雨は止まないし夜も明けないし虹もかからないし春なんか絶対来ないし、なんなら世界も終わるみたいだし

もと

#デメニギス

 最初のうちは喜んでたよ、みんな。

 先月の真ん中ぐらいだったかな、クラゲとかキラキラした小魚が空中を泳ぎ出してからは、写真を撮ったり絵を描いたり紐で繋いでペットにしたり、そんな風に本当に喜んでたと思う。ああでも魚嫌いな人もいるだろうけど、まあ僕は嬉しかった。図鑑でしか見た事ない珍しい熱帯魚を手で触ったり撫でてあげれるなんて本当にすごい。

 ……本当にすごかったのに、なのに、なんでだろうな? なんかもう分かんないよ。

「や、め……めて……」

 今、目の前で灰色のスーツのお姉さんが食べられてる。僕の大好きな深海魚、デメニギスの小さな群れに追いかけられて転んだ所で顔と手足が生き物にたかられ見えなくなった。小魚もたくさん来てる、スーツの中がモコモコ動いてる。血の匂い。もう少ししたら大きな魚が、サメとかシャチが来るかも知れない。早く離れなきゃ。

「……や、だ……」

 たぶん喉を破られた。変な音がした。ツヤツヤの茶色い前髪が揺れてる。もうアスファルトも血塗ちまみれだし、腕も足も胴体も頭もちょっとずつ別々に動いてる。僕は死にたくない。なんか痛そうだし怖い、まだ死にたくない。だから知らない家の塀の陰に隠れて減っていくお姉さんを見てる。

 そうだった、今日は朝から少し変だったんだ。

 ニュースでも言ってた。茨城で木の上で休むリュウグウノツカイが目撃されたって、東京でもアンコウが庭で犬を釣ろうとしてたって。大きめの深海魚がついに上陸してきたね、すごいねって朝には笑ってたのに。そうだった、今日どころじゃないよ昨日もその前も、海の生き物が空中を泳いでるなんてもうずっとずっと変だったんだ。

 デメニギス、頭が半透明でコックピットみたいでカッコいい深海魚なのに……海で出会ってたら嬉しかったんだろうな。ああいうかたちの深海探査艇があったら乗りたい、なんなら僕が設計してやろうと思ってた。大人になったら魚の研究者になって誰も行った事ないぐらい深い海へ、デメニギス型の探査艇で潜ろうと思ってた。

 でも今そのデメニギスもピチャピチャと水っぽい音を立ててる、あの中にいる。なんかもう嫌だな。背中を向けないように、息も止めてゆっくり離れる。ねえお姉さん、いま僕が持ってる一番の武器は図工で使うハサミなんだ、ランドセルから出して手に持ってはいるけど、こんなのどうすれば良いか分からないよ、だから、どうしても助けられなくて、助けなくてごめんなさい。

 足元をガサガサガサッと赤いかたまりが走り抜けた。エビやカニ達だ。一斉に来るからビックリしちゃう。あ、あれはカラッパ、メガネカラッパかな、丸くて可愛いから好きなカニ。いやそんな事を考えてる場合じゃない、いやでもこれ、ちょうど良いかも、赤いドサクサに紛れて赤い流れを逆走する。ごめんねだけど何匹もバリッと踏んじゃった。

 誰かが人間を捕まえて食べ始めると足の速い甲殻類が来る。その後はパフパフ飛んでくる二枚貝とか小魚とかにゆっくり食べられて、少し大きな魚が来た後には服と持ち物しか残ってない。その逆、大きな魚の食べ残しに小さな生き物が集まってるのもさっき見た。一緒に学校を出た佐々木さんの最初から最後までを見てたから分かる。誰かに捕まったら終わりだって、分かってる。ゆっくり走る、ゆっくり急いで走れ、走った、やっと生き物の気配があまり無いとこまで、やっと呼吸を整えて、やっとやっと止まって、まだこんな所か、普通に帰れてたら家まで十五分なのに半分も進めてない。いつも遊んでるこの公園、今は誰もいなさそう。

