そばにいる君への手紙

亜鉛とビタミン

そばにいる君への手紙

「違う、もう少し左」

 部屋の隅に置かれた白い食器棚を指さして、晴香はるかは言った。彼女の片手には、罫線入りのルーズリーフに手書きした配置図が、大事そうに握られている。

 南向きのワンルームには大小いくつかのダンボールと家具が散らばっていて、溶かしたホワイトチョコみたいな春の日差しを受け止めていた。そこに黄緑色に香る風が流れてきて、白いレースカーテンをさりげなく膨らませる。

「何だよ、さっきは右って言ったくせに」

 幸樹こうきは食器棚にもたれかかり、不服そうな顔をして晴香のほうを見た。彼は晴香の五歳下の弟で、都心部のキャンパスに通う大学三年生だ。初めての転勤で郊外へ引っ越すことになった姉に「力仕事を頼みたいから」と一万円を握らされ、嫌々ながら引越しを手伝うことになっていた。

「右に押しすぎなのよ、ちょっと戻して」晴香は指を小刻みに動かして、幸樹に注文をつけた。

「もう、自分でやれよ」

「うるさい。一万円のこと忘れたの?」晴香は少し語気を強めた。

「忘れてねーよ。俺、金欠なんだから」

 幸樹は短く息を吐くと、おりゃっ、と気合を入れて食器棚を動かした。

「ああ、だから動かしすぎだってば!」晴香は額に手を当て、やれやれという表情をした。

「もう、さっきから何に拘ってんだよ」

「別に良いでしょ? 幸樹がいるうちに、できるだけキレイな配置にしときたいの」そう言いながら、晴香は腕時計に目をやった。「私、これから郵便局に行ってくるから。帰ってくるまでにやっといてね」

「えっ、俺一人で?」

「そうよ、そのための万札なんだから。ほら、この通りにお願いね」

 晴香は足元にあった段ボールの上に、配置図が記されたルーズリーフを置いた。黒のボールペンで細かく書き込まれた、彼女の渾身の作品だ。

「そんなあ。勝手すぎないか?」

 ゲンナリとする幸樹をよそに、晴香は若木色のスプリングコートを手早く羽織り、クリーム色のトートバッグを肩にかけた。

「じゃ、頼んだからね」

 晴香は小さく手を振って、軽やかな足取りで部屋を出ていった。ドアが小さな音を立てて閉まると、俄かにしんとした部屋に、オートロックの機械音が響いた。

 

 マンションの五階の廊下から見える景色は、引っ越してきてすぐに晴香のお気に入りになった。どこまでもデコボコした建物の並びは、そこに暮らす人々の穏やかな日常を思わせる。少し遠くを見やれば大きな川が見えて、キラキラする水面がのんびりと流れているのが分かる。

 階段を降りていくと、南側の道路に面したエントランスに出る。中心街まで続いている道路で、昼間でもそれなりの頻度で車が行き交っていた。

 郵便局は、この道をしばらく歩いていったところにある。大体、のんびり歩いて三十分くらい。スマホの地図アプリで事前にチェック済みだ。バスがあれば良いのだけれど、平日の昼間は二時間に一本だから、歩いたほうがずっと早い。そうでなくても、こういう春の昼下がりは歩いたほうが心地良いものだ、と晴香は思っていた。

 晴香が郵便局に行くのは、一通の手紙を出すためである。それは、中学時代からずっと文通を続けている、恋人へ送る手紙だ。高校や大学が別々になり、互いに引っ越して住む場所が離れてからも文通を続けていたから、もう十年以上に亘るやり取りになる。

 晴香は、その恋人への手紙を、ポストには敢えて投函しないようにしている。それは、「窓口で局員さんに直接渡さないと、ちゃんと届くか不安なんだよ」と言っていた恋人の影響によるものだ。

 道路沿いに立ち並ぶ八分咲きのソメイヨシノを眺めながらボンヤリと歩いていると、やがて郵便局へ辿り着いた。大きな児童公園の隣にある小さな箱型の建物だ。訳あって、晴香にはこの郵便局に馴染みがある。

 晴香は建物の前に立つと、感慨深げにその外観を眺めた。それから自動ドアをくぐり、彼女はその少し窮屈な風景をゆっくりと見回した。待合スペースに一つだけ置かれた茶色い革の長椅子、円形の記載台、カウンターの隅には地域限定のハガキや切手などが雑多に並べられている。彼女のほかに、利用者はいないようだった。

