第2話 入学の手引き、まずは魔法Ⅱ
イリーナと別れたルヴェルは、しばらく走った末にようやく自分の家に辿り着いた。
振り返ってみる、オオカミ男は、もう追いかけてこない。
「あっ、ジョニーさん!」
そんな時、彼女は道に佇む一人の男を見つけて駆け寄った。
彼の名はジョニーといい、ルヴェルの隣に住んでいるためちょっとした関わりがあった。
「ルヴェルちゃんじゃないか。一体どうしたんだい、そんなに慌てて?」
「ジョニーさんの方こそ、家に隠れないと危ないですよ!」
どうして、と未だにとぼけた様子の彼に対して、ルヴェルは必死に訴えかける。
「魔獣が襲ってきたんです。お出かけしていたら、あっちの方からとびっきり大きいのが!」
自分の頭の悪さを恨めしく思った。お姉ちゃんなら、きっともう少し上手に伝えられるはずなのに。
「魔獣……まだ昼なのに、そんな大きいのが?」
「嘘じゃないのに! オオカミの姿をしてて、食べちゃうぞーって言葉まで喋ってて!」
もう涙が出かかっていた。こうしている間にも、あの化け物はすぐそこまで迫っているのかもしれない。
そう思っていたら、彼の様子に異変が起き始めた。
「へえ、それは大変だったね」
黒いオーラがジョニーの身体を包む、何だか、彼の体格が一回り大きくなったように見える。
「ところでさ、そのオオカミの魔獣って……」
「嘘、まさか……!?」
一つ一つの点だった違和感が線となっていく。この爪は、毛の生えた手足は、そしてこの顔は。
「……こんな姿を、していたんじゃないのかァ!?」
人間の姿をしていたはずのジョニーは、瞬く間にオオカミ男に変貌してしまった。
逃げ切れた気になっていたのに、本当はずっと……自分のすぐ傍に。
「きゃぁぁぁっ!」
オオカミ男が咆哮を上げて襲いかかる前に、ルヴェルは無我夢中で自分の家に飛び込んだ。
「嫌だ……死にたくない、死にたくないっ!」
ドアが蹴破られるのも時間の問題。ルヴェルはそれを察した上で、足をどうにか動かして自室へと向かう。
あのお姉ちゃんと約束したから、必ず生きて帰るって。
「お父さん、お母さん」
このドアの先に二人がいるはず。きっと何か、ここから逃げられるような方法もある。
ルヴェルはそう信じて、部屋のドアノブをぐっと掴んだ。
「ぁっ……」
だがその先にあった光景を見ると、ルヴェルの頭は遂に真っ白になってしまった。
「そん、な」
少し前まで、何気ない会話をしていたのが嘘のようだった。
両親だったものは既に肉の塊になり、貪り食われてしまって原型を留めていなかった。
鍵を閉めていたドアが破られてしまった。オオカミ男が階段を駆け上がり、やがてこっちまで来る。
「私が言うことをちゃんと聞いていたら、お出かけなんてしなかったら……」
だがもう、走り出す力はどこにも残っていなかった。取り返しのつかないことをしてしまったという後悔は、まだ子供だったルヴェルにはあまりにも重かった。
ウサギのお姉ちゃんはきっと、今も誰かを助けようと必死なはずなのに。
「みんな、ごめんなさい」
オオカミ男は何も言わなかった。静かにルヴェルの腕を掴み、首筋から獲物に食いつく。
痛みはいつ来るのだろう。数秒後、それとも……
「ごちそうさん。とびきり新鮮で良い味だったぜ」
一方その頃、ミシェルは父の遺品が保管されている家の地下室に足を踏み入れた。
「凄い、これ全部魔法の……」
本人が研究に使っていたのであろう魔法の書物や、呪術師について記されたノートまで残っている。
やっぱりお父さんは偉大だ。どんな姿になり果てても、自慢の父であることに変わりは無かった。
「ちゃんと言ってくれたら、私だってお手伝いしたのに」