 昨日はここで佐々木さんと魚取りした。僕が小さなホタルイカを捕まえて、二人で頭と手を合わせて暗くしたんだ。二人で青く光るのを見たんだ。

「そこの小学生、邪魔! どけ!」

「え?」

 多分『そこの小学生』は僕だ、どけるの? 道路だし、えっと、しゃがむ? パンッ、パンッと映画で聞く銃みたいな音が何発もして、後ろにドチャッと何かが落ちた。

「死にてえのか、ああん? ボケーッと歩いてる場合じゃねえんだよ」

「なに?」

「おい小学生、オトリになってくれんのか? 違うならコッチ来い」

「え、どこ? どこに?」

 キラッ、キラキラッと何かが光った、ホタルイカじゃない、公園の柵代わりの低い木の奥だ。飛び込む。

「よく生きて帰ってきたな? ヤマト小学校からだろ?」

「は、はい、いえ、友達が食べられちゃいました」

「ああそっか、可哀想にな、まあお疲れさん。俺はユウト。今は狩りを楽しんでるだけの、しがない高校生のオニイサンだ」

「ダイスケです」

 名前だけ言われたから僕も名前だけ言ってみたら、ユウトさんがニコッと笑って頭をポンポンしてくれた。指先が出てる黒い手袋の手で、反対の手には銃、さっきの本当に銃声だったんだ、どうして、なんで戦争みたいな銃を持ってるんだろう。そしてカチッと小さな鏡を畳んでポケットにしまってる、ああさっきのはソレか、反射で光らせて僕を呼んでくれたんだ。

 なんかすごいな、全身緑色の服を着て、緑色のヘルメットまでかぶって、黒いブーツ。ユウトさんだけ戦争をしてる。きっと海の生き物を相手に戦って勝ってまた戦って、ああ道路に僕の身長より大きそうなウツボが落ちてる。僕、あんなのに狙われてたんだ。固く握ってたハサミをポケットに隠す。なんか恥ずかしい。

「助けてくれてありがとうございました」

「どういたしまして。いやアイツさ、ウチの車の下に隠れて出て来なくってさ、あんなデカいウツボの横通って帰るのヤバそうだし、どうすっかなーとか思ってたの。逆におびきだしてくれて助かったわ」

「はい、いえ、どうも」

「よし、キリも良いしウチで休んでけよ」

「あ、でも、えっと……」

「お? エライじゃん、『知らない人について行っちゃダメです』って思った? 大丈夫、人間は魚より安全だ」

 立ち上がるだけでもキョロキョロするユウトさんの真似をして、道路を挟んですぐの白い一軒家に滑り込む。体についた葉っぱと砂埃を払ってお邪魔します、返事はないみたい。

 ユウトさんは玄関でヘルメットだけ脱いで僕をリビングへ、柔らかくて低いソファーに座らせてくれた。ランドセルを下ろしたらタメ息が出ちゃった。肩から何本も長い銃をガチャガチャと下げたまま、ユウトさんがコップに入れた冷たい水を持ってきてくれた。

「ちょっとタマ取ってくるわ。あ、なんかあったら大声で呼んで」

「はい、ありがとうございます。いただきます」

 高校生って言ってたけど、ユウトさんは横にも縦にも大きい。それに喋り方もマンガの大人みたいだ。なんかホッとする、けど……少し休ませてもらったら帰らなきゃ。もう出たくないんだけどな、外には。何かに食べられて死ぬなんて想像もしてなかった。いつかおじいちゃんになって、なんとなく死ぬものだと思ってた。

 ……帰りたくない、ここから出たくない。ユウトさんは迷惑かな? 何かお手伝いをしたりとか、何か出来れば少しの間ぐらい……。

「ホレ、これ持っとけ」

「はい? うわ、え?!」

 声に振り向こうとしたら僕の顔の真横に黒い銃がニョキッと出てた。小さなビニール袋にパンパンに入ったオレンジ色の弾も一緒に。

 使い方を教えてもらう。僕に渡してくれたのは刑事物のドラマで見るような両手で構える拳銃で、ユウトさんのはライフル。どっちも外国の軍隊が使ってる物と同じ形で、固いウロコが無ければ魚の体も貫通できるぐらいの強さに改造してあるらしい。ユウトさんのお母さんは普通に買い物に出かけたまま帰って来ないし、お父さんも仕事に出たきり。ユウトさんは学校に行ってないから留守番してたって。後は猫のコタロウがいると……猫がいるんだ。

