちも、昼夜仕事に明け暮れる先生たちの声も、今は耳に入らない。


 イリーナはただ、窓を眺め続けるエルアの姿を見つめる。


「行きなさい。貴方が背負い込むことではありません」


「……分かりました、エルア先生」


 失礼します、と頭を下げたまま彼女は立ち去った。その背中に触れながら、ミシェルとクリスも退室する。


「……」


 最後に、クリスだけがこちらを心配そうに見つめていたのは、きっと気のせいなのだろう。


 そして、一人きりとなってしまった部屋に静寂が訪れる。




「アセビ、さん……」


 もう限界だった。出せる力を振り絞って壁を叩き、体重を預けて静かに崩れ落ちる。


「大丈夫ですよ、私は先生の良き理解者ですから」


 彼女を止められなかった。心のどこかで、こうなることは分かっていたはずなのに。


「やったっ! ありがとうございます。私、エルア先生の分も頑張って戦ってきますね!」


「無事に帰って来るのでは、無かったのですか……?」


 瞳からは涙が零れ落ちる。先生が泣いてはいけないはずなのに、挫けてはいけないはずなのに。


 その表情は、杖を受け取った時からとっくに壊れていた。


「分かりました。頭に留めておきますね、先生っ!」


 どこを間違えたのか、何をすれば良かったのか。彼女の暖かい笑顔を守るために、僕は何を。


「まただ……また、僕の目の前で、大切な人がっ……」


 ありがとうさえ伝えられなかった。さよならさえ告げられなかった。話したいことは、もっとたくさんあったのに。


 調子に乗っていたのは、他の誰でも無い自分自身だ。


「ううっ、うっ……うぁぁぁぁぁっ!」


 未来を切り開く魔法使いが、また一人消えてしまった。


 アセビの笑顔、そして言葉を心に刻み込んで、エルアは手に持った杖に向かって必死に泣き叫んだ。




 部屋の前でノックをすると、意外にもクリスはすんなりと自室に通してくれた。


「君か。イリーナはどうなった?」


「部屋にいるよ。今はまだ、話せるような状態じゃない」


 腕に包帯を巻いたミシェルは、息を吐いて椅子に腰かける。


 疲れがどっと押し寄せているはずなのに、はっきりと冴えた意識が休息を決して許さない。


「そうか……そうだろうな」


 その様子が痛い程伝わってくるからこそ。クリスも言葉を失って静かに窓の方を向いた。


「ねえ、クリスに一つ聞きたいことがあるんだけど」


「何だい?」


 ミシェルは魔道具が置かれている場所に視線を向けた。彼女が口に出したがらない、誰かが住んでいた痕跡。


「ストーリアを倒したあの魔女、クリスの知り合いなの?」


 きっと彼女は嫌な顔をするだろうな、とミシェルは目を細めた後に敢えて口にする。


 だがそれを予測していたのか、クリスの返答は早かった。


「……シルビア・エンゲルス。かつては属性科にいた一年生で、君たちが入学する前にここを去った魔法使いだよ」


「元、魔法学校の生徒ってこと?」


 そうさ、とクリスはゆっくりと頷く。かつての過去を懐かしむように、そして後悔するように。


「短い間だったが一緒にも戦った。今思えばたった一人の同級生で……そして、信じられる仲間だったよ」


 惜しいことをした、とクリスが言っていたことがある。


 かつて同室だった人物はシルビアだ。わざわざ言葉にしなくとも、ミシェルは彼女の様子でそう察した。


「何があったのか、聞いても良い?」


「それが、ボクにも分からないんだよ。彼女の身に何があったのか、その心にどんな悩みがあったのか」


 期間にして数ヶ月。せっかく魔法学校に入れたのに、辞めてしまった理由は何なのだろう。


「シルビアは、ボクにも内緒で学校を去ろうとしたのさ」




「どうしてだ……どうして、いきなり退学など?」


 噂を聞いてクリスが駆け付けた時には、既に彼女は荷物を持って箒に跨っていた。


「魔法学校の方針が気にくわない、ただそれだけよ」


「仲間と共に戦うのが、君はそんなに嫌なのか?」


 兆候は何度かあった。一緒に戦えない、戦いたくないと、彼女は幾度となく口にしていたから。


 だが、まさか本当に学校を去ると言い出すなんて。


「仲間がいれば強くなれない。最初は大切に思っていたとしても、いつからか足手まといになってしまうわ」


 箒に魔力を込めると、向かい風がこちらに向かって吹き荒れた。まるで、引き留める仲間を突き放すかのように。


「私は一人で戦う。これからは他人同士よ、クリス」


 終わってしまう。決して届かないと分かっていても、クリスは彼女に必死に手を伸ばした。


「考え直せ……ボクにはまだ、君の力が必要なんだ!」


