アエテルニタスの箱

西野ゆう

プロローグ

1

 二〇二二年八月十八日、午前八時。空と海は陽が高く昇るにつれ、迫ってくるように青さを増している。空には多くのカモメ、洋上にはグレーの無機質な艦船。「せがわ」と船首に書かれている定員百名ほどの白い小型客船が、小さな入り江を目前に汽笛を鳴らす。派手な水しぶきの割にゆっくりと進む、米海軍のエアクッション型揚陸艇を前方にやり過ごして、目的の港へと穏やかな水面を滑ってゆく。

 前日の猛暑日を引きずって迎えたこの日の朝、狭い客室内の冷房はフル回転だ。

 佐世保港からこの客船に乗り込んだ、ただ一人の乗客である三十代中ごろの男は、寝癖もそのままにぼさぼさの頭をしていた。ジーンズにTシャツ、膝の上にメッセンジャーバッグを抱えたその男は、船窓に姿を現した小島に目をやった。

 司馬遼太郎が『街道をゆく』の中で「松露饅頭のようにかわいい」と称した八ノ子島だ。

 しかし、現在目を引くのはその形ではなく、島の頂上で傾く十字架だろう。長崎では珍しくクリスチャンのいないこの地にあって、その十字架はある種異様に見える。

 船は更に速度を落とし、八ノ子島の横を通り過ぎた。船が向かう浮桟橋の上に、夏休み中の部活に向かうのであろうか、数人の高校生達の姿が見える。

 長崎県西海市横瀬。男がこの小さな集落にやってきたのは、数日前の落雷で傾いてしまった、八ノ子島の十字架を見るためだった。正確には十字架そのものではないが、何を見たらいいのか、この時点ではその男もまだ知らされていない。

 降り口近くで船が舫われるのを待っていた男が、桟橋の上に懐かしい老紳士の顔を見つけて手を挙げた。

「ご無沙汰しています、川口先生。お元気そうで」

「横瀬浦へようこそ。安田君こそ元気そうでなにより」

 桟橋で出迎えた白髪の男は、船から降り立った男に握手を求めた。

 安田が大学三年生の時に定年退職した川口は、八十歳を超えているはずだが、白くなった髪と、皺が増えた顔以外には老いを感じさせない。

「まだまだ若い者には……なんて言うつもりはないが、休ませてもらえないのも事実だな。早く安田君達に仕事を任せて、私は家の中でのんびりしたいもんだが」

 仕事と言っても、月に何日と働いていない。仕事がない日は、大抵趣味の釣りに興じている川口を知る安田は曖昧に笑って頭を掻いた。

 川口は船から降りた安田を、桟橋の反対側に停泊させていた小さなボートに誘導した。

「何があったのか、まだお話しして頂けませんか?」

 昨晩、川口からの連絡を受けた安田は、横瀬で面白いものが見つかったとだけ告げられ、ここに呼び出されていた。

「何も聞かずにその目で見た方が面白いだろう。私もまだちらりと見ただけで、触れてもいないんだよ」

 川口と安田の二人を乗せたボートは、八ノ子島へ船首を向けた。二馬力の小さな船外機がゆっくりと二人を八ノ子島へと運ぶ。

「安田君、これを履くといい」

 船外機のスロットルを握ったまま、川口は長靴を差し出した。その川口が普段愛用している磯釣り用の長靴は、ソールにスリップ防止のフェルトが貼られていた。八ノ子島は周囲二〇〇メートルの小さな島だが、ボートを着岸するのに適した場所はない。ボートが浅場まで進んだら、一人が浅瀬に降りて岸際までボートを引っ張らねばならない。その役目を安田が受け持つわけだ。

 当然八十過ぎの川口にはその役目を担わせられない。安田はスニーカーから長靴に履き替えた。

「船を降りたら、適当な木にロープを縛ってくれ」

 島に近づくと、川口はエンジンを切って惰性で進ませ、櫂でボートを細かくコントロールした。

 船底を擦る音と振動がして、ボートが小さく揺れた。安田は立ち上がり、海底の足場になる箇所を覗き込んで確認し、ボートが立てた波が収まるのを待って、海へと降りた。長靴越しでも海水温が高いのがわかる。安田は海水浴をしても涼しくなりそうにないなとのんびり考えながら、近くの木にロープを結んだ。

「手ぶらで大丈夫なんですか?」

 ボートに戻った安田は、川口に手を差し伸べて言った。今さらながら川口が何も持って来ていないことに気が付いたのだ。

「今日の所は大丈夫だ。さあ、暑くなる前に済まそう」

「もう十分に暑いですよ」

 既に気温は三〇度を越えているだろう。少し動いただけで、安田のTシャツは汗で肌に張り付いていた。

 普段八ノ子島に上陸する者はいない。前回人が足を踏み入れたのは十数年前、標高三〇メートル程のこの島の頂上に立つ白亜の十字架に、LED電飾を取り付ける工事を行った時だ。その十字架が先日の落雷で基礎のコンクリートが割れて傾いた。そこで補修工事のために現状を確認しに来た作業員が、奇妙な物を見つけて警察へ連絡した。

「だが、警察の仕事じゃなかったようでな。私の所に確認してほしいと連絡が来たというわけだ」

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