第十二章 憂い接吻

憂い接吻(一)

 紙の明るい黄白色が急に暗くなった。読んでいた手元の書に影がかかり、セレンは顔を上げて振り返る。窓硝子が鳴り、雲が素早く横切って再び太陽が顔を出す。さっきまで穏やかだったと思ったのに、風が強くなってきたのか。

 セレンは明るい色に戻った頁に向き直り、しばし見つめて書を閉じた。ふぅ、とひと息入れて寝台脇の台の上に置く。そこにはすでに読み終わった三冊の本が重ねてあり、表紙が明るく彩られている。やっと陽の光に橙が混じり始めた。

 もうそろそろ本を読むのも疲れてきた。動かないで疲弊するとは、カタピエに着いてからそんなことが多い。

 というのも、目覚めてから作ってもらった粥で食事にしたものの食欲が湧かず、どうしても気持ち悪くて途中で匙を置いてしまったのだった。ただ胃がうまく動いていないだけだろうと、起きて普段通り活動するつもりだったのだが、ミネルヴァに止められ一日寝ているようにと布団に戻されてしまった。

 急に何もしないでいいとなると手持ち無沙汰で仕方がない。読むつもりだった本を数冊片付けてしまうくらいしか思いつかないが、それもあらかた済んでしまった。

 どこに焦点を当てるというのでもなく、ぼんやり本の余白を眺める。すると不意に不快な感覚が蘇ってきた。

 唇を強く擦る。しかしえも言われぬ違和感は簡単には無くならない。

 他に策がなかったとはいえ、望みもしない相手と——消せない汚れがついてしまったようで、吐き気に近い気持ち悪さが立ち返ってくる。何度目だろう。

 だがそのたびに、違和感の原因とは違う別の相手の顔が、あの深い碧の色がまた瞼の裏に浮かび、喉の奥が詰まった。

 一度犯されてしまったこの感覚は、一体どうしたら忘れられるのか。

 じっとしているとますます強く意識されてしまう。作業でもして動いたら、薄れてくれるだろうか。

 体も十分休んだはずだ。ミネルヴァは修道院会からお呼びがかかってやむを得ず出かけて行ったが、日暮れが近いならそろそろ帰宅するだろう。夕食でも作っていようかと、枕にもたれかかっていた背を離す。

 すると、部屋の外で玄関扉の音がした。もう帰ってきたのだろうか。

「う……」

 出迎えるため立ちあがろうとしたら頭に痛みが走り、眩暈で視界が揺れた。咄嗟に瞼を閉じて鈍痛が鎮まるのを待っていると、自室の扉が開いて人が入る気配がする。

「先生、お帰りなさい。すみません出迎えも」

「ミネルヴァ先生ならもう少しかかるそうだ」

 俯きながら謝ると、予想に反する低い声が返ってきた。

 驚いて顔を上げると、上着を手にしたクルサートルの視線とぶつかった。

「修道院会に行ってミネルヴァ先生から鍵を預かってきた。先生からも寝られているか見てくれと頼まれたんだが……悪い、起こしたか?」

 クルサートルは文机の前にあった椅子の背もたれに上着をかけると、寝台に近づいて膝を折った。

「セレンの体調がまだ思わしくないと言っていたが、起きて大丈夫なのか」

 頭を押さえて下を向いていたのが見えたのだろう。心配そうに顔を覗きこまれて、思わずセレンは「大丈夫」と口走って上体をさっと引いた。

「もうなんともない。軽く眩暈がしただけで」

 クルサートルがその場で固まり、妙な沈黙が生まれる。だが意識的にそうするように、クルサートルは見開いた碧の目を呼吸と共に一度閉じてから、落ち着いた口調で切り出した。

「本当なら先生が戻るまでついていてやれればいいんだが。すまない、この後もすぐ教庁に戻らないといけない」

「いや、ごめん。本当に平気だから」

「でもかなり具合が悪いんじゃないのか。セレンが眩暈がするなんて」

 言いながら今度は悔いるように顔を歪める。そしてセレンに断ってから寝台に腰掛けると、膝の上で軽く組んだ指に目を落とした。

「まさかカタピエであんな大変な目に遭わせるつもりではなかった。ここまでセレンが体を壊すのは相当に疲労している証拠だろう。倒れるまでとは……」

 そこで言葉を切り、クルサートルはしばし目線を落としたまま口を閉じる。だがややもしてまたも謝罪を繰り返す。

 健康優良児の代表であるセレンは普段からわずかな不調も見せない。そこからすればクルサートルの心配はもっともなのだが、セレンにしてみればカタピエに連れて行かれたのは完全に自分の落ち度だ。咎められはしても謝罪されるとは思わず、気遣われるとかえって慌てる。

 それに酷い体調不良の原因も当たりがついている。セレンは崩れてしまった姿勢を伸ばした。

「眩暈はたぶん、薬のせいだと思う」

「薬?」

「フィロから睡眠導入剤を貰っていて」

 噛んで口に残った糖衣についていた微量の薬が直接舌に触れてしまったのだろう。クルサートルと出会ってすぐに来た異様に強烈な眠気は薬以外に考えられない。

 フィロが少量なら平気だと言っていたが、きっと舐めて摂取する時は糖衣と溶け合って有効成分の質が変異するに違いない。

「あまり眠りが良くないって言ったらくれたのだけれど。私は薬の世話になることはないから、慣れないものを飲んだせいで効きが良すぎたんだと思う」

「ああ、フィロからということはアレか」

 民間で売られる薬効のあるものは教庁の許可がいる。昨今、医師も活用しだしたとの話はクルサートルの記憶にも新しい。

「確かにセレンがあの状況でほとんど起きずにいたのは不自然だったな。だが薬のせいならわかる」

「私もこんなに効果が強いとは思わなくて……ごめん」

「セレンが謝る話じゃない。無事で良かった。むしろカタピエに捕まってすぐに行ってやれなかったのを詫びるのはこちらだ」

 クルサートルはセレンの方を向いて微笑する。昨今の苛ついた感じのない、後悔するような笑みだった。そのまま穏やかに語るさまは、セレンに話しているというより独り言のようだ。

「向こうで何かあったらどうしようかと思ったが――ここまで疲弊させるのは何もなかったとは言えないか。俺も酷すぎるな」

 自嘲気味なクルサートルの反応はセレンには意外だった。助けてもらった身で心配までかけたのはこっちなのに、どうしてそう沈んだ目をするのか。

 恐らく薬が効きすぎたのは単に薬への耐性がなかっただけではなく、カタピエ宮廷にいる間じゅう警戒を解かなかったのと、脱出前夜に緊張で眠れず心身ともに疲労が蓄積していたせいだろう。ただ、それを言えばクルサートルが気に病む。

「捕まったとはいえ結果は良かったから。収穫は得てきた」

 クルサートルの目に哀しそうな陰が差すのを見るのは辛い。セレンはできるだけ明るい顔を作ると、文机の上を指差した。指の先を目で追ったクルサートルは、机の上に折り畳まれた紙を認めて立ち上がる。開けていいかと尋ねる仕草にセレンは頷いた。

 折り目を開いて上からざっと視線を走らせると、碧の眼に常の鋭さが戻った。

「諜報官の派遣先か」

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