 恥ずかしくて仕方無い。友情も分からない自分が、一瞬肩を並べただけの他人のために転びながら表情を崩して。


 最後に一瞬だけシルビアが振り返る。こちらを勇気づける笑顔ではなく、ただ理解に苦しむ憐みの表情。


「これが考え抜いた結果よ。さようなら」


「待ってくれ、シルビアっ!」


 それからしばらくして、戦いに赴いた魔法使いが何者かに倒される魔女狩りの事件が頻繁に起きるようになった。


 その犯人は、魔法学校の制服を着ているはずの人物だと。


「これから、ボクにどうしろと言うんだ。シルビア……」


 仲間を一人失ったクリスは、乾いた風の吹く魔法学校の門の前で一人崩れ落ちた。




 イリーナが入学するまで、クリスはまた一人に戻った。


「ここで魔女狩りの報を聞いた時、ボクはすぐに彼女の顔を思い浮かべたよ」


 クリスが研究に明け暮れていた意味、そしてどこか自室に残った寂しい雰囲気、その意味が分かった気がした。


「そして、かつての仲間としてシルビアを止めたかった。だが、今回は少し冷静さを欠いてしまったな……」


 彼女は悲しみを堪えて、一人の戦士として頭を下げた。


 仲間を止められなかったこと、そして、仲間のために全力で戦えなかったこと。


「えっ……?」


「すまない。ボストレンでの一件は、全てボクの責任だ」


 少し目を配れば気付けたこと、少し頑張っていれば叶えられたこと。一度目を瞑れば数え切れない程にあった。


 成長していない。あの時から、自分は何も変わっていない。


「ううん。クリスは……必死に戦ったじゃない」


 だが、ミシェルはそんな彼女の手を握った。本当に謝るべきは、判断を間違えた自分の方なのに。


「あの子を守れなかったのは私だよ。目の前にいて、手を伸ばせば間に合ったのかもしれないのに」


 イリーナの歪んだ顔を見た時、彼女はようやく気付いた。


 自分はイリーナのために戦えていない、親友なのに、必ず守ると誓ったはずなのに。


「これは全部、全部私のせいなの……」


 しばらく、蹲る二人は立ち上がることができなかった。




 部屋に戻ると、変わらず彼女はベッドで横になっていた。


「まだ起きてる、イリーナ?」


 薄暗い自室で表情を覗き込む。強く閉じられて瞼が、ほんの僅かに小さく開けられた。


「……うん」


「そっか……ううん、当たり前だよね」


 その脳裏にはあの光景がずっと浮かんでいるはず。アセビが自身を庇い、ストーリアに食べられたその姿が。


 ミシェルの姿を目にすると、彼女はそっと起き上がった。


「本当にごめんなさい。ストーリアの正体、私たちが戦っている理由……全部隠してて」


 イリーナのため、とは口が裂けても言えなかった。今の自分に、言い訳をして逃げる資格なんて無い。


「ずっと、言わなくちゃって……思ってたのに、どうしても、どうしても伝えられなく、て」


 徐々に声が弱くなっているのが、自分でも痛い程分かる。


 早く次の言葉を、イリーナを守れるような言葉を。そう焦っても、自分の視界だけが虚しくぐるぐると回った。


「気に、しないで。私を傷付けないために、ミシェルは私の見えない所でもずっと悩んでたんでしょ?」


 それでもミシェルを悲しませまいと、こちらを向いたイリーナは敢えて平静を装うとする。


 暗がりでも、シーツが濡れているのが目に見えていた。


「それなのに私、何にも分かってなくて……ああ、私ほんと、ほんとバカだなぁっ……!」


 助けられない。壊れていく彼女の心に、一筋の光を差し伸べることができないのが何よりも辛かった。


「ごめんね、ミシェル。私もう、一人じゃダメみたい……」


「イリーナ……イリーナっ!」


 涙を流す彼女をゆっくりと抱き締めた。本当は無駄だと分かっているのに、離れないように、強く。


「違うの。何も分かってないのは、私の方だよっ!」


 ずっと強いと思っていた彼女の身体は、試験の時よりも遥かに細くて弱々しくなっているように思えた。


 当然だ。親友であるはずの自分が、彼女を傷付けて取り返しのつかないことをしてしまったのだから。


「ごめんなさい。本当にごめんなさい……イリーナ」


 傷が滲むのをぐっと堪えて、ミシェルはイリーナの背に手を回してぐっと力を込めた。


「ぐすっ……うわぁぁぁぁんっ!」


 以前は本当に幸せだった、彼女と一緒にいられる時間。


 でも今は、身体も心も軋むように痛んで、いてもたってもいられなかった。




 続く

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る