歩き出すたびに涙が溢れ出てくる。彼女が地下室に訪れたのは、これが初めてのことだった。
「そうだ、早くあれを見つけないと」
ミシェルは魔道具や書物の山を掻き分け、必死に目当ての物を探した。家のどこを探しても無かったのなら、きっとここにあるはず。
「……あった、これだ」
やがてミシェルが見つけたのは、父が使っていた濃い木目の杖だった。
「呪術師を……ストーリアを倒すんだ、あの子のために」
おねだりをしても、いたずらをしても触らせて貰えなかった魔法の杖。まさか、自分がここで使うことになるとは。
「ごめんね、お父さん」
私も同じ道を行かなければいけない。茨の道でも、死が待っていても、結局残された方法はこれだけなのだから。
ミシェルは杖を持つと、鍵も閉めずに一目散に駆け出した。
「さあ、もっと美味い飯を食いに行くぞ」
ルヴェルを食い終えたオオカミ男は、次の獲物を狙って村を彷徨っていた。
「ハッハハ……!」
人の肉を摂取したことによって身体も随分と大きくなった。もうかつての、弱かった自分はどこにもいない。
かつて何もできなかった頃の弱い自分。いや……
「そういえば、俺は元々何だったんだろうな」
頭の中に残っていた映像が徐々にぼやけていく。代わりに浮かんでくるのは、今まで食ってきた獲物の悲鳴と咀嚼音の心地良いハーモニー。
食べて、食べて、ひたすら食べて貪り尽くす。
「待ちなさい……ようやく見つけたよ!」
「ああん?」
そんなオオカミ男、ジョンの行く手を阻んだのは、両手から雪の結晶を出すイリーナだった。
「またお前か? 散々俺の邪魔ばかりして、そろそろしつこいって気付け」
一歩、また一歩と後ろに下がる。ここで諦めてはいけないと思いつつも、先程より増したオオカミ男の気迫に圧倒されそうになる。
でも、魔法に覚醒した彼女だって負けちゃいない。
「みんなは避難させたよ……これ以上、ルヴェルちゃんや村の人たちは傷付けさせない!」
イリーナの言葉にオオカミ男はにやりと笑い、鋭い爪を広げてこちらに飛びかかる。
「本当にお前は……単調で愚直でバカな奴だなァ!」
街にいる魔法使いはここに来るまで時間がかかる。いや、本当に助けに来るかは誰にも分からない。
だったら、救援が来るその時まで私が戦い続けるしか無い。
「それでも……何もしないより全然マシだーっ!」
覚えたて、習得したての魔法で、イリーナはオオカミ男に立ち向かう。
「これでも、食らえっ!」
「へっ、同じ手は何度も通用しねえよ」
氷の柱でオオカミ男を拘束しようとしたが避けられてしまう。目にも留まらぬ速さで、狙いが定まらない。
「おらぁっ!」
声が後ろから聞こえてきた。まずい、何かで防がないと回避できない。
「何かこう……防げるやつ!」
寸前で氷の盾が攻撃を防いだ。だが、奴はまだ止まらない。
「遅えっ!」
次は正面からの蹴り。どうにか反応は追い付いたが、盾は凄まじい音を立てて砕けてしまった。
「うぁぁっ!?」
衝撃が抑えきれず、後ろに倒れ込んでしまった。
もう一度立ち上がろうとするが、そこで遂にイリーナは力が抜けて動けなくなってしまった。
「ウォォォッ!!」
オオカミ男の咆哮が身体にビリビリと伝わってくる。どうして、先程まではちゃんと動けたのに。
「万策尽きたようだな……魔力切れだ」
「そん、な」
指を差され、突き付けられる現実。そうか、どれだけ頑張っても私はただの素人。
魔法使いになったとしても、ベルドールには遠く及ばない。
「ここまで醜く抵抗したんだから、食われる時の悲鳴もさぞ可愛いんだろうな?」
奇跡は二度も起こらない。意識が薄れてきたのか、迫り来るオオカミ男が数体に分裂して見えた。
