鍵を閉める男

清原 紫

鍵を閉める男

 以来、私は鍵を閉めるのをやめた。


 都会、と辛うじて言いうる街で生まれた私にとって鍵は閉め忘れてはいけないものであって、鍵を閉めることは半ば義務として身についていた。概ねの人がそうであるように、鍵を閉めたかどうか思い出せなくなって焦ったことは数知れない。けれど、これから書こうと思う些細な出来事があってからというもの、鍵は閉めなくてはならないという強迫観念に似た刷り込みはすっかり漂白されてしまった。といっても、そんなに大したことを書くわけじゃない。きっと誰にでも経験のあることだ。どこどこの店がうまいだとか、月が綺麗だったとかそんな程度の。


 夏のぐらつくような太陽が影を潜め、秋を感じられるようなある日、職場の転勤が言い渡された。もともと地方に配属されて、このまま悠々自適に一生を終えるのかと、内心諦めていたときに都心への転勤が決まったことになる。と言ったって弊社は大きな銀行とかそういうのではなく、国内に3つくらい支社があるようなレベルだからそんなに緊張する必要なんてどこにもなかった。現実もその通りで、新しい職場への心配は人生への諦観が打ち消してくれていた。

 問題はむしろその支店のある街の方にあった。電車は常に満員で駅に降りれば人の波が絶えず流れている。その人々から発せられる体臭、視線、ときに罵声から都心というものを痛感させられる。職場はこの繁華街の隣に建てられた目立たないビルの一室。しかし人の心というのは面白いもので、この近くに住んでみたいという子供心にも似た非合理的な感情が芽生えた。その途端、こんな都心に人の住む場所などあるのだろうか? 相場はどれくらいなのか? という心配がふつふつと湧きたってくる。焦るようにして近くの不動産屋に入り物件を探してもらうと、ここから一駅行った先にそこまで高くなく、マンションタイプの部屋に空きがあると言われた。まるで残暑に当てられたように、あまり考えもせず二階に部屋を決めて、引っ越しを終えて、翌月から出勤をした。

 最初は繁華街が珍しくて店探しなどもしたが、それにもすぐに飽き、職場の仕事も以前と代わり映えはなく、すぐにまた諦観の念が心を浸し始めていた。


 諦めというと語弊があるかもしれない。かといって憂鬱というには、より堕落したその感情は幼少の頃からあった。希死という形すらとらないような、小魚の骨のような棘のように私の心にひっかかり、世界にはまるで色がなかった。そのため仕事の要領もよかった。ライフワークバランスのようなつまらない未来への杞憂はなかったからだ。会社がどうなろうと、我が身がどうなろうと、どうにかなるし、どうにもならなくなった時は死ぬ時だから。女が興味のない相手に相槌でも打つように、私は自分の人生というものに無関心だった。したがって私の人生はほとんど幸福と呼ぶに相応しい。不幸な人々は自分で自らの首を締めあげる人々と同義だ。


 いつもの「仕事」と呼ばれるルーチンワークを終えて帰宅すると、集合ポストの鍵がかかっていた。ダイヤル式のその鍵はいつもかけていなかった。自分宛ての手紙などDMを除けば無いに等しいからだ。それでも振込用紙の類いが入っているとも限らないので確認は欠かせない。忘れかけていたダイヤルを回すとポストに数通の紙切れが入っていた。配達員か誰かが気を効かせて閉めてくれたのかもしれない。余計なことをする人々にはうんざりだ、そう思いながらポストの鍵はまた開けっ放しにして部屋にもどった。


 翌日、帰宅し、ポストを見るとまた鍵がかかっていた。しかし今回は奇妙なことになかを開けてもなにも配達されていなかった。ステンレスの鈍い光を反射したがらんどうのポストをじっと見つめ、ゆっくりとポストを閉めた。今回も鍵はかけない。少し意地のような感情があった。私は鍵を閉めない。閉めるやつがいるなら、毎回そいつに閉めさせてやろう。


 その次の朝、出勤前にポストを確認してみた。まだ荷物や手紙の配達が始まる前の時間だ。この時間ならポストの鍵は開いていると踏んだからだ。しかし予想に反して鍵はぴったりと閉まっていた。急いで中を開けてみるが、まるで当然のように空だった。自分の下着が盗まれたような気持ち悪さを感じる。どこかから誰かに見られているような、生暖かい不気味さを感じてそれを拭うように会社へ急いだ。もちろん鍵は開けたまま。


