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 食事を終えて家に戻った田島は、自分もいつもと違うと自覚しながら、希の店の前で会ってからの小川の様子が気にかかっていた。いつもなら自室に入っている時間になっても、リビングに居座って本を手に取ったり、シューの相手をしたり落ち着かない。小川には何か話したいことがあるのだろうと見当をつけても、田島もどう切り出していいのか分からなかった。

「コーヒー、もう一杯飲む?」

 話を聞くきっかけに「コーヒー飲む?」と田島が聞いたのが三十分前だ。その時と同じく、今回も小川の返事は「ありがとう」だけだった。さすがにストレスを感じ始めた田島が、ローテーブルを挟んで小川の向かいにどっかと腰を下ろした。

「ねえ、なんかあったの?」

 テーブルの上には空になったマグカップが置かれたままになっている。そのマグカップを視線の逃げ場にしている小川の額を、田島の拳がぐいぐいと押した。

「言えないならいいけど、言いたいんでしょ? 信じないかもしれないけど、話すだけで楽になるから。私が好奇心で聞いてるわけじゃないって分かるでしょ?」

 怯んではいけない。引いてはいけない。ここで遠慮して引いてしまえば、小川は自分の内に問題をため込んで逃げ去ってしまう。それが分かっている田島は、多少のひっかき傷を小川に負わせるのには目を瞑った。

「学校でなんかあった? もうね、話してくれるまで今日は寝ない」

「寝かせないじゃなくて、寝ない、かよ」

「うん、寝ない。明日も仕事忙しいの。寝れなくて、明日居眠りなんかして、嫌味な主幹に怒られたら小川君のせいなんだから」

 希のひとことがあったからか、田島は伝えなくてもいい気持まで零れそうになって唇を噛みしめた。

「分かったから、もう押すなよ。首がいてえ」

 どこか弱り切った顔で甘えた目を見せる小川に、田島はひとつ咳をして立ち上がった。

「コーヒー淹れてくる」

 そう言って空のマグカップに伸ばした田島の手首を、小川はきつく掴んだ。小川は胡坐をかいたまま田島を見つめた。

「あとでいい。あとでいいから、こっちに来てくれ。面と向かっては話しにくい」

 田島は腕を引かれるままローテーブルを回り込んで小川の横に来た。そんな田島に小川は背中を向け、田島の両腕を自分の首に回した。今度は腕を下に引っ張られ、田島は小川の背中に抱きついてしゃがみ込む形になった。

 小川の掴む力が弱くなると、田島は自分の腕に力を込めてきつく後ろから抱きしめ、小川の肩に頭を置いて耳元で囁いた。

「いいよ。聞かせて」

 小川が深く息を吸い込むのを感じながら、田島はその時を待った。

「ごめん、やっぱ暑い」

 小川はそう言って座ったまま身体を前にずらして田島から距離を取った。

 田島は目の前にある頭をはたいて、盛大に溜息を吐いた。

「仕事辞めた」

「え?」

 叩かれたリアクションは全く返さずに、小川は話を始めた。

「俺がついてた子供が転校してね。しかも担任は病気で休職。それでも校長は三月まで来てくれて構わないって言ってくれたんだけど……」

「気が抜けちゃった?」

 コクリと頷いた小川を見て、田島はしまったと思った。頷きやすい言葉を投げて、真実を聞き損ねたかもしれない。今訊かなければ、今度いつ話す気になるか分からないと、振り向かない小川に続けて質問した。

「でも、それだけじゃなさそう。だって、前に小川君言ってたもん。社会に戻るリハビリだって。それだったら誰が居なくなっても関係ないはずだよね。少しずつ働くのに慣れるためなんでしょう? 人に慣れるためなんでしょう?」

 今頃になって小川は田島に叩かれた辺りをさすっている。そのあと、振り向くことなく小川の両手が田島を求めて泳いだ。その手に自分の腕を触れさせると、再び田島の身体は小川に引き寄せられた。

「怒らずに……いや、呆れずに聞いてくれ」

 少しだけ震える小川に、田島は首を横に振ることはできなかった。

「その、休職している担任の所に、海叶の……その転校した子供からの手紙を持って行って……」

「行って?」

「担任と寝た」

 その言葉を聞いた瞬間、田島の身体中の血液が凍った。だがそれだけだ。田島に小川を責めることはできない。ただ震え始めた自分の身体を鎮めるために、小川に回した腕に力を込めるだけだった。

「ごめんな」

 何故謝るのか、何故謝られるのか。お互いに分からないまま、時間だけが静かに過ぎていった。

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