「メインディッシュだ……死ねっ!」
でも、これで避難させた人たちは助かる。私はこれで終わりだけど、きっと自分のしたことは無駄にならない。
きっとルヴェルや、ミシェルだって……
「そこまでよ、オオカミのストーリア!」
その時、夢か現実かも分からない声がイリーナの耳を包んだ。
どこからともなく現れた巨大な火球が、オオカミ男の胸に直撃したのだ。
「グァァァ……ァ!?」
初めて奴が吹き飛ばされた。凄い威力、少なくとも自分が使った魔法よりもはるかに。
直後、コツコツと足音がこちらに近付いてきた。
「大丈夫?」
「えっ……ミシェル?」
現れたのは既に逃げていたはずのミシェルだった。まだ熱気を放っている杖を持って、倒れたイリーナの肩を優しく叩く。
「これ以上貴方たちの好きにはさせない。もしここで引かないのなら……」
彼女は鋭い目でオオカミ男を睨み、そして言い放った。
「このミシェル・メルダが、その悪の心を燃やし尽くしてみせる!」
「ゴチャゴチャと、ふざけたことを!」
彼女の周りでゆらゆらと炎が蠢く。まるで、魔法そのものが意思を持って動いているようだった。
「フレイム・ムルバ!」
魔法陣が出現し、ミシェルの周りを赤いオーラが包む。それが始まりの合図だった。
「燃やせっ!」
ミシェルの掛け声で杖から炎が飛び出してきた。オオカミの雄叫びと拮抗した末に、火炎放射がオオカミ男を襲う。
「くそっ、今度は炎か!?」
イリーナと戦った時のように奴は高速移動で身を隠そうとする。だが、彼女は同じ失敗をしない。
爪による攻撃を避けながら、追尾型の火球を放ち続ける。
「逃がさない!」
何度も、何度も炎は毛皮を掠めていき、遂にルヴェルの魔法は奴を捉えた。
「ヌゥゥッ!」
自慢の熱い毛皮は簡単に燃え広がり、動き続けた足を容易く止めてしまった。
「何して……くれてんだよォ!」
遠距離では不利と判断したのか、瞬く間に黒焦げになったオオカミ男はこちらに飛びかかってきた。
だが、それすらもミシェルは想定の範囲内。
「無駄だよ……フレイム・ソード!」
彼女の詠唱と共に、魔法の杖に変化が訪れる。燃え避ける炎に包まれて、それは燃え盛る剣に変化した。
その姿は、さながら気品溢れる王国の騎士のよう。
「凄い、杖が剣になっちゃった!?」
魔法が使えば、こんなことまでできるのか。イリーナは今まで見たことが無かった光景の数々に、思わず言葉を失った。
「まるで、ミシェルがミシェルじゃないみたい」
私たちは魔法使いになれない。そう言って私を窘めていた彼女が、私を守るために必死に戦ってくれている。
「杖は使う者のイメージで多彩な武器になる。魔法があれば、どんな戦い方だってできるのよ?」
「……ほざけェッ!」
爪を構える奴に向かって、彼女は躊躇無く剣を振るう。鈍い音と共に、何をしても砕けなかった爪にヒビが入った。
「せいやっ!」
もう一度。ミシェルはフレイム・ソードを振りかぶり、爪を切り裂いてオオカミ男を吹き飛ばした。
全身はもうボロボロの状態。あの時の恐ろしさはどこかに消え去り、勝敗は誰が見ても明らかだった。
「ねえ、一つ聞きたいことがあるんだけど」
だがミシェルは相手が立ち上がらないと分かると、一旦剣を下げてこのようなことを聞いた。
「今の貴方に、後悔はある?」
その質問の意図はイリーナには分からなかった。だが、向こうからは込み上げてくるような笑い声が聞こえる。
「何言ってんだ、お前ェ?」
「……」
満身創痍、絶体絶命。そんな状態に立たされてしまったオオカミ男だったが、最後まで奴を包んでいたのは底知れない狂気だった。
「ようやく俺は最強になれたんだ……これで邪魔な村の奴らも、そしてお前らも皆殺しにしてやるッ!!」
