第64話 愛という名の救済

 なぜ、その人の姿が浮かんだのかは分からない。

 ただ、走馬灯が兄や母、翡翠でもないことに驚いた。


 死という恐怖が差し迫るなか、それでも尚その人のことを思い浮かべてしまうのは……。

 その人のことを想ってしまうのは――


 やはり、自分が彼に恋慕しているからだろう。


「今日、ここで死んでいただきます」


 冷然とした死の宣告が、室内に冴え渡る。


 最期に、一目だけでもいいから彼に会いたかった。

 また、あの吸い込まれそうな美しい紫瞳で見つめて欲しかった。

 優しくて穏やかな笑み、声、眼差し、触れる手を自身に向けて欲しかった。


 本当は、あなたに懸想することすら許されないのに。

 あなたが、こんなわたしに想いを返してくれるはずがないのに。

 それでもわたしは、分不相応でありながらもあなたを想わずにはいられない。

 想いを、抑えることができない。


 ――理玄様……。


 白琳が心の中で愛する者の名を呟いた時。

 瑠璃の双眸から愛惜あいせきの雫が流れた時——




「白琳殿っ‼」




 不意に求めていた声音で呼ばれ、白琳は大きく目を見開いた。そして、一瞬息をするのも忘れてしまった。


「理玄、様……?」


 今度こそ愛する者の名を音にした時、その者は見知らぬ男性と共に眼前に佇んでいた。


「なっ……!」

「殿下⁉ なぜここにっ!」


 切っ先を虚空に向けたまま稟玫が驚いた表情で理玄たちを振り返り、鶖保もその糸目を瞠る。六将軍やその麾下たちもこの場にいるはずのない人物の到来に、すぐ対処できなかった。


「と、取り押さえっ――」


 鶖保が六将軍たちに指示を下す前に、理玄は六将軍の一人を瞬時に昏倒させた。秋冷ももう一人を戦闘不能にする。

 圧倒的な実力を前に六軍兵や鶖保が怖気づいているなか、最後の六将軍が剣を抜いて秋冷に襲いかかった。秋冷が即座に迎え撃ち、きん、と鋭い金属音が室内に残響する。


 彼が六将軍を引き受けている間、理玄は動きが鈍っていた六軍兵と鶖保に手刀を打ちつけ、強制的に眠らせた。

 形勢逆転に稟玫は舌打ちしてすぐに加勢する。美曜と梟俊、それから白琳を拘束していた兵たちも彼女たちを突き放して稟玫に続いた。


 ――この侍女も敵勢力にくみしていたのか……!


 理玄は内心一驚しつつも、稟玫の横薙ぎを寸前で躱す。

 華奢な女性とは思えないほどの素早い剣捌きに、理玄も苦戦を強いられる。


 ――まず先に兵の方を片付ける!


 理玄は急速に姿勢を低くして、稟玫の足元を狙って回し蹴りをお見舞いする。そして、彼女が体勢を崩した隙に兵たちを掌底、あるいは腹部を足蹴にして壁に叩きつけた。

 兵全員を伸した瞬間、またもや凶刃が背後から振り下ろされる。


「くっ……!」


 休む間もなく戦い続けた疲労が祟り、上手く避けきれず二の腕に裂傷ができてしまった。


「理玄様っ!」


 解放された美曜の助けを借りて、何とか体を起こした白琳が叫ぶ。

 ひりひりと焼けつくような痛みに顔を歪めつつも、理玄は刀を構え直し稟玫への攻撃に専念した。


 ――躊躇ためらってはいては駄目だ。


 このままではこちらが殺られてしまう。

 今までは罪なき者を傷つけまいと、彼らが血を流さぬよう穏便に事を済ませてきた。だが、今回はそうはいかない。


 彼女の身のこなし、そして剣術の切れを一目見て分かった。この侍女は、先ほど一階で戦った者たちと同じ、影の存在なのだと。

 身動きが制限される室内――それも、調度品が障害となる手狭てぜまな空間でさえ、今対峙している少女は機敏に動く。それこそ、紅鶴との修練を彷彿とさせた。


 ――力の強さなら、彼の方が私より格上だろう。


 単純な力比べでは、どう足掻いても女性は男性に負けてしまう。稟玫もそれを分かっているからこそ、理玄の攻撃は全て躱すか剣で受け流していた。それを繰り返すことで理玄の体力を奪い、隙を見て仕留めるのが稟玫の算段だった。


「理玄様……」


 突きつけられた激戦をはらはらと見守ることしかできず、白琳は苦悶する。

 神経毒も悪化はしていないが、まだ全身が痺れていて思うように体を動かせない。


「陛下、ここは危険です。殿下方が注意を引きつけてくださっている間に、一旦執務室を出ましょう」

「梟俊様の言う通りです。私が御体を支えますから」


 梟俊と美曜が白琳の元に駆け寄り、避難を促す。だが、白琳はかぶりを振った。


「いいえ。理玄様たちをおいていくわけには……」


 それでも美曜は問答無用で白琳の腕を自身の首に回した。


「美曜⁉」

「お気持ちは分かります。ですが、ここにいては確実に巻き込まれてしまいますし、何より殿下方も貴女様に何かあれば御心を乱されるでしょう」


 あの方々は、他でもない貴女様を助けに来てくださったのですから。


 美曜と同じ方向を見ると、両者一歩も譲らず鎬を削っている理玄と稟玫の姿があった。普段は戦闘において汗一つかかない秋冷も、今は疲弊の色を滲ませて攻防している。


「殿下方の想いを無駄にしないためにも、ここは御自身の安全を第一にするべきです」

「……分かったわ」


 ここは美曜と梟俊の意向に沿うべきだと判断し、白琳は彼女たちの手助けを得てゆっくりと立ち上がる。

 両足が痙攣けいれんするように震えるが、それでも何とか己の体を叱咤して急ぎ早に執務室の扉へと向かう。


 しかしそこで、ちゃきと微かに金属音がした。

 白琳が音のした方へ視線を寄せると、そこには近くに落ちていた剣を手にして苦しげに上半身を起こす鶖保がいた。

 その眼は血走っており、獣の如く荒い呼吸を繰り返している。


「あの男、許さんッ……! 私の計画を邪魔しやがってッ‼」


 はっとして白琳が理玄に顔を向けると、彼は稟玫との死闘に意識を集中させていて、鶖保の敵意に気づいていない。そもそも、気づくだけの余裕が疲労困憊こんぱいの彼には無かった。

 鶖保は射殺さんばかりの血眼で理玄を睨み据え、遂に剣を掲げた。


「理玄様っ‼」

『陛下!』


 美曜と梟俊の制止を振り切って、白琳は咄嗟に理玄の元へ駆けだす。

 必死に己を拘束しようとする身の内の毒と戦いながら。


 ――お願い、動いて!


「死ねぇッ‼」


 空を切る音と共に凶刃が一直線に飛ぶ。

 その音にようやく理玄が気づき、迫りくる脅威に目を向けた瞬間――

 すぐさま視界が純白に染まった。


 そして、肉をえぐる生々しい刺突の響きが、自身の鼓膜を強く打った。

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