ドクダミの森にて

亜鉛とビタミン

ドクダミの森にて

 朝ぼらけのひんやりした風がドクダミの森を吹き抜けるころ、コンクリートの窪みに造られた小さな家で、少年はゆっくりと目を覚ました。窪みに入ってくる風が柔らかく頬を撫で、青々としたドクダミの香りで辺りをいっぱいにした。


 少年は一つ深呼吸をし、寝床から体を起こして、一つ大きな伸びをすると、クヌギの小枝を彫って作った靴を履き、窪みの外に歩み出た。彼は、ドクダミの森の西にある学校に行かねばならないのだった。森に注ぐ柔らかな木漏れ日を浴びながら、ふわあ、と呑気にあくびをしていると、少年は不意に脇腹を小突かれた。


「おはよう。良い朝だな」


 少年の同級生であるフラスコが、満面の笑みを浮かべて少年の隣に立っていた。早起きな彼は毎朝、こうして少年を迎えに来てくれるのである。


「やあ、おはよう、フラスコ」

「お前、さっき起きたばかりだろ?」

「わかる?」

「わかるさ、頭の後ろがぺったんこだぞ」


 そう言われて、少年は自分の頭を軽く触ってみた。確かに心なしか、いつもより少し、フワフワしていない気がした。


「まだ時間あるからさ、とりあえず髪を直してこいよ」

「うん、そうだね」


 少年は窪みに戻り、ガラスの破片で繕った鏡台で髪を整えた。整えたといっても、手櫛で何度かとかした程度だが、少年は大抵それで満足するのだった。


「お待たせ、フラスコ」


 少年は改めて窪みの外に出て、フラスコと二人で学校への道を歩き出した。それなりに距離がある道のりだ。朝の僅かな間しか日が差さないドクダミの森は、彼らが学校に到着する頃になると、すっかり陰って暗くなってしまう。


 そのため、森の住民の朝は早く、夜もまた早い。辺りを行き交う人々は、薄明が空を覆う前から各々の仕事に精を出して、爽やかな汗を流す。そうして昼頃になると仕事を切り上げ、各々の家族や仲間と賑やかな時間を過ごすのである。


 実を言うと、日が昇るまで眠ったままでいるのは、森の住民で少年ただ一人だ。フラスコも、他の住人も、少年以外の誰もがみな、生まれついての早起きなのだ。


 幼い頃に死んだ彼の両親も、やはり早起きだった。それなのに少年は、何故か遅起きだ。これは生来の性質なのか、それとも何か他のきっかけがあるのか? だとすれば、それは何なのか?


 その謎は森で一番の医者にも分からなかったし、少年本人にも分からなかった。分からないのだが、少年はそれをあまり気に留めていなかった。それは、気に留めていても仕方のないことだと考えていたからである。


「おにいちゃん、おはよう!」


 ゆったりと歩く少年とフラスコの横を、元気一杯の子供たちが駆け抜けていった。子供たちは跳ねるような笑い声を立てながら、白くて小さい歯を輝かせている。少年は、その様子を穏やかな眼差しで見つめた。フラスコはやれやれという顔をして、「あいつら、アレで日が暮れるまで疲れないんだから、すげえよな」と大人ぶって嘆息した。


 学校に通う子供たちは、その殆どが家族の仕事を手伝っている。朝、まだ薄暗いうちに寝床を出て、畑仕事などをしてから学校に向かうのである。


 少年は両親の亡き後、母の旧友によって育てられた。そして学校に入る歳になって、コンクリートの窪みの家を用意され、殆ど追い出されるようにして一人きりの生活を始めた。そのため、少年には仕事を手伝うべき家族がいなかった。仮に家族がいたとしても、遅起きの少年に仕事など出来ないのだが、そんな彼のことを疎ましく思っている大人も存在していた。

 

  *

 

 少年とフラスコは、ドクダミの森の真ん中に聳えるクヌギの大木の下を通りがかったとき、頭の上から男の豪快な声を聞いた。


「おう、フラスコ! 今日も学校か!」


 見上げると、森で工務店を営む大工の親方が、大きく手を振っていた。森の真ん中に聳え立つクヌギの洞の一つで、新婚夫婦が住まう新築の工事に勤しんでいるところだった。毛深く太く黒い彼の腕は、うっすらとかいた汗で健康的に艶めいていた。