その答えを聞くと、どういうわけかミシェルはとても悲しそうな表情をした。
「……そう」
反撃を受ける前に、彼女はオオカミ男の懐に飛び込む。
「これで終わりよ、何もかも!」
それが、とどめを刺す前の最後の通告だった。
「貫……けっ!」
濃い木目の杖が黒く光り、ミシェルの瞳が一瞬だけ光る。
至近距離で剣が相手の身体を貫通し、とうとう相手は地面に倒れ伏した。
「くうっ、地獄に落ちやがれェェッ!」
「……!?」
耳に響く断末魔と、辺り一帯を巻き込んだ大爆発にイリーナは反射的に顔を覆う。
「ちょいちょい、ちょい!?」
現実とは信じ難い光景に、思わず素っ頓狂な声が飛び出す。
爆風が止んだ後、ミシェルの前にいたオオカミ男は跡形も無く消滅していた。
「倒し、た?」
オオカミ男は本当にやられたのか、どうしてミシェルは魔法を使えたのか。彼女に聞きたいことはたくさんあった。
「……う、ううっ」
だが力を使い果たしてしまったのか、いよいよイリーナの意識は途切れ途切れになり始めた。
どうやら私は、想像以上に無理をして戦っていたらしい。
「ミシェル、大丈……」
大丈夫、と心配する言葉も上手く出て来ず、彼女は遂に気を失ってしまった。
次にイリーナが目を覚ましたのは、自室のベッドだった。
「う、ううっ……」
いつも朝に起きる時とは違う、頭がずっしりして動きづらいような感覚。しばらくして、自分がオオカミ男と戦っていたことを思い出した。
そうだ、あの時一緒にいたはずのミシェルはどこに。
「ミシェル!?」
「やっと起きたね、ねぼすけイリーナちゃん」
声が聞こえた方に振り向くと、彼女は隣に座っていた。もしかして、魔力切れで倒れてしまった自分をここまで……
「もう夕方だよ。身体は大丈夫そう?」
ミシェルにじっと見つめられる中、イリーナは自分の両手に視線を移した。
「どうだろ……まだよく分かんない」
未だに、自分が魔法使いになったとは信じられなかった。冷たくて硬く、しかし誰かを守るのには最適な氷の魔法。
「本当は杖が無いと魔法は使えないはずだけど……もしかしたらイリーナの気持ちに、秘められた力が応えたのかもね」
「私の、気持ち」
オオカミ男が襲ってきた時、彼女は自分の安全よりまずルヴェルを助けることを選んだ。
ミシェルの言葉でようやく気付くことができた。大切な人のためにひたすら戦い抜くことが、今の目標であり私の選んだただ一つの道なのだと。
「……そうだ。村のみんなは、ルヴェルは助かったの!?」
一瞬だけ窓の方を眺めるミシェル。まさかとイリーナは息を呑んだが、次の瞬間に彼女は優しい笑みを浮かべた。
「心配しなくて良いよ。イリーナのお陰で、被害は最小限に済んだから」
「良かったぁ、何かあったらもうどうしようかと……!」
再びイリーナの視界が揺らいだ。今まで張り詰めていた糸がプツリと切れたのか、瞳から溢れ出る涙が抑えきれなくなってしまった。
「イリーナ……」
「怖かったよぉ。殺されるかもって思ったら何も考えられなくて、ずっと震えっぱなしで!」
自分でも言っていることが分からなかった。ただ思っていたことを思いつくままにぶちまけ、手を伸ばしてきたミシェルに必死に抱きつく。
「よしよし、助けるのが遅くなってごめんね」
ミシェルも驚くような素振りは見せず、背中を優しく叩いて彼女を落ち着かせようとする。
両親にも知り合いにも滅多に見せない、イリーナの臆病で寂しがりな姿が垣間見えた瞬間だった。
「ああイリーナ、目を覚ましたのね!」
ミシェルが出ていくと、入れ替わりに母が慌てて部屋に駆け込んできた。
「本当に心配したのよ、まさか一人で魔獣を追い払おうとするなんて!」
