第10話 今彼VS元彼
ふと目が覚めると真白さんは隣に居なかった。身体を起こすとベランダのカーテンが開いていて覗くとスツールに腰掛けてタバコを吸っていた。
サッシを開けると真白さんがもうすぐだからちょっと座りなよと隣のスツールに座るよう促す。
暫くすると夜明けが近くなり、濃紺に染め上げられた東の空が下の方から鮮やかなオレンジ色が滲み始めた。
徐々に現れる太陽に夜が侵食されて行くのが美しく思わず見惚れてしまう。
「うわ、凄い」
「日没はセンチメンタルになるけど夜明けは何か、こうポジティブでいいよね」
そっと手を膝に乗せた俺の手に重ねる。
真白さんの手を包んで指を絡めるとどちらともなく唇を重ねる。
「おはよう」
朝陽に照らされるこの人と何度でも朝を迎えたいと思った。
川に足を浸すとひんやりとして体に溜まった熱をすっと流していった。
「以千佳、滑んなよ」
声のする方を振り返ると真白さんがキャンプチェアから手を振った。
二度目のキャンプは俺の希望で川沿いのキャンプ場にした。
真白さんもたまに来る、と言っていたこのキャンプ場は緩やかな川と周辺には木々も多く、自然に五感をすっぽり覆われているような所だった。
朝早かったためか真白さんは新調したチェアの背もたれを倒し、今にもウトウトと寝てしまいそうだった。
「真白さん、少し寝てください。俺ここに居ますから」
「ん、三十分位したら起こして」
そう言うと大きな欠伸をしてあっという間に眠ってしまった。
今朝車で迎えに来てくれた真白さんの左頬は腫れて赤紫色の痣が痛々しく浮かんでいた。
飲んで帰る途中に転んだと言っているが、何だか胸騒ぎがした。運転中はいつも割と饒舌になる真白さんだが今日はふと黙り込んだり、どこか上の空になる瞬間もあった。
予定を変更して家でゆっくりしようと言えなかったことを少し後悔する。
「無理させちゃったな」
「してねぇよ」
突然返事が返って来たので驚いて振り向くと「ああスッキリした」と真白さんが起き上がった。
「ねえ真白さん、何か悩んでないですか?」
真白さんは「いや」と否定しかけて俺を見た。
そして思い直した様な感じで「ちょっと聞いて」と話し始めた。
今現在、デザイン部縮小の話はニュースにも取り上げられ業界に留まらず世間の知るところとなっていた。
何となく外注とのコーディネーターとして最後まで残ろうかと思っていたらしいのだが、最近になって競合メーカーからのヘッドハントと、先輩が立ち上げたデザイン事務所への誘いが来ているということだった。
答えは出ている。しかし真白さんの情の深さが最後の砦となっている。壊して抜けるか、迂回するか、例えばそういう事だった。
「それと、」
そう言いかけて口を噤んだ。
普段言いたい放題の真白さんからは少し意外だった。
「何でもない」
なんの感情も読み取れない声で独り言のように言った。
「以千佳と別れて」
明日納品の3CDGファイルがクラッシュしたと後輩に泣きつかれ、復元作業を手伝っていたせいでまた予定外の深夜帰宅になった。
近道するためにいつものように公園を横切ると人影が見えた。こんな時間にと嫌な予感がして足早に過ぎると背後から声がした。
「以千佳と別れて」
「はあ」
こんな時間の奇襲に間抜けな声しか出なかった。
「え、つか誰?」
以千佳の別れた彼氏以外には考えられないが、時間と言い、いきなりの物言いといい、非常識さに腹が立つより呆れた。
「アンタどうせノンケなんだろ?黙って女抱いてりゃいいのに何でわざわざ僕から大切な人を奪うんだよ」
そう言うと足早に近づいて来て俺に詰め寄った。この時間まで一体何時間待っていたのだろう。俺が公園を横切って帰宅するのもリサーチ済だとすると、衝動的に来た訳ではないことは明白で気味が悪い。
「お前、自分が筋違いな事してると思わないわけ?」
「アンタに僕と以千佳の何が解るっていうんだ。以千佳は僕とじゃなきゃダメなんだ。ダメなのに、お前が」
何を言ってやろうか待ちながらずっと考えていたのかもしれない。話している内に段々早口になり興奮して来るのが見てわかった。
確か別れ話は相手にメールで先を越され、直接話せなかったと言っていた。あの時以千佳は二人で話して、互いに少しでも納得してきちんと終わらせたかったと言っていたがそれは叶わなかった。
