雪景色、さよなら

あさの

雪景色、さよなら

 冬が好きだ。冬は、皆怒っているように歩く。人々に嫌われ、冷たい横目で詰られる冬! そんな冬が僕は一等好きだ。彼女に会うまで、そう思っていた。


 僕は、いつもの帰り道を歩く。中学から家までの帰り道だ。僕は良々橋(よしよしばし)という橋を渡る。この橋は僕にとって大切なところになっている。どう大切かというと……後で説明する。

 とにかく僕は家に帰っていた。家々からいろんな晩御飯の匂いが漂ってくる。冬だから、みんな、鍋やシチューなんかを食べるんだろう。そんな感じの匂いが空気中に漂っている。

 僕は帰りを急ぐ。今日は、やるべきことがあった。早く家に着かなければならない。いつもはゆっくり帰るけれど、今日は足早に冬が嫌いな人みたいになって歩いた。

 家に着くと、母さんが帰ってくる前だった。良かった、間に合った。手を洗って、僕は炊飯器に米を入れて炊いた。それから、玉ねぎを切る。玉ねぎを切るのは昔から僕の仕事だった。母さんは、切ると涙が出てくるらしい。僕にはそんな繊細な機能は備わっていなかった。

 母さんが帰ってきた。

「お帰り、玉ねぎを切っておいたよ」

「ただいま、ああ、助かるわ」

 そうして母さんはご飯の支度をする。僕は手伝わない。玉ねぎを切るのだけが僕の仕事だから。だから、僕は玉ねぎを切ることだけうまくなった。

 そういえば、松本はどうしているだろう? 元気だろうか? 松本とは、僕の友達でこの秋に市外に引っ越していってしまった。市外と言っても隣町だから、会えないことはないのだけれど、僕は松本に宛てて手紙を書くことにした。

 書くことなんてそんなになかった。元気か? 俺は元気。……それから、明日から転校生が来るらしいということを書いておいた。もしそいつが男子で、松本みたいに友達になれたらいいななんて希望を書いておいた(松本は僕にとって唯一の友達で、そのことを松本も知っていた)。

 手紙は夕食までに書き終えた。僕は夕食をとって(シチューだった)、出かける支度をした。僕は毎晩、良々橋で月の写真を撮っている。これが僕にとってこの橋が大切な理由だ。撮った写真は部屋に飾ってある大きなカレンダーに貼っている。

 松本に宛てた手紙と、カメラを持って出発した。川沿いを歩く。この方が近いんだ。次第に橋が近づいてきて、僕は少しぎょっとした。誰かが、橋の欄干に手をついている。身を乗り出しているようにも見えた。

「こんにちはー」

 びっくりすると、自然と挨拶してしまうのか、と思った。僕はその人(女の子だった)に挨拶していた。

「こんばんは」

 そうか、こんばんはというべきだったか。いやそんなことはどうでも……。彼女は橋の欄干に腰掛けた。

「危ないよ」

「そうかしら?」

「危ない、落ちたら寒いんだ」

「……そうかしら」

 彼女はひらりとこちら側に戻ってきた。

「あたし、明日からあの学校に通うの」

 あの学校、と彼女は橋の向こう側にある中学を指した。

「そう、僕もあの学校に通っているよ」

「何年生?」

「今二年だ」

「じゃあ同じ学年」

「そうか」

 僕は、この子が転校生かと合点した。

「あたし、散歩をするのが好きなの。その街のことが分かるから」

「……ふうん」

「今日は帰るわ。明日からよろしくね」

「うん」

 彼女は、初めから僕のことを知っているように話した。僕はそれが嬉しかったのだと思う。

 彼女に会った日は、カレンダーに穴が開いた。僕は月の写真を撮り忘れた。


「転校生だから、みんなよろしく」

 僕は、彼女を転校生として迎え入れた。でも、彼女のことは昔から知っていたような気がしていたんだ。でも、実際はそんなことはなくて、彼女が歌が上手いこととか(合唱の時間に分かった)、あまりご飯を食べないこととか(小食だった)、いろんなことが新鮮で、つまり鮮やかで、僕の心に色を足していった。