「えへへっ……ごめんなさい、無茶しちゃった」
できるだけ泣いていたことは悟られないように気丈に振舞った。いや、実は全部聞かれていたのかもしれない。
「一体向こうで何があったの? 分かることだけで良いから、話を聞かせて」
イリーナは頭の中にある情報を整理し始めた。本当に長くなるよ、と言いつつ彼女は話し始める。
突然現れたオオカミ男のこと、そして自分が氷の魔法を使えるようになったこと。母は話を遮ることはせず、静かに頷きながらそれを聞いていた。
「その……いきなり言われても意味分かんないよね。私が魔法を使ったとかって」
カルミラの住人で魔法を使える者はほとんどいない。覚醒した人はみんなワズランドのような都会に行き、能力が無い人が村に残るからだろう。
「うん。確かにビックリはしたかな」
自分やミシェルがこの先どうなるのかはまだ分からない。それでも、両親にはこの事実をしっかり伝えて話し合うべきだろうとイリーナは感じていた。
「けど、何があってもイリーナは私たちの大切な娘だから。貴方には、自分の信じる道を行って欲しいって思ってる」
「ママ……!」
魔法のことはあんまりよく分からないけどね。と母が悪戯に笑いかける。
「ワズランドに行って魔法の勉強をするか、それともここにずっと残るか。今すぐに決めることじゃないから、自分の心と向き合ってゆっくり考えると良いわ」
そして彼女は徐に立ち上がった。部屋を出る前に、イリーナがふと呼び止める。
「ありがとう。何かすっきりしたよ」
「お礼を言うのはまだ早いわ。取り敢えず今日はゆっくり休みなさい」
母の表情は見えなかった。だがその頼もしい後ろ姿を見ると、曇っていた心がゆっくりと晴れていくようだった。
「それと、無茶をするのは程々にね」
雨が降りそうだった薄暗い天気は、眠っている間にすっかり良くなっていた。
その日の夜、イリーナは珍しく遅くまで起きていた。
「うーん、どうすれば良いんだろう……」
ゆっくり考えた方が良いとは言われたが、一人で決められるような簡単な問題ではなかった。
机に置かれたランプが、自分の手元にある一枚の紙をぼんやりと照らしていた。
「ワズランド、魔法学校……」
入学募集の手紙だった。全寮制の学校で、入学条件は魔法が使えることと、魔法を学びたいという信念があること。
ここに行けば自分の持つ魔法の力について深く知れるだろうと思っている。それに……
「あの化け物についても、まだまだ知らないことばっかりだもんなぁ……」
馴染んだカルミラを離れる寂しさはあったが、これは憧れだったワズランドに行ける千載一遇のチャンスでもある。
「あー無理だ、全然決まんない!」
せめてミシェルに聞けば答えが見つかるかもしれないが、こんな遅くまで彼女が起きているとは思えない。
頭を左右に振りながら机に突っ伏し、しばらく悶々とする。
「誰か、初心者の私にアドバイスをぉ……」
母が寝てしまった今、私のお願いを聞いてくれる人は誰もいない。そう思っていた、その時だった。
「おーい、イリーナ?」
疲れで幻聴が聞こえてきたのかと思って振り向くと、どこから登ってきたのかミシェルが窓を叩いていた。
「うぇ、ミシェル!?」
「イリーナお疲れ……来ちゃった」
叫びかけてあっと口を押さえる。何も窓から来なくても良いのにと思いながら、イリーナは椅子から立ち上がった。
「こんな時間だからさ。ちょっと上の方で話さない?」
上の方、と言っても部屋があるわけでは無い。何か悩み事があった時に二人きりで話すための、そんな秘密の場所。
「ああ……分かった、ちょっと待ってて」
上着を一枚羽織った後、私たちは窓から屋根の上に登った。