「おはよう、親方さん! もちろん学校だよ」フラスコは大きく手を振り返した。


「そうか、頑張れよ! ところでお前、朝飯はちゃんと食べてきたか? 女房が作ってくれた弁当が、一つ余ってるんだ」


 フラスコは、少し間を置いて答えた。


「食ったけど、仕事でもう腹ペコだよ! 貰っていいかい、親方さん」

「おうおう、食え食え!」


 親方は、手に持っていた弁当をふわりと放り投げた。美しい放物線を描いてフラスコの手元に落ちた弁当は、エノコログサの葉の切れ端で丁寧に包まれていた。


「ありがとう! また今度、俺に大工仕事を教えてくれよ」


 フラスコがそう言うと、親方は「おう、それなら今でも構わねえぞ!」と返し、ガハハと笑った。


 二人のやり取りを、少年は黙って見ていた。ただし、わざわざ黙っていたわけではなく、自らがその場にいないものとして扱われていたから、その通りに振る舞っていただけである。朝は遅く、家族はおらず、働きもしない少年が森の住民から除け者にされるのは決して珍しいことではなかったし、少年自身もそれを受け入れ、諦めていた。


 クヌギの木のふもとから暫く歩いた辺りで、フラスコは少年に尋ねた。


「なあ、朝飯食ってないんだろ?」

「食べたよ」

「嘘つけ」

「お腹いっぱい」

「嘘つけ」


 フラスコは、さっき貰った弁当を、少年にぐいと押し付けた。


「食えよ、いいから」

「いらない。フラスコが貰った弁当だから」

「意地を張るなよ。どうせ、親方さんの自己満足なんだから、誰が食ったって構わないんだ」


 少年は、フラスコが押し付けてくる弁当に目をやった。エノコログサの若葉の隙間から、甘く香ばしい匂いが立ち上ってきて、少年の小さな鼻腔をくすぐる。中身を見なくても、それはツツジの花粉の煮付けだと分かった。採れたてのツツジの花粉を丸めて団子にし、これまた採れたてのツツジの蜜と絡めてやり、じっくりと火にかけて作る、ドクダミの森の家庭料理だ。


 少年は、この料理が好きだった。まだ物心がついたばかりのころ、たった一度だけ、母に食べさせてもらったことがあるのだ。母お手製の団子を口に運んだときの味を、少年は今でもはっきりと覚えていたのである。


「じゃあ、食べたい」


 少年は目線を足下に泳がせながら、遠慮がちな声で言った。


「そうだろ、ほら」


 フラスコは少し得意げな顔をして、改めて弁当を差し出した。少年はそれを受け取ると、まるで大切な宝物であるかのように、じっと見つめた。それから我に返ったように、ゆっくりと葉の包みを取った。


「ほんとに、食べていいの?」

「いいよ」

「ほんとに?」

「そうだよ、早く食えって」


 少年の手のひらの上で、丸くて黄色い団子が、金色にとろける蜜をまとって輝きを放っていた。少年はおずおずと、その一つを手に取った。


「いただきます」


 少年は溢れそうになる涎をごくりと飲み込んで、花を口内へ放った。


 舌に触れた途端、音もなく溶けてなくなった。蜜は口のなかでまろやかに広がり、甘く芳醇な香りが鼻を抜けた。少年は全く無意識のうちに、もう一粒、もう一粒と花粉を口に運んでいく。その度に、少年は柔らかな幸福を覚えた。それは、少年の記憶の奥底に根付いた、確かな幸福だった。


「お前、食べんの早いなぁ」


 フラスコが、少年をからかうように笑った。気が付けば、少年の手元にあった団子は、全て無くなってしまっていた。


「そうかな」少年は困ったように目を細めた。

「褒めてねえよ」フラスコはそう言い、少年の肩を軽く小突く。

「え、そうなの?」


 少年はきょとんとした。フラスコはそれを見るなり、思わずフッと噴き出した。


「そうだよ。でも、うまかったんだろ?」

「うん、うまかった」少年はパッと満面の笑みを浮かべてみせる。

「そうかよ」


 フラスコは安堵したように溜息をついた。フラスコは、少年の持つあけすけなところと素直さが、どうにも大好きである。だから、学校でもどこでも、彼は森の誰よりも少年のことを気にかけていて、少年の笑顔は何よりも彼を安心させるのだった。


 少年もまた、そういうフラスコのことを一番に信頼している。家族のいない少年にとって、フラスコの存在は唯一の拠り所になっているのである。


 *

 