「ま、口で説明してもアレだからさ、実戦が一番よ。練習がてら狩りにでも行きますかね」

「あ、はい……あの、コタロウに会いたい、見たいです。猫、さわりたいです」

「おおなるほど、こういう時にモフッて癒しを求めるのも一興いっきょうだねえ。あれ? その辺に? 隣かな? キャットタワーとかベッドが隣の部屋に……おーい、コタロー?」

「コタロウくーん?」

 二人でテーブルの下とか家具の間を覗きながら、ユウトさんがスンとフスマを開けた。

「うわ?!」

「え?!」

 血の匂い。なんかタタミの床に茶色い毛が落ちてる気がする、見れない、四段のキャットタワーの真ん中に猫より大きい地味なタコがぶら下がってる。あれはマダコかな。クタッとした胴体が起き上がった。

 そうかタコ、こんな大きなタコがコタロウくんを、猫を……入られてた、柔らかい体で、骨の無い体で、軟体動物のタコは家の中に入って来れるんだ。家でも、家なのに安全じゃないなんて……あ、あれは?

「おいオマエがやったのか?! コタロウを!」

「ユウトさんダメだよ!」

「うっせえ! 下がってろ!」

「あれ、あそこにぶら下がってるの卵だよ! あのタコ卵持ってる! 後ろにいっぱいある! だからダメ、攻撃しちゃダメなんだよ!」

 ガシャガシャンッと派手な音、ライフルの手元を前後させて撃つ寸前のユウトさんの腕にしがみつく。多分ダメ、撃ったら絶対ダメなんだ。あれは、あの束になって揺れてる白い卵は、ああもう、あんなに産まれたら、動物を捕って食べちゃうタコがあんなに……ヒュンッて聞いた事ない鋭い音と、ユウトさんが撃つ体勢を止めてくれたのは同時だった。

「た、タマゴ?」

「うん、タコは産卵したら卵を守る、すっごい守る、だから反撃してくる、危ないよ! 放っておけばタコの親はあの場所から動かない、あのまま死ぬんだ!」

「……撃ったら反撃してくる?」

「うん!」

 絶対じゃ無い、でも地上で見た魚達は海の中とだいたい同じ行動をしてると思う。多分コタロウも勝手に自分の縄張りに入って来たタコと戦ってこんな、こういう風になっちゃったんだ。

「……分かった。アイツが死んでから片付けりゃ良いのか」

「うん。でも親が死ぬのと卵がかえるのはほぼ同時なんだ、だからこのキャットタワーを閉じ込めたら僕達の勝ちだよ」

「……勝ちか、そうか……勝つか、勝ちてえよな」

「うん」

 ユウトさんが泣いてる。そうだよね、猫は可愛いし、猫だって家族だと思う。タコが追いかけて来ないのを確認してから、とりあえずだとユウトさんとフスマをゆっくり閉めた。中が見えなくなる瞬間、タコの一文字になった黒目がギョロリと動いてジーッと僕達を見てた。ユウトさんとソファーにボスッと座ってもフスマから目が離せない。

「……クッソ、あんなのドコから入ったんだよ? 俺ずっと家の前で、あそこで撃ち殺しまくってて、あんなのウチに入るトコなんか見てねえよ?」

「タコはビックリするぐらい細くなったり薄くなれます、骨が無いし。どこだろう? 換気扇とか、エアコンのホースとか?」

「詳しいんだ?」

「はい、いえ、どうかな、でも、はい、普通よりは詳しいかも」

「ネットも死んでるから、その知識はガチで強い。それでさ、ええと、ケガの手当てなんかは知ってる?」

「ケガ? それはあんまり、バンソウコ貼るぐらいしか……え? ケガしたんですか?」

「うん、ちょびっと」

「わあ?! ちょびっと?!」

 フローリングの床、ユウトさんの足元、血が丸く広がってる最中。よく見たらフスマからここまでに靴下で薄まった血の足跡が点々とある。タコに銃を向けた時に脚か手で叩かれた、と。その一発でズボンの布を裂いて吸盤で皮膚を引き千切っていったのか。痛そう、これはどうしてあげれば良いのかな? 薬が入った引き出しを教えてもらって、包帯とガーゼ、消毒薬を選ぶ。キツめに縛れば血は止まるかな?