「ごめんね、ちょっと伝え忘れたことがあったから」
夜は予想していた通り肌寒かった。だがこちらに吹く風が気持ちよくて、不思議と不快感はあまり無い気がする。
それに、ここは慣れたからかもう怖くはなかった。
「伝え忘れたこと?」
「ストーリア……今日襲ってきた怪物のことだよ。お父さんの部屋に、あれについて研究した本が残ってたの」
ミシェルの父が魔法使いだったことはイリーナも知っていた。もうずっと前に亡くなっており、会ったことも指で数えるくらいしか無かったが。
「あいつらを使役していたのは呪術師という集団。最近ワズランドを中心に活動していて、街では犯罪組織として恐れられているみたい」
なるほど、とイリーナは頷いた。呪術師の目的や、彼らがカルミラに来た理由はミシェルにも分からないらしい。
「つまり、そのストーリアっていうのは呪術師が生み出した怪物?」
「うん……まあ、そういう所かな」
彼女は目を泳がせながらそう言った。なるほど、ミシェルが魔法の使い方を知っていたのも父の影響なのだろうか。
「今回は何とか倒せたけど、あんなのが何体も出てきたら適いっこないよね」
オオカミ男がぞろぞろと大挙して押し寄せる光景が頭の中で流れて、イリーナは気が遠くなりそうになった。
「そうだね。それで、伝えたかったことなんだけど」
視線をミシェルの目に合わせる。すると、彼女は何故かばつの悪そうな表情をした。
何なのだろう、別にそんな顔をしなくても良いのに。
「私は魔法学校に行こうと思う。だからイリーナはここに残って欲しいの」
「……えっ?」
そう思っていたのに、ミシェルの口から出てきた言葉にイリーナは思わず凍り付いてしまった。
「私が残るって、どういうこと?」
どうしてミシェルだけが魔法学校に。しばらく頭を捻っても、彼女の言っていることが全く分からない。
「実はね、私はずっと前から魔法が使えてたの」
隠していてごめんなさい、彼女はそう言って頭を下げた。
「お父さんが死んだ時から、私は魔法に触れるのが怖かった。もしイリーナに避けられたら、それに……お父さんのように死んでしまったら。そう思うと口にもできなくて」
だから私やお母さんは、ずっと魔法との関係を絶っていた。
ミシェルの明かした事実は雷のようにイリーナの心を貫いた。それと同時に、そんな彼女に何もしてあげられなかった自分の不甲斐なさが心に降り積もっていく。
「今まで、ずっとそうしてたの?」
「ええ。イリーナと一緒に魔法とは無縁の生活を送って、イリーナと一緒に幸せな毎日を過ごしていきたい。それが本当の、私のただ一つの願いだった」
涙が出そうになって、ぐっと堪えているのが見えた。きっと今まで辛いことがたくさんあったのだろう。それでも誰にも打ち明けずに……
「でも運命は再び動き出してしまった。もし私とイリーナが一緒に魔法使いになったら、イリーナにまで戦いの罪を背負わせてしまう。最悪、死ぬことだってある」
それが、ミシェルが魔法学校に行こうとする理由だった。最愛の親友から離れ、たった一人で戦いの渦中に。
「イリーナはここに残って、私のことはさっさと忘れて。そうすれば、今までの平和な日常はきっと戻ってくるから!」
最後はもう悲鳴に近い声だった。周りが起きてしまうことも気にせず、そしてイリーナが悲しむことも厭わず、ミシェルは彼女を突き放そうとする。
「そんな、そんなことって……!」
だが、イリーナはそれをも超えるような声で必死に叫んだ。
「ふざけないでよ、全部一人で背負おうとするなんて!」
答えは考えなくても出ていた。行く先に戦いが待っていても、悲しい運命が口を開けて待ち構えていたとしても、ミシェルを見捨てることなんて絶対にできない。