 少年たちの通う学校は、森の西側の、タンポポが競うように咲く平原のなかにある。加工した木の枝を組んで建てられた教室には、森のあちこちから二十人ほどの生徒が集う。この教室で、森での生活に必要な様々な知識を学ぶのである。


 二人が教室に入ると、年少の生徒たちが我先にと駆け寄ってきて、あっという間に二人を取り囲んだ。


「おはよう!」

「遅いよ、二人とも!」

「ねえ、一緒に遊ぼう?」


 この教室のなかで、少年とフラスコは一番の年長だ。毎朝、学校の授業が始まるまで、二人は幼い子供たちの相手をする。


 皆を笑顔にする明るさと、誰よりも強い責任感を併せ持つフラスコは教室の頼れるリーダーだ。教室で巻き起こる子供たちのちょっとした諍いは、大抵の場合、フラスコの一声で立ちどころに解消してしまう。対して、人一倍に優しい心根を持つ少年は、いつも静かに皆の様子を気にかけている。子供たちの誰かが泣き出すようなことがあればすぐに駆け寄っていき、彼らの気持ちが落ち着くまで、ひたすら寄り添って宥めるのである。


 二人が子供たちと遊んでいると、しばらくして、カシの杖をついた一人の男が教室へとやってきた。ここで教鞭を取っている教師だ。朽ちた木の皮のような白髪をしていて、大きく湾曲した細い背中は、まるで雪に倒されかかっている杉のように見える。


 男は教壇に立つなり、杖で床を強く突いた。すると、騒がしかった子供たちはたちまち静かになり、そそくさと各々の席に戻っていく。全員が席に戻ったのを見ると、男は激しい咳払いをした。


「私はいま、かなり苛立っておるのだ。その理由は解るかね?」


 男は、薄く開かれた両目をじろりと動かし、教室を舐めるように見回した。やがてその視線は、窓際の席に佇んでいた少年の元へと向けられた。


「どうやら本人には、何ひとつ自覚がないらしいな」


 教室の子供たちはその言葉の意味するところを察した。少年へと注がれる彼らの視線は、大きな恐怖心と、少なからぬ好奇心を孕んでいた。


 少年は彼らの視線に気がついて、ようやく不穏な気配を感知したらしい。少年は、コツコツと杖をつきながら自分の元へやってくる男の姿を見とめ、本能的に身を強張らせた。


「昨日、お前が出した作文を読んだぞ」


 男は、低く威圧的な声で言った。


「それで、私の言いたいことは分かるな?」


 少年は机の隅に目をやり、押し黙った。教室の子供たちは息を殺し、その様子を見つめていた。外でそよぐ草木の音は、その空気をさらに緊迫させた。


「そのまま、黙っているつもりか」


 男は半ば呆れたように呟くと、持っていた杖を高く振り上げた。


「先生!」フラスコは咄嗟に声を上げた。


 しかし、男は構うことなく杖を振り下ろす。硬いカシの芯材で作られた杖の先端が、少年の頬を強く殴った。教室には鈍い音が短く響き、少年は体勢を崩して椅子ごと床に落ちる。


「先生、昨日の作文だったら……」


 フラスコは即座に席を立ち、床に倒れた少年と、興奮して息巻く男との間に割って入った。


「先生が出した作文のテーマは、『家族の仕事について』だった。でも皆と違って、こいつには家族がいません。だから、作文の出来が悪かったからって……」


 すると男は、カッと目の色を変えた。


「そんなこと、私とて百も承知だ。だが、出された作文は白紙だった。何も書かれていなかったんだ。出来が悪い作文なら、反省させる余地があろう。しかし、白紙というのは、白紙というのは、完全に私という教師への冒涜ではないか!」


 男は息をゼエゼエとさせながら、なおも捲し立てる。


「それに、私が怒っているのは、決して作文のことだけではない。普段の行動からして怒っておるのだ。他人の指示を聞かない、皆と共に行動できない、挨拶もしない、家族の仕事も手伝わない、朝も起きてこない。そのくせ、親が残した蓄えで学校に通い、毎日飯を食っている。役立たず、穀潰しにも程があるだろう。本当は、杖で少し叩くくらいでは、まるで足りないくらいだ。全く、こんな子供を残して死んだ両親が、哀れでならんよ……」