 終業の時間になると私は一目散に帰宅した。この時間ならまだ鍵が空いているかもしれないとなかば必死だった。しかしこの思いは見事に裏切られた。何者かが鍵を閉めているのだ。それも昼夜問わず。可能ならばここに防犯カメラを設置して確認したかったが、集合住宅であるからにはそんなことはできないし、その理由も「毎回、鍵を閉める人がいるのです」では弱かった。弱いというよりも、誰も納得してくれないだろう。


 仕事がある以上は見張っているわけにも行かない。なら休日に? とも考えたが、数時間おきにポストを確認するのも奇妙だった。だがそもそも、なぜ誰がこのようなことをしているのだろうか? 考えられるのはこのアパートの管理人くらいだが、顔さえろくに見ないような関係なのだから彼が律儀に鍵をかけているとも考えづらい。

 頭がぐるぐるする。誰かの悪意にさらされているほうがはるかにマシだ。こんな些細なことでなぜ神経をすり減らさなければいけないのだろうか。このまま無視するのがいいのだろう。普通に鍵を閉めればいいのだ。なにも無理してまで開けっ放しにしておく必要などない。そう言い聞かせても、このぬめりつくような感覚は私にまとわりついて離れなかった。


 そんな夜を過ごしたせいか、会社の昼休みになって、ふと自宅の鍵を閉め忘れたことに気がついた。バックの中の鍵は昨夜と同じ場所に入っていた。ため息がもれる。マンションの一階にはオートロックがついているから、そこまで心配しなくてもいいだろう。そう言い聞かせて、なんとか仕事をこなす。それでも明らかにミスを連発し、同僚から心配された。


 体調が悪いことにして、少し早めに帰宅すると部屋の鍵は閉まっていた。押しても引いてもびくともしない。ぎょっとして、ドアから離れる。強盗などが入っていて、内側から鍵をかけているのかもしれないと思ったからだ。しかしなんの物音もしないので、バックから鍵を出して開けるとカチャリという音がやけに響いた。

 ドアの隙間から室内をのぞき込み、まるで自分が侵入者にでもなったかのように脚を踏み入れるがなにも変わりない。鍵を閉め忘れたという記憶の方が間違っていたのだろうか……幸いにして、明日は休みだ。酒でも飲んで寝てしまおうと、普段はあまり飲まない酒をあおって寝てしまった。


 深夜になって、どこからともなく目が覚めた。たぶん酒が睡眠の質を悪くしたのだろう。冷蔵庫をあけてミネラルウォーターを探すが、あいにくとなかった。やれやれと思いながら、部屋を出た。すぐ近くの自販機にある。


 階段を降りていくと、1階の方で懐中電灯のような光がちらりちらりと光っている。人感センサーが反応して、一気に照明がついた。すると集合ポストのところに一人の男がいた。小太りで大きな黒い荷物を肩からかけていた。そしてその男はこちらに一瞥さえくれずに、ポストの鍵の一つ一つを確認していた。


 ぼーっとしていた眠気が吹き飛んだ。こいつが鍵を閉めていたのだ。もちろんこいつは管理人ではない。返答次第では警察につきだそうと思い、声をかけてみた。

「ちょっとそこ人!」呼びかけたが、反応がない。聞こえない距離ではないから無視されたのだろうとは思うが、その無視の仕方はまるで私が別の人間に話しかけているのを邪魔しないようにしているような仕方だった。もう一度、声をかけると男はこちらを振り向いた。私よりも年上だろうか……背は低く肉付きがよいが、決して太っているわけではない。そして背中には今どき見かけないような円筒形の巨大なリュックを背負っている。もとは黒かったであろうそのリュックはところどころ色あせていたが、丁寧に補修された跡が散見される。

 私は言葉を続ける。


「なぜそんなことをするのですか?」

 私には全く理解ができなかった。すくなくとも郵便受けのなかのものを漁ったり、なにかをくすねたりする様子はなかったからだ。彼はまるでルーチンワークのようにそれを行っていた。彼の動きには無駄がなく、運転手が前方を指差し確認するように、いたって「自然に」それをするからだった。その姿には威厳さえ感じられた。