 彼女の名前は……。ここには書かないけれども、僕の心にしっかりと刻み込まれた。

 その夜、僕は良々橋に出向いた。いつもの通りね。そこには彼女がいた。僕たちは、昔からそうしていたみたいにこんばんはと挨拶して、橋の欄干に手をついて話した。

「あなたは歌が下手なのね」

「そう? でも、ギターは上手いんだ」

「そう? そうは見えないわ」

「今度聞かせてあげるよ」

「楽しみだわ」

「君は歌が上手いんだね」

「ありがとう。歌手になりたいの」

「きっとなれるよ……。一番にシーディーを買う」

「きっとよ」

「うん、きっとだ」

 僕たちは何の確証もない未来のことを主に話した。僕たちに過去はなかったし、明日なんて見ていなかった。僕たちには未来しかなかったんだ。

「明日もここへ来る?」

「どうしてそんなこと聞くの?」

「そうだね」

 明日の事なんてわからないのに。


 次の日彼女は欠席した。金曜だった。良々橋には来るかと思ったけれど来なかった。

 日曜の夜、彼女に会った。良々橋で。

「久しぶりだね」

「そう? そうかしら」

「そうだよ」

「私にはあなたに会っている日のほうが少ないもの」

「それは、そうだけど」

「私はあなたの事忘れちゃうと思うわ」

「どうして」

「ほかに覚えなきゃいけないことが多すぎるもの、そうでしょう?」

「僕は、君の事忘れないよ」

「どうかしらね」

 ほらね、僕はこの会話も覚えている。君を忘れることなんて、できないと思っている。君は、歌手になるという夢も忘れてしまったのだろうか?

「生きていれば、いろいろあるもの」

 君はこういうだろう。僕は、もうこの人生に何も起きなくてもいいと思っている。君に会えたから。……なんて、言うことはなかったけれど。

「作曲家にでもなろうかな」

「どうしたの、急に」

「僕の作った歌を、君に歌ってほしいんだよ」

「歌が下手な人って、作曲家になれるの?」

 彼女が本気で心配してきたから、僕は吹きだした。

「なれるさ……多分」

「それじゃあ、私も頑張らなくちゃいけないじゃない」

「一緒に頑張ろうよ」

「一緒には、難しいわ」

 そう言って、彼女はその日帰った。翌日、何事もなかったように登校した。


 彼女が来る日はまちまちだった。学校にも橋にも。学校に来ても橋に来ない日もあったし、その反対もあった。

 彼女は、冬が好きだといった。

「大抵、春になると新しいところへ行かなきゃいけないの。今回は稀ね。冬の間に来て、冬の間にいなくなるんだから」

「ずっと冬だったら、同じところにとどまれるのにね」

 僕は、このセリフに返す言葉を持ち合わせていなかった。


 永遠の冬。僕は永遠の冬を求めるようになった。北極にでも行けばいいと思われるがそういうことではなかった。つまり、彼女とずっと一緒にいたいということだ。

 彼女が来てから三週間が経っていた。冬もピークを越えて、終わりに近づいてくる。


「ねえ、どこかへ出かけようよ」

「どこへ?」

「どこでもいいよ、夜じゃないときに」

「あたし、図書館へ行ってみたいわ。大きい図書館」

「行き方を調べておくよ。必ず行こう」

「約束はしないことにしているの」

「どうして」

「どうしてもよ」


 冬が終わるのと、彼女がいなくなるのとでは、後者の方が早かった。彼女は年が明けてすぐに引っ越していった。図書館へは行かれなかった。

 僕は冬を恨んだ。冬を終わらせるすべてを恨んだ。


 必死に勉強をして、いいと言われる高校に入った。ここでも勉強をして、音大に入った。僕は作曲家を目指していた。

 音楽は好きだったけれど、好きと才能は別だということを知った。僕は音楽で食べていくのをあきらめて、普通に就職した。


 インターネットにはいろんな人がいる。曲を作る人、歌う人。僕は作曲をして、歌ってもらう人になった。

 聞き覚えのある声で歌う人がいた。彼女は、スウェーデンに住んでいて、日本人だという。

 時差の会話が続いた。こんな会話、覚えがあると思った。彼女じゃないかと思った。僕は、歌ってもらった曲を聴いた。ああ、あの日聞いた歌声だと思った。間違いがない。彼女は僕のことを覚えているのだろうか?

『僕のことを覚えていますか?』

『あら、誰かしら』

『……覚えているのですね』

『そう? そう思う?』

『あなたは忘れると言いましたよ』

『そう? 歌を作るパートナーが欲しいと思っているの。こちらへ来られない?』


 僕は、パスポートをとって彼女に会いに行くところだ。ああ、今空港に着いた。これから飛行機に乗る。手記はここで終えます。さよなら。

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雪景色、さよなら あさの @asanopanfuwa

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