 皺くちゃの年老いた顔は、顔から湯気が出そうなほどに紅潮していた。やがて、その怒りが収まってくると、男はゆっくりと教壇へ戻っていった。


 少年は、頬の内側に滲み出してくる血を舐めながら、痛々しいほどに湾曲した男の背中を見つめた。あの老体で殴りたくなるまでに、自分は男を怒らせたのだと、少年は思った。男が放った言葉の全ては、森の大人が少年へ抱いている嫌悪感、そして忌避感の表れなのだ。自分を育てた母の旧友も、フラスコに弁当を渡した大工の親方も、杖で教え子を殴りつけた男も、とどのつまり、少年の存在をひたすらに否定しているのだった。


 もう学校にはいられない、と少年は直感した。少年はおもむろに立ち上がると、迷いのない足取りで教室から出て行った。フラスコは憎しみと悲しみに引き攣った顔で男を睨みつけ、すぐに少年を追いかけた。


 男が掠れきった声で何かを叫び、フラスコを呼び止めようとするのが聞こえた。心配した子供たちが廊下に飛び出してきたのも分かった。しかしフラスコには、少年の方がずっと大事なのだった。それで学校に行けなくなっても、子供たちを裏切ることになっても、森の大人たちから排斥されることになっても、一向に構わないと思っていた。


 少年は校舎を出て、学校の裏手にある高台へと向かった。そこは丁度、ドクダミの森の西端にあたる場所だ。日当たりがよく、ドクダミが少なくて見晴らしが良いため、少年は幾度となくこの高台を訪れていた。


「おーい、一緒に行こうぜ」


 高台に登る坂の下で、フラスコが両手を大きく振っていた。少年は立ち止まって振り向き、同じように大きく手を振ってみせた。


「待ってるよーっ」


 フラスコは勢いよく坂を駆け上がり、あっという間に少年のところへ追いついた。彼は息も切らさずに少年の背中を軽く叩き、「さあ、早く行こうぜ」と言って笑った。


 坂を登り切ると、視界は突如として開けた。そこには、森の外の世界がいっぱいに広がっていた。高台の麓にはシロツメグサの平原が広がり、その奥にはタンポポの大森林が、さらに奥には果てしなく広がる青い湖が横たわっている。後ろを振り返ると、穏やかな海原のように広がるドクダミの森が見える。少年たちが日々を生きている世界だ。すでに正午を過ぎ、暗い陰にすっぽりと覆われている。


「やっぱりここは、いつ来ても綺麗だなあ!」


 フラスコは両手を広げ、感嘆の声を上げた。


「綺麗だなあ!」

 

 少年も呼応し、両手を大きく、大きく広げる。


 たっぷりと差す陽の光を浴びていると、心のなかにある何もかもが、跡形もなく消えていくような気持ちになった。そうして出来た心のスペースは、傍らにいるフラスコが放つ光で満たされていく。その光は、天から降り注ぐ太陽よりも暖かかった。


「見て! 巨人がいるよ、フラスコ」


 少年は、タンポポの森の向こうを指さして、興奮気味に叫んだ。彼が示す先には、悠然と歩く巨大な人影が二つあった。少し観察してみると、より大きな人影が、より小さな人影の手を引いて歩いているようだった。小さな人影は、何度も立ち止まっては、大きな人影を呼び止めるような仕草をしていた。


「もしかすると、あれは親子か」と、不意にフラスコが呟いた。

「親子? 巨人にも、親子がいるの?」

「知らない。でも、俺たちと同じなんじゃないか? 親がいて、子供がいて、そのまた子供がいて……」

「あんなに大きいのに? 信じられないな」

「大きくても何でも、生きてさえいたら、そういうもんだろ」

「そうか、そういうもんか」


 少年はあらためて、二つの人影を見つめた。彼は無意識のうちに、両親の記憶を思い起こしていた。それは暗い海底に沈んだ宝箱のように、重く確かな感触を持つ記憶だった。繋がれた手の感触、優しく微笑みかけてくる母の顔、ドクダミの茎をかき分けて歩く父の背中。そのどれもが、褪せない輝きを放つ宝石のように思えた。


 そのうち、少年は思い出した。それはたくさんの宝石の陰に隠れていた、暗く冷たい記憶である。

 

 少年の両親が死んだのは、ある日の明け方のことだ。雲ひとつない紫が美しい朝だった。


 早起きで働き者だった両親はその日、初めて少年を連れて畑仕事に出た。冬に備え、沢山の作物を収穫しなければならない日だった。父が収穫に使う鋏を持ち、母が籠を背負った。歩けるようになったばかりの少年は何度も躓きかけながら、ゆっくりと先を歩く両親を追った。