「なぜって、これが私の仕事だからです」彼は事務員の厳格さを携えて答えた。

「けれど、このアパートの管理人でもなければ、誰かから頼まれているわけではないですよね?」

「もちろん。その必要はありません」

 その必要はない? 彼の言い回しが妙に気にかかる。

「ここは私有地ですし、勝手に入って来ては困るのです」

 彼はまるで的外れな指摘を受けたように、面食らったような表情を浮かべ、短く刈り上げられた白髪のまじった髪に手をやった。

「実際に私がなにかあなたに害を加えていますか?」

 彼は怒った様子でもなく、自分はあたかも潔白であるかのように言った。

「私は鍵が閉まっているといちいち番号を回さないといけないのです」

「でも、開けっ放しにしておいたら良からぬ輩があなたのポストを荒らすかもしれませんよ」

「それは、確かにそうですが、どうせうちに届くものは大したものではありませんから」

 男はまた髪に手をやって、少し考えるように間を取ってからきっぱりと、こう続けた。

「そうですか………けれど、私はこの仕事を止めるつもりはありません」

「では、私のポストをスキップしてはくれませんか?」

「それもできません。例外を作りたくないのです」

「そこをなんとか」

「では、家の鍵はどうですか?」

「家の鍵?」

「そうです、あなたは今日鍵をかけ忘れて家を出ませんでしたか?」

「確かにそんな気がしましたが、帰って来たら閉まっていました」

 私はそう口にしてから、ぞっとした。そして彼の口の動きをよく見ようと目を凝らした。

「それは私が閉めたのです」

「でも、オートロックが…」

 彼はオートロックの前でなにかすると、自動ドアはかしゃりと音を立てて空いてしまった。


 私はあいた口が塞がらなかった。

「これでも、私は迷惑でしょうか?」

「鍵は……?」

 と言うと、彼はそれを魔法のように手の中に表した。それがうちの鍵であるかは分からなかったが、そしてそう言えば試せたのだろうが、そんな気は失せてしまった。あまりにもそれは自然で、雨が葉を濡らすように普通に私の前に起きたことだったからだ。その沈黙を彼は肯定と見なしたのか

「私はまだ仕事があるので」

 と言い残して去っていってしまった。


 以来、私は家の鍵を閉めるのをやめた。

 しかしこの話にはまだもう少し付け加えなければならないことがある。彼と遭遇してからというもの、私は開き直ったように鍵を閉めるのをやめた。最初は不気味だったが、オートロックだと思えばいいのだ。出勤のときも鍵を開けておけばいいし、コンビニでさえ鍵を閉める必要はなかった。もちろん鍵を持っていかなければ締め出しをくらってしまうから、慎重に鍵だけは持って歩いた。しかし奇妙なことに、鍵を持たずに部屋を開けたときに限って、部屋の鍵は閉められていなかった。まるで鍵を持って歩くことがなにかの符丁のように感じられたし、もしかすると、彼は人に害を与えることができないのかもしれなかった。


 いずれにしても、彼の弁明は正しかった。誰にも害を与えてはいないのだ。私はすっかり安心してこの奇妙だが、誰にも害を与えない事態を受け入れた。季節が夏から秋へ、そして冬にさしかかった頃にはオートロック式の鍵の存在を意識しなくなるように、私は彼の存在も意識しなくなっていた。その日も鍵はかけずに出社した。冬が深まり、昼くらいからひどい大雪が降った。退社時刻になると大雪で電車がストップした。一駅だから歩いて帰ろうかとも思ったが、窓の外ではまだ雪が降り続いていた。記録的な大雪。

 一夜を会社で明かすと、その日は休業ということになったので、電車が動き始めた昼過ぎに帰路についた。部屋の鍵を確認すると開いていた。さすがの大雪では彼も鍵を閉められなかったのかもしれない。そう思うと、どこか彼に愛着を覚えた。


 次の日も鍵を開けっ放しで家を出た。そしてその次の日も。雪はすっかり溶けてしまったが、それでも鍵は閉められなかった。その日を堺にポストの鍵も家の鍵も閉められることはなかった。そしてまた私はいつも通りに家の鍵は閉めて、ポストの鍵は開けっ放しにしている。時々、ポストを見る時に鍵が閉まっていないかと思いながら。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鍵を閉める男 清原 紫 @kiyoharamurasaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