葬送日和

日暮

葬送日和

 物心ついた時から、ずっと葬式だった。

 なぜか不思議と周囲の人に不幸が訪れやすいという訳ではない。家族もおそらく昔からずっと一緒にいるし、仲の良い友達の中にも他界した人はいないはず。だけどずっと葬式なのだ。

 疑問に思い始めたのは小学校高学年になったぐらいからだった。他のクラスメイトに比べて、明らかに学校を休む回数が多い。むしろ登校する日の方が少ない。まともに学校に行った記憶がほとんどない。葬儀に参列する日の方が多かったからだ。

 しかし誰もそれを問題にしない。その事を誰も気付いてすらいない。

 不思議と、誰の葬儀に参列したのかははっきり覚えていない。遠い親戚らしいならまだマシな方で、まったく繋がりがわからない人である事がほとんどだ。

 まだ幼いにも関わらず、両親は参列しないのに自分だけ参列する事もたくさんあった。自分一人だけで、見知らぬ大人達に混ざって見知らぬ人の遺影を眺めながら、お坊さんのお経をなんとか眠気に耐えつつ聞いていた。

 そして、16歳になった今でもその生活は続いている。

 なぜそうなったのか、よく覚えていない。

 どうしてこんななのに日常生活が回っているのか。どうして今では受けた覚えもない高校に所属しているのか。どうして友達と仲良くなれたのか。全然わからない。具体的な記憶が葬式のこと以外ないのだ。このずれになぜ、他の誰も気付かないのかもわからない。

 ただ、定期的にポストに届く訃報を確認し、スケジュールを調節し、参列する。そういう日々だった。

 週に一、二日ぐらいは葬式のない日があり、不思議とそういう時は学校も休みであることが多い。その日はいわば私にとっての休日だった。

 葬式漬けの日々でも、他の人たちに比べればよっぽど楽な日常だろう。せいぜい一日に数時間ほどで終わる。お通夜なんかにも参列する時は帰宅が夜遅くになってしまうこともあったけれど、学業や仕事に勤しむ他の人たちに比べればなんということはない。それでも休日は心が安らいだ。

 それに、葬式といっても悲しみに包まれながらも平穏に終わるものばかりではない。

 特に若い人が亡くなられたときは悲惨な光景を目にすることも多い。泣き叫ぶ遺族の方。おそらく母親らしき人。ずーっと泣きじゃくるものだから途中で過呼吸を起こし、父親らしき人に連れられてその場から離れていった。あんな光景は、テレビドラマの中だけのことかと思っていたのに。

 その後の会食の時間、飛び交う噂話で自殺かもしれない、なんて耳にする。残酷ながらも人間らしい特性の一つに、死者を悼む場でもこんな無遠慮な噂話ができること、それをどこかエンタメのように消費できること、そして、それと死者を悼み遺族を慮る気持ちに何の矛盾もなく両立できる点があるんだろう。そう思えてならない。

 しかし私の話相手はいない。この場にも、私の知り合いだと言える人は誰もいない。そして誰もそれを気にしない。

 家族もいたけど、両親は仕事が忙しいらしく、ほとんど家にいない。自分にとって両親とは生活費をいつもダイニングテーブルに置いていく存在のことだった。兄弟もいない。家ではいつも一人だった。そもそも、親とまともに話したり遊びに行ったりしたエピソードを何も覚えていない。学校生活も同様だった。どんな親や友達がいるのか、どこの高校に所属しているか、知っているのに。周りの人の、そして自分のプロフィールを知ってはいても、具体的な、生きた記憶が何もない。あるのは今まで参列した葬式についてのことだけだった。

 まるで幽霊のようだった。そこにいる時だけ存在を認知される幽霊。

 どうしてこうなのか。わからない。誰も説明してくれない。だからただ黙って受け入れるしかない。

 日常というものは、例えば今の時代のこの国においては、毎日学校や会社に行き、学業や仕事に従事し、終われば帰宅する。そしてご飯でも食べてお風呂に入って寝る。こういうことだろう。

 なのに私のこの生活は………。

 SNSでなら人と繋がりを持てるだろうか。そう考えたこともある。仲良くなった誰かと楽しく会話する光景、普通の高校生のような光景を夢想し、期待に胸を膨らませた。けど、そんな淡い期待も次の瞬間に現実的な不安につつかれてしぼんでしまう。普段高校でどんな勉強してるの?家族とは仲良いの?こないだ友達とこんなとこへ行ったけど、あなたはどう? 何一つまともに答えられやしない。ううん、普段は毎日のようにお葬式に参列してるの。言えるわけがない。理解されるわけがない。

 きっと自分は周囲の人とは位相の違う世界に住んでいるのだ。他の人たちには非日常であるものが私にとっての日常なのだ。その理由はわからない。でもそういうものなのだと受け入れるしかない。誰も説明などしてくれないから。

 人は誰しも最初は小さな小さな、おたまじゃくしみたいな姿をして母の胎内に丸まっていた。でも誰もそんな原初の時代を憶えてはいない。大抵の人は生まれ落ち、必死に生きるうちにいつしか今日になっている。私も同じだった。なぜこういう生活をしているか、具体的な記憶はもはや無いけど、理由だって分からないけど、とにかく今ここにいて、昨日の続きを明日につなげなければならない。習慣を続けなければならない。

 いつか死を迎えたらどうなるのだろう。目の前の喪服姿の背中を眺めながら、読経を聞きながら、何度も考えた。

 たまに、無性に怖くなった。

 お風呂に入っているとき、夜寝る前、浴槽の湯に浸かりながら、布団の中で天井を見上げながら、考えていた。なぜ自分がこうなのか。どうして誰かと触れ合った記憶もないのか。

 考えて、怖くなった。

 誰もそれを教えてくれない。誰もそばにいてくれない。

 そういう時の不安は、ただごとではなかった。感情というと、まるで心の中にあるもので自分にも何とか制御できそうな気がしてしまうけど、そんなものではない。私にとってこれは、もうほとんど体験と言ってもよかった。地震、津波、暴風雨、病気、事故、寿命。誰が自分の外側からやってくる体験に逆らえるだろう。そういう時人間は、じっとおとなしく縮こまって無事に生きてやり過ごせる事を願うしかない。

 風呂場の白色光。夜中の部屋の豆電球。人工的な灯り。空々しい明るさが目に毒だった。

 葬儀の帰り、ぼんやりと電車の席におさまって考える。緑色のシート。向かい合わせに座る人々。この人達の日常を私は知らない。この人達も私の日常を知らない。知らない人々から見たら私はごく普通の女性にしか見えないのだろう。人混みに紛れるのは楽だった。ここでは誰もが、ただそこにいる時だけ認知される幽霊だった。

 こうしてただの日常は続いていく。自分のことすら知らないまま、ただひとりきりしかいない日常。しかし、こんな異常な日々でも、そこだけは他の大勢の人々と何一つ変わらないのだ。

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