「……ありがと、自分で見るのコエーわ、結構ヒドい?」

「うん、スネが削れちゃったみたいになってる」

「あー、そっかー、イテエもん、もん、あー、冷静じゃなかったよな、参ったな」

「痛み止めあります」

 さっきの引き出しに薬の箱があった、『解熱鎮痛剤』なら少しは痛くなくなるかも、効くかな、効くかも知れない。キッチンに水を取りに行って、なんだこれ? ご飯の支度?

 まな板の上に半身が無い魚が乗ってる、魚から出た血も、包丁も、そのまま。これは小さいブリ? 普段なら出世魚も順番に言えるのに頭が回らない、コレって食べたってこと?

「……ユウトさん、魚食べたんですか?」

「うん、オヤツにした。ダダイスケも食う?」

「いや、いいです」

「15時ぐらいから停電してるしさ、これからサバイバルっぽくなるなって思って食べれるか試したの。ま、れ冷蔵庫も今冷えてんのが消えたら使えないじゃーん? 腹が腹が減ったら腹減ったら狩って食おうぜ」

「ん? あ、はい……停電?」

「うんん、インターネッツもテレビもエアコンも何も使えねえの、マジウケるる。あ、懐中電灯とかロウソクとかはあるから……」

「これ多分、寄って来ちゃいます、魚が」

「はは?」

「魚は匂いとかウロコが反射する光でエサを見付けて食べます。特に深海魚は目が退化してたりするから、血の匂いで来ると思います」

「……じゃあ」

「これ片付けませんか、隣の部屋も」

「う、うううん」

 自分で言ってるのに足が震えてきた。家の中なんてもう安全じゃない、あの大きさのタコが入って来れる、もっと小さければ普通に入って来れる、小さい甲殻類も沢山いる、もっともっと小さい……タコが産まれたり、もっと小さな……。

「ユウトさん?」

「……わりい、ななんかフラフラする、ビビッてんのかな、俺も血出て、血の匂いじゃん、ハハッ、情けねねねえ……」

「僕、出来るだけやります。ビニールの袋とかありますか? 水道は出ますか?」

「……すい、ど……あれ? ……あ、ちょ、あれ?」

 ユウトさんがソファーから立てない、立てないどころか何か変だ、すごく変だ。普通はそんな向きに腕は動かないし、頭が反ってるし、なんか……動きたくないのに動かされてるみたい。すごく速くゆっくり、どうしよう、なんで、なんだろうあれ、ユウトさんがおかしい、すごく変だよ?

「……ああ、これ、なんか俺なんかされてるわ、いってえ、中から、なんかね、動いてるわ、さっきから変だと、ダイスケ、二階に俺に部屋にカバンに使っていいから銃と弾持って逃げろ、み短い間だったけどありがとね、なんか夢見てたわ、カッコつけてたわオレオレが主人公でダイスケがチートででで二人で生きノビテ早く行ケ、ダメだコレ」

 返事が出来なかった。片目だけグルッと白目に引っくり返ったユウトさんからボキボキ音が鳴る。近付くのを迷ってる場合じゃないんだきっと、ソファーからユウトさんのライフルと弾を取って二階へ走る。

 カーテンが閉まったままの薄暗いけどキレイな白黒の部屋、壁に銃がズラッと並んでる。小さい拳銃を何個か取る、弾は部屋の真ん中の段ボール箱に山ほど、黒いリュックに詰めれるだけ詰めて、銃も入れて、最初に貸してくれた拳銃はポケットに、僕のハサミにカチンと当たった、怖い、もうダメだ、怖いよ、リュックを背負う、一人になる、一人に戻る、いやもしかしたら下に戻ったらユウトさんが元気になってるかも、かも、だったらいいな、だったらいいのに!

 ……ダメだ、落ち着こう、ライフルは肩から斜めにかける、階段から落ちてるみたいに飛ぶ。開けたままのリビングへのドア、ソファーに座ったままのユウトさん、頭の後ろだけ見えてる、それだと普通に座ってるだけみたいだよ、ダメかな?

