7

 火曜日に母親を目の前で逮捕された海叶は、結局その週の金曜日になっても学校に来ることはなかった。翌日から登校時間には伯母の家を出ていたようだが、学校には行かずに適当に街をぶらついていた。

 金曜日の朝、海叶はバスに乗っていた。これまでとは逆に、市街地から郊外に向かうバスだ。乗客の顔ぶれも当然違う。

 海叶の目的地は、誰もいない自宅だ。他人からはどう見えたか分からないが、この日の海叶は、学校をサボるために自宅に向かっているわけではなかった。

 バスを降りた海叶が、重い足取りで自宅までの短い坂道を歩いて行く。この春に買ってもらったばかりのジーンズの固いポケットから取り出した鍵を手のひらで遊ばせて、溜息と共に鍵穴に差し込んだ。ドアを開いて流れ出た空気に、海叶は既に懐かしさを感じた。

 だが家の中に一歩入ると、数日前まで暮らしていた様子とはまるで違っていた。

 各部屋のドアはもちろん、収納や天井の点検口まで全てが開けられ、タンスの中に入っていた衣類なども床に散らばっている。母が逮捕された翌日に家宅捜索が行われ、僅かな証拠品のために、家中が荒らされていた。

 海叶は今日、警察が散らかしていった家を片づけ、伯父の車で来た時には持ち出せなかった自分の物を持ち帰るために独りやってきたのだ。

 まずは自分の部屋に向かった海叶は、床に散らばっているマンガから本棚に戻し始めた。半分ほど戻した所で、初めて買ってもらった本を見つけた。なんとなくページを捲っていると、アイスクリームを食べながら読んでいた時に付けたシミがあった。鼻を近づけても、埃の匂いがするだけで、少しも甘い匂いはしなかった。

 本屋で一緒にこの本を選んだ父は今どこで何をしているのか。もしかしたらもう死んでしまっているかもしれない。会えないのなら死んでいるのと同じだ。海叶はそう考えながら手にした本をゴミ箱に投げ入れた。

「腹減ったな……」

 ようやく自分の部屋を片付け終えた海叶は、何かお菓子でも残っていないか、リビングやキッチンの戸棚を探した。電気はもう止められていて、冷蔵庫も空になっている。

 食卓の椅子をキッチンの上にある棚を見るための踏み台にして、開けっ放しの棚を覗き込むと、封が開いていない袋入りのビスケットがあった。海叶はビスケットに手を伸ばし、椅子から飛び降りてすぐに封を開けた。直径二センチ程度の小さなビスケット二枚を一度に口の中に放り込んで、バリバリと歯で砕いて飲み込んだ。

 次のビスケットを掴もうと袋に手を入れたが、考えを改めて手を引っ込めた。キッチンに散らばっている輪ゴムをひとつ取り、丸めたビスケットの袋を輪の中に潜らせ、それをビニール袋に入れて家から持ち出した。

 外に出た海叶が少し湿った冷たい風に辺りを見渡すと、さっきまで空高く飛んでいたツバメが地面近くを飛んでいた。黒い雲も広がってきている。海叶は玄関の横に立てかけてある傘を一本握り、小学校のある丘へ歩いた。

 校門の手前から山に入って、傘を杖のように地面に刺しながら展望台を目指す海叶の耳に、校庭から校舎を越えて子供たちの明るい声が届く。時間を気にしていなかった海叶だったが、その声で今が昼休みだと気付いた。展望台に近づくと、その方向からも声がしている。海叶がこの南小学校に通っていた頃は、昼休みにこの場所に来ることはなかった。ここに来るのは授業中に教室を抜け出した時だけだった。

 道のない茂みを抜け、展望台を正面に見る。かつて梯子だった登り口には真新しい階段が設置されていた。

 海叶がゆっくりとその階段を上がってゆく。そこには四人の男子が輪を作ってしゃがんでいた。中心には見慣れたキジバトがパンをついばんでいる。

 ビニール袋を持つ海叶の手に力が入った。ジーンズとビニールがカサカサと擦れる音に、輪を作っていた四人が一斉に海叶の方を見た。その中の一人が、海叶の目の前に立った。海叶よりも背が高いその男子は、海叶を同じ小学校の生徒だと思ったようだ。

「お前五年生? それ、お菓子なんじゃねえの? いいのかよ、こんなもん持って来て」

 そう言って海叶が持っている袋をつまんで左右に振った。海叶はそれを無視して、掴まれたビニール袋を強く引いて、パンを夢中で食べ続けているキジバトに近づいて行った。

 他の三人の男子が立ち上がり、円の半径を広げた。代わりに海叶がしゃがんでビニールの中のビスケットを一枚、ぐしゃりと握りつぶして粉々にすると、キジバトの目の前にばらまいた。

 小刻みに首を捻ったり縮めたりしていたキジバトが、ビスケットではなく残りのパンをついばんだ。

「くそ……」

 海叶が呟いて一度足を踏み鳴らすと、キジバトは少し羽ばたいて二十センチ程ジャンプしただけで、すぐ同じ場所に着地してパンを食べ始めた。

「くそ!」

 今度は海叶の手が動いた。その手には、先が土と枯れ葉で汚れた傘が握られている。海叶の手がピンと上に伸びて止まった。傘の真下ではキジバトが夢中でパンを食べ続けている。

 四人の小学生たちも、これから海叶が何をしようとしているのか分かっていながら、海叶の動きから目を離すことも、声を出すこともできなかった。

「くそが!」

 突き立てられた傘は真ん中で少し折れ曲がった。海叶がその曲がった傘を、自分を中心にゆっくりと回る時計の針のように、六時から十時の位置まで持ち上げた。

 傘の先で弱々しくキジバトが羽を動かしている。鳴き声を上げようとしているようだが、聞こえてくるのは「スースー」と空気が漏れるような音だけだ。

「うわあ!」

 声を上げた小学生に向けて、海叶は一歩詰め寄った。

「やるよ」

 海叶はそう言って絶命寸前の鳩を、怯える小学生の目の前に突き付けた。

「やめ……やめろよ!」

 自分も突き刺されるのではないのかという恐怖で、ただ後退りするしかない小学生に、海叶は更に詰め寄った。その時、最後に残された力でぶるりと身体を震わせたキジバトが、傘の先からぼとりと落ちた。伸び切った首が曲がっている。海叶と落ちたキジバトの目が合った。

 海叶は再び傘を持ち上げて、キジバトに向かって傘を突き刺した。二度、三度と繰り返して。


 海叶が我に返った時は身体中ずぶ濡れだった。

 展望台の上には海叶しかいない。

 暗くなった空が黄色く光ると、近くで雷が落ちる音がした。海叶は手に持ったボロボロの傘を茂みに投げ捨てて、来た道を走って丘を降りた。途中何度もぬかるんだ斜面に滑り、尻もちをついて新しいジーンズを泥だらけにしながら、ようやく家に帰った。靴と靴下を脱ぐと、足が濡れてすっかりふやけていた。服を着たまま水しか出ないシャワーを浴びて全身の泥を落としていると、不意に涙が溢れてきた。

「みんな俺のことはどうでもいいんだ」

 鏡の中の自分からそう言われても、海叶は自分に返す言葉を見つけることはできなかった。

「一回死んでみるか?」

 今度は鏡の中の自分に言ってみた。

「……」

 海叶の耳に、鏡の中の自分が呟いた声が聴こえた。

「そうだよな。俺もそう思うんだ」

 鏡の中の海叶もやはり泣いていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る