夜迷事

和泉 ルイ

夜迷事

かおるちゃん」

と私を呼ぶあの、甘い声を忘れられない。私の心の奥底を見透かすような大きな瞳も、さも当たり前のように腰に回った逞しい腕も。あの、煌びやかな夜の街で抱きしめあった熱を未だに手放すことができない。…その声で誰かを呼ぶのなら。それが誰でも良いのなら私であれ。と願ってしまうのはまだ、貴方を好いているから、だと。今日も私は、鳴りかけた鼓動の音に気付かないフリをした。


丁度このくらいの時間。御伽噺の魔法が解けて煌びやかな世界すら声を沈めて、人々

の意識が夜に溶けた頃。この時間が私たち、ふたりの時間だった。


誰もいないリビング。スマホから聴こえる甘い声。眠たそうに欠伸を零して、「まだ寝ない。まだ喋ってられる…」と駄々をこねる可愛いひと。…これは、始めから結末が決まっていた。始めから“始まり”などない恋。時間だけが進み、関係値は永久に変わらない。身体に篭った熱がずっと冷めずに苦しいだけで。もし、これが成就したとて誰か一人以上の人間が悲しみ苦しむもの。駄目だと知っていた。叶いもしない、こんな無駄こい持っていたって意味がないのに。…それでも貴方を想う気持ちを捨てきれない。なんて、なんて愚かしい。こんなつもりじゃ、なかったのに。


スマホ画面が明るくなって心を揺さぶる軽快な通知音が鳴る。

「お仕事、お疲れさま」

「あ、煙草会社に忘れちゃった」

「煙草、吸うんだね」

「吸うよ?知らなかった?」

知らなかった?…私、貴方のこと殆ど知らないの。


「電話しようよ」

「いいよ」

「五分待ってて。」

「わかった~」

「かけていい?…待たせてごめんね」


「今日通話は?」

「したいの?」

「…だめ?」

「大丈夫だよ」

「何時からできる?」

「いつでも」

「…かけていい?」

あんなにねだられていたはずの通話も、鳴っていた通知音も、いつしかぷつりと止ん

で。


「ねぇ、今日通話は?」と恐る恐る聞けば、

「もう寝るけど」と体温の感じない返事が返ってくる。

通知音の頻度が下がる度、私への関心が薄れていっていることなんて解っていた。こ

んなに好きにさせといて、興味がなくなったらポイだなんて、なんて酷い人。私はもう戻れないのに、この沼から抜け出すことなんて出来やしないのに。


誰もいない深夜のリビング。電気を点けることもせず、そこに滞在することもない。

貴方と会話するためにこっそり起きる習慣も、夜更かしをする癖もなくなって。来るはずのないメッセージを待つこともない。これでいいはず、なの。だってこれが“普通”なんだもの。

友達では足りない、でも恋人にはなれない。

始まりすらしていないまま終りかけているこの関係は、どんな言葉でも形作れない程、曖昧で柔で不安定で。都合のいい女にすらなり切れなかった私は一体何なのか。

『ねぇ、貴方にとって私ってなんなの?』と聞いてしまえたらどんなに楽だろうか!

これ以上突き放されるのが怖くていつまでたっても口にできやしない問いかけ。

『ねぇ、何で?なんで私だったの?こんなに早く正気を取り戻すのなら!一緒に落ち続けてくれないのなら!なんで手を出したの?…なぁんで…なんで、好きにさせたの…ねぇ、なんで』

冷たい色をしたリビングから見えた月は青白く私を見下している。

流れ星に願い事をしても、魔法使いに縋ってもこの恋が叶うことはないと知っていた。どう足掻いたって永久に。

…たとえ私が夫と別れても、貴方がまた私に興味を持ってくれる日はもう来ないのだから。



「恋人ができた」

「あんな、胸だけの女のどこがいいの?」

「お前が俺に怒るのはわかる。でも彼女に八つ当たりするのは違うだろ。」

「八つ当たり?事実でしょ」

貴方は知らないだろうけど、私の前であの女、胸の話しかしないのよ。マウントのつ

もりなのか知らないけれど。

「この会話は聞かなかったことにする。メッセージも全部消すから。」

…きっと不機嫌な顔で打ったであろうそんな文字たちが滲んで見えた。

貴方に貰ったメッセージ。良いも悪いも全て。私は一つも消せやしないのに、貴方は

簡単にボタン一つで消してしまえるのね。本当に、ほんっとうに、馬鹿な話。


人通りの疎らな夜の街角。見上げた貴方の瞳に映る火照った顔の私。初めてのキスの

味なんて覚えていない。そこにあったのは唇の柔らかさと湿っぽい吐息だけ。

「口、開けて」

いわれた通りに開ければ遠慮なく侵入してくる舌。上がる息。ねぇ、この時貴方は何

を考えてた?


寝かされたベッドの上で、貴方が呟いた

「綺麗にしてるじゃん」

それ、本音だった?

今はもう聞けない、言葉にできない問いかけだけが頭の中で反響して私をあの夜に留めてしまう。


翌朝カーテンから差し込んだ陽射しが眩しくて目を開ければ、隣ですやすやと寝息を立てる貴方がいた。部屋に散らばった下着やらシャツやら拾い上げては畳み、椅子に置く。まだ眠る貴方の隣に寝転べば、貴方は私を抱き枕みたいに抱き締めて。シーツの擦れる音がする。私より少し高い体温に安心した。


どれだけ、貴方に嫌われていようと、憎まれていようと。私はあのひと時を大事に大

事に抱えて生きていく。たとえ貴方が憶えていなくとも、あの夜を私さえ憶えていれば…。縁は繋がったまま、いつまでも。この関係に名前を付けてしまえば、後戻りできないと思っていた。けれど、名前を付けなくとも見逃せない程大きく成長してしまっていたこれはもう疾うに手遅れで。

「お幸せに、なんて言えないわ。私以外の女を愛でるだなんて残酷なこと、私の見える範囲でしないでちょうだい。」

せめて都合のいい女枠にでも私を囲って。私を貴方の“何か”に収めて頂戴。

一人きり誰もいない真夜中のリビングで独り呟いたそんな願いは誰に届くこともなく冷たいフローリングに落ちていった。


貴方と私の関係に名を付けるとしたならば。恋と書いて執着と読むのが相応しいと思

わない?ねぇ、どう思う?と聞けば

「キミ、面倒くさいね」

ときっと貴方は返すのでしょうね。

せめてこの熱が冷める《醒める》その時迄は…

小指で絡めとった糸の先に、貴方はちゃんと居てくれてる?

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夜迷事 和泉 ルイ @rui0401

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