 少年たちは、背の高いナズナの畑に到着した。少年はそこで父に手ほどきを受けながら、ナズナの若葉の収穫を手伝った。慣れない鋏を何とか動かし、籠に収穫物を入れていく。


 少しすると、少年は鋏の扱いに慣れてきた。だんだんと楽しくなってきて、気がつけば、すっかり夢中になっていた。そうして母の持ってきた籠の一つがナズナの若葉でいっぱいになった頃、少年はそれを自慢するべく、両親を呼ぼうとしたのである。


 希望に満ち満ちた笑顔を浮かべながら、少年は両親を探した。だが、辺りに彼らの姿は見当たらなかった。少年の心の片隅に、針のように不穏な予感が芽生える。少年は鋏を放り出し、ナズナの畑の外へ出た。そこで少年が目撃したのは、とても信じがたい光景だった。


 地面に倒れ伏した母、その母を庇う父。そして、その父の背丈が小さく見えるほど大きな、一匹の烏。


 少年は叫ぼうとして、声が出なくなっていることに気がついた。少年が生まれて初めて感じた、心の底からの恐怖だった。怖い、という言葉は浮かばなかった。ただ足が震え、手が震え、唇が震えた。身動きが取れなかった。逃げなければならないという直感も理性も、まるで意味を成さなかった。


 それから永遠にも感じられる数秒が経過して、烏の嘴が父の体を鋭く抉った。父の体は呆気なく吹き飛ばされ、畑の向かいにある水路に落ちて水飛沫を立てた。邪魔だった父を排除すると、烏はすぐに母のほうへと向き直った。烏は体勢を下げ、母の体を何度か突いてみせた。


 そのうち満足したのか、烏は僅かに嘴を開き、母の体を咥えた。母の体は嘴に挟まれて力無く曲がり、ピクリとも動かなかった。少年はひたすらに立ちすくんでいた。烏が黒い翼を広げて森の外へ飛び去っていくまで、何をどうすることもできなかった。


 体がどうにか言うことを聞くようになったところで、少年は水路に落ちた父のもとに駆け寄った。少年は一抹の希望を抱いて、父に呼びかけた。何度も何度も、何度も繰り返し呼びかけた。


 しかし、それは無駄だった。立派だった父の肉体は、その右半分がどこかへ行ってしまっていた。


 何が起きたのか、少年には理解できなかった。だが、涙はとめどもなく溢れてくる。その涙の意味も、少年には理解できなかった。それでも涙は流れ続けた。太陽の光が辺りに差し出したころ、少年は畑の近くを通りかかった住民に発見され、無事に保護された。だが、そのあとも少年の涙は流れ続けた。


 その日、母の旧友の家に引き取られた少年は、丸二日に及ぶ長い眠りについた。その眠りから目覚めたとき、少年の記憶から畑での出来事は消え去っていた。そうして「父と母は、自分を残して死んでしまった」という事実だけが、少年の頭に留め置かれることになったのである。


 その日から少年は、森で唯一の「遅起き」になった。

 

「なあ、僕はこれから、どうすればいい?」


 少年はのんびりとした口調で言いながら、高台の草原にゆっくりと倒れ込んだ。見上げた空は、一点の曇りもなく澄んだ青色をしていた。


「学校には、戻らないのか」少年の隣に横たわって、フラスコは尋ねた。

「うん」

「そうか」

「どうしよう?」

「分からないな、俺には」

「そっか」


 それきり、二人の会話は止んだ。二人は柔らかく頬を撫でるそよ風に吹かれるまま、少しのあいだ眠りに落ちた。


 少年は長い夢を見た。フラスコと二人でドクダミの森を出て、タンポポの森を越え、巨人の親子に会いに行く夢だった。二人を手のひらに乗せた巨人は、どこまでも歩いていった。ドクダミの森は瞬く間に見えなくなり、想像さえしたことがないような景色が、次から次へと目に飛び込んできた。


 それは終わりのない旅だった。暖かな巨人の手のひらの上で、少年とフラスコはどうしようもなく笑い合う。目に映る全てが、肌に感じる全てが、楽しくて堪らない時間だった。

 

 この夢が永遠に醒めなければ良いのに。


 少年は、そう願ってやまないのだった。

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