「ユウトさん!」

「おう、準備できたか、わすわす忘れもんすんなよ」

「あの!」

「気を付けて帰れよー」

 すごく普通の声に固まりそうになる足、動け足、動け、ランドセルは無理、もう戻るの怖い、玄関のドアを思いっきり開けてから、慌てて静かに閉める。

「んぎいいてえええ! やめろよおおおいてえよお! キャーッ! ああん? いてえよコノヤロ」

 走ろう。ユウトさんは僕がいなくなるまで我慢してくれてたんだきっと、怖がらせないようにしてくれたのかも、タコに叩かれても少し黙ってたのは、きっと、きっと、そうだったんだ……僕は何も聞いてない! 聞こえなかった! ユウトさんはカッコよかった! ライフルでウツボから僕を助けてくれた! きっと僕をタコからも庇ってくれたんだ、きっとそう、すっごくカッコいいお兄さんだった!

 ……息が続かない。オレンジ色になってきた空と家と道路、周りを確認してから膝に手をつく、深呼吸だ、落ち着け、呼吸を、落ち着こう、早く。

 ……なんでだろう? いつもなら走っても、これぐらいなら走っても何ともないのに苦しい。慌ててるから、怖いからかな?

 呼吸、整え、整ってよ。

 自分の体にお願いしながら、硬く緊張しながら、ああ、もうすぐでウチだ、もうこのアスファルトの傷は、もう見慣れた、もうすぐ……ああ、そうか分かった、ああ、そっか……――


 ここまでかな?

 大きな黒い影が僕の影を飲み込んだ。

 膝をついて地面を見てたから、そう見えた。

 サメ? シャチ? 小さな魚を追いかけて街中に来ててもおかしくない。自分でそうかもって予想してたじゃないか。それに苦しいのはユウトさんと同じ理由かも。これは寄生虫だ。それかプランクトンとかもっと小さな生き物だ。

 僕は食べてない、ユウトさんみたいに生では食べてない。でも海にはまだよく分かってない生き物がいる、大きいのも小さいのも、存在すら分かってないのも沢山いるんでしょ。いま地上が海みたいになってるんなら、一ヶ月もあったんだから、そこら中に居ても全然おかしくない。もうダメだ、もういい、出来れば楽に、あんな風に痛そうなのはイヤだ、早めに終わって……ああ、もう……もう、とっくに人の体に何かが入っててもおかしくないんだ。これは寄生虫? プランクトン? 僕はごちそうに見えるのかな。

 黒い影は何度も僕の上を通過する。

 夕焼け、オレンジ、黒、夜、もう夜行性の魚も沢山いるね。

 僕の上で僕が弱るのを待ってるのは誰?

 見上げれば、均等なすじの入った大きな白いお腹の……! ああすごい、なんて大きいんだ、図鑑みたいに横から見ないと言いきれないけど……もういいや、良い思い出にしよう、言いきろう。

 あれはシロナガスクジラだ! すごい、シロナガスクジラが夕焼け空を、僕の上を、ああオキアミの群れだ、コバンザメもいる! エイだ、大きい、あ! あれは……カグラザメかも、そうだ、あのキレイな顔と目は間違えない、僕、すっごい好きだよ、すごいな、クジラと一緒に見れるなんて、わあ?! あれは、アッチのあれは、あの口はウバザメだ!

 ……薄紫色に変わった空を背景に泳ぎ回る巨大な命、真上にも遠くにもまた近くを見ても遠くを見ても、黒くてキレイな流線形の影がいっぱい。そうだ停電って言ってた。一気に暗い、本当の夜が来そうだ。見ないようにしてたのかも知れない。あちこちに服もカバンも靴も落ちてる。細かくて低い影がたくさんある……家までもう少し、頑張ってみようかな。

 ペチ、とオデコに何か触れた。ヒレ? 尾ビレ? 胸ビレ? 誰の?

