まじめな話

@rabbit090

第1話

 体が疲れると、心も疲弊するっていうけれど、今の私には本当に、何も、何一つとして存在することは無かった。

 小川が流れるようなきれいな町で、私は生まれた。

 周りにはいくつもの水路があり、観光地になっていた。

 そこで私は、旅館の娘として、生まれた。

 「あき、ちょっと行ってくるね。」

 「分かった、何時になる?」

 「…うん、遅くなる。」

 私は、お母さんが不倫していたことを、しっていた。

 地味だけど、とてもきれいな人だった。

 私は、でも別にお母さんを嫌いなることなど無かった。なぜなら、ウチにお父さんはいなかったし、いや、正確にはいるけれど、とにかく存在していなかった。

 「お父さん。」

 私は一人ぽつりと、その言葉を発する。

 父は、そこにいた。

 会談を何段も降りたところに、彼はいる。

 「ああ、あき。」

 にっこりと笑う姿は、とても格好がよかった。若い頃は地元でサッカーチームに所属していて、キャプテンで周りの人からすごく慕われていたらしい。

 「ご飯持ってきた。」

 「サンキュ。」

 今は、まだ大丈夫。

 父は、おかしくなど、なっていない。

 私は安堵に胸をなでおろし、そしてそのまま、部屋の扉を開け、父の隣に座った。

 「これ、あげる。」

 「ああ、うれしいよ。」

 「うん。」

 父は、私が持ってきていた本を、大事そうに抱えていた。

 しかし、彼にはもう、そこにいることしかできない。

 私は、父の隣に座ることが好きだった。

 父が、大好きだった。

 けど、手に負えないものを仕方が無い。

 私は、そこから立ち、部屋を出た。


 「お父さんの様子、見てきたよ。」

 「そう、どうだった?」

 次の日に帰ってきた母は、そう言った。

 「うん、まあ普通。」

 「良かった。」

 「…うん。」

 良かった、そう、普通で良かった、そう。

 私は分かっている。

 父は、もうおかしいのだ。

 そして、それはどうしようもなくて、でも母は父が大好きで、離れられなくて、多分地下に閉じ込めているのだろう、と、理解している。

 けど、私はまだ、信じている。

 いつかきっと父は、私のことを見てくれるって、あんな、うつろな目で私のことを見つめるのではなく、もっとはっきりと、しっかりと、私を認識してくれるのだと、思っている。


 父は、心の弱い男で、薬に、手を出してしまった。

 そして、どんどんみるみるうちに壊れていき、今のような状態になってしまった。

 そして、そう。

 周りから見ている人間にはもどかしい程、その崩壊を止めることはできない。

 私は、父が大好きだった。

 けど、もう父は、いないのだということも分かっている。

 だから、私は逃げることにした。

 この場所から、足を洗うことにしたのだ。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

まじめな話 @rabbit090

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る