水底

 フェリーの甲板に図形を描く。それは名状しがたき幾何学模様で、常人が見れば底知れぬ恐怖と嫌悪感をおぼえるものであった。しかし、彼にとっては、何物にも代えがたき神聖なものであり、心がだんだんと澄み切ってゆくことを実感していた。


 彼は、おごそかに、古文書に記されていた一節を奏じはじめる。


「かけまくもかしこ瑠璃宮るりのみやのおおまえに――かしこみかしこみもうさく――」


 なぜ今までかくも神聖な世界のことわりに気づけなかったのだろうか。もし他の仕事を選んでいたなら、知る機会さえ得られなかったはずとはいえ、だ。


瑠璃之江るるいえ神留かむづます、久里留宇布のみこともちて、陀碁於牟だごおむ波伊陀宇良はいだうらみこと赤牟国あかむのくにを、安国やすくにさだまつりて――」


 熊野灘くまのなだ一帯に伝わるダイダラボッチ伝承と、赤牟島の瑠璃社るりのやしろに伝わる瑠璃のみやこの伝承。このふたつの伝承の結びつきを追っていたからこそ、世界の裏に存在した真実にたどり着けた。海の果て、瑠璃の都からやってくる巨人。赤牟島をそらよりの神。いにしえに地上をおさめていた者どもに代わる、新たにして至上の存在!


陀碁於牟だごおむ波伊陀宇良はいだうらみこと赤牟国あかむのくに常磐ときは堅磐かきはいらまつり、久里留宇布のみことたいらけく御座所おほましどころ御座おほまさしめたまへと、いはしづまつらくとまをす――」


 三柱みはしらの神の顕現のためなら、我が身をにえとしようとも惜しくなどない。御国みくにの安けくまもりのために、自分が役に立てる日が来ようとは! かの神々が再び御座所に戻られる日には、鎮められ、永久とわの安らぎがあまねく地上にもたらされるのだ!


 そのとき、海面にはおぞましき眼光が数あまた浮かび上がってきた。常人であればたちまちに気が触れる光景であったが――それらこそが、彼の待ち望んでいた御使みつかいであった。


 ああ! おいでくださりましたか! だごおむさま! はいだうらさま! そして――


 無上の歓喜と幸福を感じながら、最後の一節を唱える。


「――以阿以阿いあいあ久里留宇布くとぅるふ倍多具牟ふたぐん!」


 彼が甲板から身を躍らせると、瑠璃色の水面みなもは彼を受け入れるように、その魂を吸い込んでいった。

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