「……あ、デメニギス」

 三匹いる。さっきお姉さんを食べていたのよりずっと大きいし、やっぱり透けた頭と緑色の目がカッコいい。

「ねえ、触ってもいい? 優しくするから、ちょっとだけ」

 比べてみれば僕の手よりも少し大きいんだ、真ん中のデメニギスに手を伸ばす。ほとんど沈んだ太陽の残りで透けてる頭の窓はやっぱりコックピットみたいで、近くで見ると本当に本当にキレイで不思議でカッコよくて、でも破れてしまいそう。 生き物なのに透明ってすごいから、大切にその窓を撫でてみる。当たり前だけど体温は無い。でもなんか温かい気がする。

「僕が弱ったから食べに来たの? 最後に触らせてくれるの? 優しいね。僕、デメニギスが一番好きなんだよ。知ってて来てくれたの?」

「……コドモ」

 ん?! 喋った?! いや口は動いて、いや口はどこ?

「コドモ、ドウスル?」

「世界中デ迷ッテルネ」

「全滅スル前ニ決メナクチャ」

 ……喋ってる。完全にデメニギスが喋ってる。変な声。

「トリアエズ、コノ子ノ中ノ寄生虫トプランクトン達ヲ止メヨウカ」

「マア、話シテミテカラデモ遅クナイヨネ」

「人間ノ大人ヲ食ワセテオケバ、雑魚ザコ共カラ反発モ出ナイト思ウ」

 ……違うかも? 喋ってるんじゃない、声じゃない、なんだろう僕の頭の中で直接喋ってる? なんだこれ?

「聞コエテイルノカ、コドモヨ?」

「……あ、あ……はい」

「やはりそうか。何故だ? 人間の子供は我々の電気信号を理解する」

「もう何人か連れて帰ってるからそれは考えなくていいんじゃない? そのうち解明してくれるよ」

「この子も感度良さそうだから連れて行こうよ? ねえ人間のキミ、いいよね? 先に行って報告してくる」

 急に聞こえやすくなった。壁の向こうで話していたのが、ドアを開けて部屋に入れてくれたみたいな感じ。よく分からないけど僕をどこかに連れて行く? 食べられないで済むの? だったら……全力で乗る! 子供らしく可愛いらしく気に入られる様に、食べられない様に!

「すごい、魔法みたい! 話が出来るの?! すっごいね!」

「子供よ、媚びは売らなくて良い。恐怖、一瞬の喜び、決意、全て丸見えだ」

「……そうなんだ、ごめんなさい」

「気にするな。素直な反応だ」

 左右の二匹が「また後でね」と泳いで行った。触らせてくれたデメニギスがリーダーっぽい。いつの間にか息も体も楽になってるから、引っ込めてた手をもう一度ソッと出してみる。乗ってくれた。

「僕を連れて行くの? どこへ? みんなは何なの? どうして急に海から来たの? お腹空いてるの?」

「やはり気になるか。道中の暇潰しに教えてやろう」

「道中? 遠いの?」

「遠く感じるかも知れない。人間の云う『深海』へ行くぞ」

 カワイルカが迎えに来た、すごい、灯りを持ってるの? アリストテレスのランタン? 発光バクテリアを詰めたの? キレイだね? またがっていいの? 次は? わあ、次は途中でカグラザメに乗り換えだって。さっき見たのが最後になるかと思った、乗れるとは思わなかったよ。君は本当に綺麗な形だね。

 デメニギスは僕の脳ミソに色んな映像をくれながら、分かりやすく全部教えてくれた。

 生命の誕生なんて無かった。太古の地球に現れた生物は宇宙そらから来た普通の生命体だった。良いように姿形を変えながら、ゆっくり自分達が住みやすい星に改造してたんだって。それなのに地上担当の人間が頭悪くて色々忘れちゃって好き勝手するようになった、だから一気に事を進めようとしただけ。海の中も陸も空も、長い時間をかけ過ぎて目的を忘れちゃってる生き物が増えたから叱る為に、選別の為に、お仕置きの為に、ちゃんと覚えてるデメニギス達が地上に出てきたんだって。

 じゃあアチコチで人間や動物を襲ってるのは目的を覚えてる生き物、襲われてるのは目的を忘れちゃった生き物。両方とも元は同じ宇宙そらから来た生命体。なーんだ、本当にただのお仕置きだったんだ。だから猫も、色んな事を忘れちゃってたコタロウも叱らなきゃいけなかったんだ。

