BL【ただ会いたいだけなんだけれど】

手塚エマ

第一章 恋愛小説家

第1話 恋愛小説家

 五月の初旬になってもまだ、集落を囲む連峰のいただきは、中腹まで雪を被っている。


 その山麓さんろくにある、木造二階屋の寂れた宿が笠井和正かさいかずまさ定宿じょうやどだ。

 笠井は東向きの窓を開け、冴えた空気を吸い込んだ。


 持参してきたラジオでは、中国への侵略を邁進していた関東軍が、制圧した満州国の植民地化を、誇らしげな節回しで報知した後、続きましてと、第一号国産パーマネント機の開発により、一般家庭婦人の髪は、コテからパーマに変容しつつあるなどと言っている。


 戦火の不穏と日常が、混在している世相が求める小説とは。

 問われたのなら「恋愛」と、笠井は即答するだろう。

 

 実際、笠井は新聞と雑誌の連載小説を三本、新刊の執筆依頼も受けている。

 

 流行はやりに乗った作家には、人気がすたるその前に、書かせるだけ書かせて売りさばく。

 金の匂いを嗅ぎつけた、各社の担当編集者が同じ宿の一室で、笠井の原稿を待っていた。

 いや、見張っている。

  

 遅筆を自負する『先生』は、〆切までに書ける目安が立たなくなると、逃走する。

 行方をくらまし、連載に平気で穴を空けたりする。

 

 だから彼等は、経費を用いて笠井を宿に軟禁する。


 自社の分の原稿が手に入り次第、宿を発ち、入稿時刻に間に合わせるため、汽車に飛び乗り、上京する。

 誰かが宿を飛び出せば、取り残された側の苛立ち、不平不満は増長され、宿の女中が灰皿を変えても変えても、吸い殻が山のように積み上がる。


 笠井は窓を開けたのだが、階下の彼等の煙草の匂いが、笠井の焦りと閉塞感を募らせる。

 解放感は一瞬だ。


 それでも笠井は依頼があれば、引き受ける。

 書いて欲しいと乞われる時の優越が、笠井の理性を鈍らせる。

 まるで麻薬だ。

 目覚めてしまえば、快楽の何十倍もの後悔の業火ごうかに焼かれ、のたうち回る羽目になる。


「いっそ、散歩にでも出かけられたらよろしいのに」


 窓辺に佇む笠井の背後で、屈託のない声がした。


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