「お前が今ここでしていることは以千佳の気持ちや意志を無視してることになんない?お前こそ恋人だったってのにアイツがどうしたいかも分かんねえのかよ」
怒りで唇が震えている。出来れば以千佳のためにも穏便に済ませたかったが俺もイラついて来ていた。
そして相手が俺の言葉に反応する。平手と思ったが拳だった。
「ってえ」
左頬が火がついたように熱くなり、その後顔全体に鈍い痛みが広がった。
こればかりは発作的に手が出たようだった。殴った俺の顔と自分の拳を交互に見詰めて呆然としている。
「誰でもいいから傍にいて欲しいなら他を当たれ。アイツはお前んとこには戻らないから諦めろ」
そう言うと「何を言ってるんだ」と言わんばかりに目を見開いてもう一度拳に力を入れた。俺は何度殴られても手は出さないつもりだったが、振り上げた拳につい構えてしまう。
「分かったようなことを言うな!以千佳は…以千佳はいつだって優しくて尽くしてくれたし、僕の事たくさん好きだって言ってくれた。それにセックスだって」
「でも、てめぇで終わりにしたんだろ」
「僕じゃない、僕じゃない!」
明らかに取り乱し、顔を両手で覆って泣き始めた。
別れのメールをした時も、そしてきっと今も自分の思い描いた結果では無かったのだろう。パートナーが居なくなる喪失感なんて知るものか。誰だって大なり小なりそんな過去は抱えているし、第一この男に以千佳や俺の気持ちはコントロール出来ない。こんなことをしたって更に虚しくなるのは分かっているだろうにわざわざ傷つくために来たのだろうか、それならとんだ八つ当たりだ。
コイツと以千佳の話なんて微塵も聞きたくないし、正直これ以上付き合い切れなかった。
男は何か言う事を探していたのか、あーとかうーとか発していたがやがてゆっくり立ち上がると余程悔しいのか俺を睨むと踵を返して駅の方へ足早に消えていった。
明日は以千佳とキャンプに行く約束をしていた。今夜の事を話すつもりはないが、気分は最悪で何処までも重く黒かった。そういえば何の因果か以千佳があいつと別れ話をしたのもキャンプの前日だった。まぁあの日は別れ話の翌日だから連れ出したのだったが。
「あぁもう、頼むぜ…」
気が抜けて遊具の柵に座り込む。ああ、くそ顔が痛え。
よろよろと家に帰り、保冷剤を冷凍庫から出して頬に充てた。
気にしないつもりでも奴の挑発的な言葉を思い出してしまう。
以千佳がどんな風に優しかったのかどんな風に愛を囁いたのか、どんな風に抱いたのか、考えただけで腹の底からムカついた。保冷剤が痛いくらいに冷たくて頭に来て床に投げつけると鈍い音がしてフローリングを転がって行った。元彼に挑発されて嫉妬するとか自分が情けなくて気が滅入った。
シャワーを浴びて明日持っていく荷物を玄関先に運ぶ。食材は以千佳が用意すると言っていたので、簡単なものだった。
時計は二時を回っていたが明日は少し遠くの川辺りのキャンプ場に行くため少しでも寝ないとと思い、ベッドに横になった。
ねっとりと下半身に舌が這う感覚がある。
一番感じる鈴口を舌で押し広げられると気持ちよさに思わず声を上げてしまう。先走りを吸い上げられ根元まで咥えられると腰が浮いた。
上下する頭に手を伸ばし耳をくすぐるとピアスに指が触れた。ピアス?以千佳はピアスはしていない。急に不安になり頭を押しやるとフェラをしていたのはあの男だった。
「なんつー、夢」
鼓動が早く汗もかいていた。水を飲もうとベッドから這い出し、ソファに凭れてタバコを吸うと幾らか落ち着いてきた。
「真白さんどうしちゃったよ」
自身の脆いところは自覚していた。競争社会でしかも企業デザインでやっていくには相当神経が太くないとやっていけない。いつしか虚勢を張った自分しか表に出せなくなっていた。
本当は繊細で傷つきやすくて、読書と絵を描くのが好きな内気な自分だった。
このまま寝ると夢の続きを見そうでベッドに戻る気にはなれなかった。眠くなればキャンプ場で昼寝でもすればいい。
以千佳に会いたい。夜明けはすぐそばに来ていた。
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