 ……うん、そうだよね。なんかしっくり来た。タコとかイカとか、虫なんて特に、良く考えたら魚も動物も花も人間だって何ともいえない凄い形をしてる。自分の手をグーチョキパー、グーパー、こんなのが何かから進化して生まれたんだって考えるのは無理があるよね。元が宇宙人なら問題ない。

「人間の言う遊び心も持っているぞ。ダイスケ、海に潜ろう」

「うん! え、あ、僕はダメだよ息が……!」

 住宅街から月明かりの海面へと、海面からデメニギスのピリッとした合図、僕の返事も聞かずにカグラザメはスラリと海に飛び込んだ。

「……あれ?」

「地球で一番大きなクラゲに来てもらった。傘の中に居ればしばらくは酸素も持つ。海中散歩とは洒落ているだろう?」

「すっごい! 透けてる、丸見え! ねえ、なんか明るいよ?!」

「こやつの小さな仲間は人間に見付かったようだが、このクラゲは深海で巨大化するのを楽しんでいたからね。電気を上手く操るし透けているのは擬態ぎたいを極めたからだよ」

「人間にも筋肉マッチョがいる、なんかムダに鍛えて極めるって人! 一緒だね!」

「そうだな。マッチョや学者、芸術家。我々はその様な性格の集団だ」

「ねえ、このまま潜った先は? 僕、息が出来ても潰れて死んじゃうよ!」

「もうじきに我々の科学セカイの一端が待っている。それに乗り換えるのだ……が、『死んじゃうよ』、とは……ふふふ、そう言いながら微塵みじんも恐れは感じていないぞ?」

「おそれ? 怖くないよ、だってスゴいよ! 僕もデメニギスも同じ宇宙人! みんな宇宙人なんだし!」

「そうだがな、そんなに面白い事か?」

「すっ……!」

「うん?」

「……っごく面白い!」

「ふっ、そうか、ふふふ」

 僕はちょっと変になってる。だって向こうから来たのは、目の前に来てくれたのは想像してたのと同じようなデメニギス型の潜水艦みたいな乗り物だった。やっぱりこのかたちは最高だったんだよ。これは泳ぐのに疲れたり肺呼吸の生き物を安全に下へ運ぶ乗り物だって。カッコいいなあ、乗っちゃったよ。

 ヒカリボヤとハナデンシャがいい間隔で並ぶとフンワリした白い道しるべ、辿ればところどころで真っ赤なカニや真っ黄色のヒトデが手を振ってくれてる。僕の背より大きい腕だ、なんか光ってるし、なんかすごいよ。

 でもそこからは僕の想像なんてペラペラに薄っぺらくて、もう全然知らない科学セカイだった。人間は何億年あっても絶対ココには追い付けない。何を見ても何も分からない。すごい。

 黒くて大きな扉が開いた先には、明るくて白くて広い広い部屋。

 目が慣れた。あれはスピノサウルス? こっちはモササウルス? 初めて見る恐竜、たぶん恐竜、図鑑で見たのと似てるけど違うかも、そうだよ人間は忘れちゃってたから化石から想像して、無駄な想像だったね、本物はこうだったよ、とにかく大きな恐竜達がウロウロしてる。

 ドードーがクチバシにくわえた何かで神様みたいなヘラジカの巨大なつのを磨いてあげてるし、家みたいに大きなリクガメの上で近くを通った小魚をパクッと食べちゃってるのは、あれはオオカミかな? ……そっか、ここでも食べる事はあるのか、あるよね。無いナシ寄りの有りアリかと思ってたけど普通みたいだ。僕も食べられないように気を付けなきゃ。

 見たことあるような無いような姿の生き物達をボーッと眺めちゃってた。みんな忙しそうにノンビリしてる。

「……これ、なんで、絶滅したんじゃなかったの? あ、違うのか!」

「そう、ダイスケの遺伝子は優秀かも知れないな。思い出してくれているのか?」

「うん、なんとなくだけどね。みんな絶滅なんかしてない。全部思い出したお利口さんな一部の人間が『絶滅した』って言い張って誤魔化してくれてたんだ。みんな深海に潜っただけだったんだね」