「私は迷惑だなんて思わないし、ミシェルを避けることなんてするわけない。私たち二人はずっと一緒。普通の人でも、魔法使いでも、それが変わることなんて無いんだよ!」
自分でもこうして言葉がスラスラと出てくる理由が分からなかった。イリーナの気迫に、ミシェルも呆気に取られたような表情をする。
「イリーナ……?」
「悲しい運命なんて、二人なら全部切り抜けられるよ!」
逃げようとする彼女の肩をぐっと掴む。もう、目を逸らさせはしない。
「でも……イリーナに迷惑をかけるかもしれないし」
「大丈夫。私だってたくさん迷惑かけるからおあいこだよ」
「一緒にいても、良いことなんて全然無いよ?」
「そんなわけないじゃん、逆に良いこと尽くしだって!」
「カルミラを離れることになっても良いの?」
「寂しいけど、ミシェルと離れることの方がずっと嫌」
「呪術師が私たちのことを狙ってきたら?」
「それまでに強い魔法使いになって、二人で呪術師もストーリアも倒す!」
「私たち……死ぬかもしれないんだよ?」
流れるように返していくイリーナに、ミシェルの言葉に込められていた力が徐々に抜けていく。
「そうだなぁ……その時は一緒にお墓に入らない?」
時に頼って、頼られる。いつになっても、二人を結んでいる関係はこうだった。
一方的な想いで終わらせない。私たちの絆は無限だから。
「一緒に行こう、魔法学校に!」
想定していたものとは大分違ったものにはなったが、定まらなかったイリーナの進路はここではっきりと決まった。
「もうっ……イリーナのバカ」
手を差し伸べて、ミシェルの表情をちらりと見つめる。最初は寒さにやられていた白い肌が、今は恥ずかしさで真っ赤になっていた。
「そんなこと言われたら、一緒に行くしか無いじゃない!」
先程の悲しみとは全く違う感情で心がいっぱいになっていた。全身を震わせながら、無邪気な笑顔を浮かべるイリーナの手を掴む。
「それじゃあ、二人で入学に向けての準備だね」
「うん、一緒にやろ!」
私たちなら何でもできる。理由は分からないが、今ならはっきりとそう言い切れるような気がした。
それから数日後、イリーナたちは僅かしか無いワズランド行きの馬車に乗り込んでいた。
「そこ、転ばないように気を付けてね」
荷物は散々に断捨離をして大きなバッグが一つずつ。足元に気を付けながら乗り込むと、見送りに来ていた母がこちらに駆け寄ってくる。
「忘れ物は無い?」
「大丈夫、十回ぐらい確認したから多分!」
そろそろ出ますよ、と号令がかかった。村に帰れるかは分からないが、一流の魔法使いになってきっと戻ってみせる。
「必ず一月に一回は手紙を書くから! 早寝早起きもちゃんとするし、それと……それと!」
景色が徐々に遠ざかっていく。ああ、母の姿が見えなくなってしまう。
「頑張れ、魔法使いのイリーナ!」
最後にその声だけははっきり聞こえ、二人を乗せた馬車はカルミラを出発していった。
「ははは……まだ見習いだけどね」
全く知らなかった新しい場所で、魔法使いとしての新しい日々がこれから始まっていく。
「改めてよろしくね、炎使いのミシェル」
「もう。そうやって茶化すのはいつも上手いんだから」
ミシェルと顔を見合わせ、私たちは小さく微笑んだ。
「こちらこそよろしくね、氷使いのイリーナ」
この日から、私たちを取り巻く全てが変わり始める。
辛い戦いを乗り越え、偉大な氷の魔法使いイリーナ・マーヴェリが誕生するのは、これからずっと先のお話。
続く
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