 晴香はトートバックから、淡い水色の便箋を取り出した。表面には、黒いゲルボールペンの流麗な書体で恋人の住所と名前が書かれ、角のところを丁寧に揃えた八十四円切手が貼られている。

「郵送ですか?」ややふっくらした顔の女性局員が、和やかな顔で晴香に尋ねた。

「はい。普通郵便でお願いします」

「お預かりします」

 局員は便箋を受け取り、その宛先を確認すると、わずかに驚いたような表情を見せた。そしてすぐに、晴香の顔を見て微笑んだ。

「これ、文通ですか?」

「え、あ、はい」晴香は俄かに顔を赤らめた。「大切な人と、中学の頃からずっと続けていて」

「あら、とってもステキ。今どき珍しいんですよ」局員はホクホクと笑った。

「いえ、そんな」

 晴香は頬に手で覆ったままペコペコと頭を下げ、早口でお礼を告げると出口の方へ歩き出した。

 郵便局の人に文通のことを言われるなんて、まるで思っても見なかった。ステキって言われて嬉しかったけど、やっぱり、ちょっと恥ずかしい。

「ご利用、ありがとうございました」

 局員は初めよりもっと和やかな顔で、自動ドアから出ていく晴香の背中を見送った。

 

「おいっ、幸樹!」

 暖かな日差しが傾きはじめた頃、マンションの部屋に戻ってきた晴香の声が飛んだ。

「げ、帰ってきた」

 幸樹は荷物の中から勝手に出して読んでいた姉の漫画を隠し、そそくさと段ボールの陰に隠れた。

「全然終わってないじゃん、もうっ!」

 出かける前に揉めていた食器棚の位置をのぞいて、部屋の整理は全く進んでいないままだった。このままでは、弟の腕力を見込んだ一万円の投資が、丸ごと水の泡になってしまう。姉の怒りは尤もだった。

「返せっ、一万円!」

「嫌だ、返さねえっ」

 幸樹は温存していた体力を使い、段ボールと家具の隙間を縫うように逃げ回る。

「それより姉ちゃん、手紙出せたのかよ?」

 部屋の真ん中に置かれた二人がけのソファから顔を覗かせて、幸樹は訊いた。

「……うん、出せた」彼女は、少しためらいながら答えた。

「どうしたの、姉ちゃん」

「なんでもない」

「なんだよ、気になるなあ」

 不意に、柔らかな午後の春風がワンルームに流れ込んできた。オレンジの日差しを浴びたレースカーテンが、ふわっと大きく膨らむ。

「ちょっと、気になっただけ」

 晴香はソファに歩み寄り、ゆっくりと体を預けた。

「あの手紙、喜んでくれるかなって」

「へえ、何を書いたの?」

「別に、大したことじゃないけどね」晴香はクスッと笑った。「これから同じ街に住むんだから、もう私の悪口なんて言えなくなるんだよ、って」

「……ふうん。それじゃ、あの手紙は最高のサプライズってわけだ?」

 良いねぇ、そんなことができて。幸樹はソファの後ろから、溜め息まじりに嫌味っぽく言った。

「そうよ、悪い? 幸樹も大学生なんだから、彼女くらい作れば?」

 そう言うと、晴香はソファからスッと立ち上がった。洋服の袖をまくり、段ボールだらけの部屋を見渡した。

「よし、パパっとやっちゃおう。幸樹も、今夜好きなもの奢ってあげるから、手伝ってよ」

「マジっ?」幸樹はソファの陰から飛び出した。

「ほら、次はベッドの組み立てだよ」

 晴香は一際大きな段ボールのそばにしゃがみ、ガムテープを剥がしながら言った。食べ物に釣られた幸樹は、見違えるような態度で姉を手伝いはじめた。

 

 南向きのワンルームから段ボールが消えて、新しい生活の景色が少しずつ形作られていく。それが一通り済んだ頃には、優しい色をした夕陽が、住宅街の影に沈みかけていた。晴香が郵便局で出した手紙は、同じ街の単身用マンションに暮らす恋人のもとへ、束の間の小旅行に出ているところだ。

 フローリングに長く伸びた晴香のシルエットには、新たな生活に抱く彼女の期待が、ぼんやりと混ざって見えていた。 

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