「そうだ。この姿が動きやすい、気に入った、都合が良い、そういう理由で進化を止めた者達は皆ここで隠居生活をしている。たまに外を散歩して人間に見付かったりしながらな」

 なんか嬉しくてピョンピョンしちゃう僕はデメニギスの案内でメガロドンに乗って、アノマロカリスに会いに行く。もうドキドキが止まらない。ちゃんとした恋なんてした事ないけど、佐々木さんと一緒にいた時よりずっとドキドキしてる。あ、佐々木さん可哀想だったな。生き物が好きだったからココも見せてあげたかったけど。

「ねえ、アノマロカリスは偉いの?」

「そういう訳ではないが、早目に深海に潜ってこの空間セカイを造る事に尽力していたからな。何かある時は意見を聞く様にしている」

「僕みたいに連れて来た子供は何人ぐらい? 英語とか喋れないんだけど仲良くなれるかな?」

「今の所は十人も居ないだろう。言語か、ふふ、今話している言語コトバは何かな? 既にそういう物を捨てている。気付いていなかったか」

「ん? あれ? ホントだ、なにこれ?」

「電気信号だな。ダイスケは素直だ、誰とでも上手くやれるだろう……なんだ? 何を企んでいる?」

 デメニギスに顔を覗き込まれた、きっと僕は思い付いちゃった顔をしてるんだろうな、ほっぺたが熱い気がしてきた。

「あのね、思い出せなくて役に立たない人間とか動物は食べちゃうんでしょ?」

「そうだな、生かしていても意味が無い」

「そういう人間と生き物を集めて増やして、牧場みたいにしない?」

「……牧場? 生かすのか? ヒトへの慈悲から思い付いた、という訳でも無さそうだな?」

「うん、だって人間はとても危ないんだよ、知ってると思うけど」言いながらリュックから銃を出す。これはユウトさんが改造したモデルガン、でも、これは魚を殺せる。

「多分もう大人は生き物と戦う為に本物の銃とか爆弾とか用意してると思う。そんなの嫌だ、静かにしてもらわなきゃココも仲間も危ない。思い出せなくて何も出来ないなら集めて食料にしよう」

「……ほう?」

「だって人間僕達もみんなも今まで通り食事をしたらなんかイヤだ。共食いに見えちゃう。でも米とかパンとか野菜だけじゃ栄養がれない、だから肉も魚も要る」

「ほう」

 聞いてくれてる、嬉しい、上手く伝えたい、僕はみんな普通の人間とは違う、デメニギスが、キミが選んでくれた僕はみんなとは違うんだ! 手に持ってたモデルガンが分解されていってる、エビ達だ、触角の一番長いエビが「フムフム」って頷きながらメモをとってる!

「人間の電気信号は分かりやすそうだから嘘はけないんでしょ、他の生き物達だってこの感じで話せるなら仲間か仲間じゃない役に立たないか見分けれる。うん、『忘れちゃった牧場』でお肉を生産するとか、どう?」

「ふふ、はははっ! そうか、そうなるか! ダイスケ、それをアノマロカリス達に提案しよう」

「ほんと?! 僕、手伝う! 頑張るよ!」

人間こどもの主力になれるやも知れんぞ? ここは深海、圧力や空調も整備してあるが陸海空の生物用で雑把ざっぱだ。人間用の精密な調整はまだしていないのにダイスケはもう平然と適応しているじゃないか」

 ……やった……! やったよ、僕が主力になれるかもだって、それってユウトさんがやりたかった主人公だ。

 壁に張り付いてた芽殖孤虫がしょくこちゅうの白い群れがザワッとした。交代の時間だって言ってる。あの子達が寄生虫とプランクトンの集団をまとめて地上の生き物を弱らせてたんだ。人間は君達の存在を発見したばっかりなんだよ。うふふってなる。

 僕が知ってる事なんてほんの少しだけど、人間として生まれて生きてきたからヒトの体のこと、心の扱い方なら……うふふ、僕、スパイみたいだ。

 すごいよ、みんなと何もかもを共有してる。地球上で鬼ごっこが始まっても僕達の勝ちだ。一人残らず捕まえてみんな我々の役に立ってもらおう。

 さあ、住みやすくて平和な世界にするんだ。



  おわり。

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