第44話 不穏な影

 思わず白琳は顔を上げた。


「え?」

「想いは言葉にして初めて相手に伝わる。それを君が証明してくれた。会談の場で懸命に想いを伝えてくれたから、俺は頑なに拒絶する必要は無いのかもしれないと思ったんだ。現に、君の主張にはちゃんと説得力があった」


 俺だけじゃなく、あの場にいた他の者もきっと心動かされたはずだ。


 理玄は立ち上がり、白琳の小さな頭を優しく撫でる。


「だから、そう自分を責めなくていい」


 君は自分の意志や想いをもっと誇っていいんだ。


 その大きな手から伝わる熱が、とても温かくて心地よかった。


「ありがとうございます……」


 また視界が潤んだが、これ以上理玄に気を遣わせてしまってはいけないと必死に堪えた。


「あまり気の良い話は出来なかったが、それでも改めて君と話せて良かったと俺は思う」


 ありがとう。


 自責と悲嘆の深淵から引き上げてくれた言葉、声音、眼差し、触れる手——。

 白琳に与えてくれた全てが穏やかな温もりに満ちていて。

 己の鼓動が僅かに速まり、少しだけ顔が火照ほてったように感じた。


「それと、君たち王族が持つ呪いについてもこちらで少し調べてみる。鳳凰に聞けば何か解決策が見つかるかもしれない」

「……! 本当に、何と御礼を申せばいいか……」

「君はここに来てずっと恐縮しきったままだな」

「えっ! あ、その……」

「まあ、無理もないか」


 苦笑しながら、理玄は手を差し伸べる。


「そろそろ戻ろう。きっと、君の護衛が痺れを切らして待っている」

「は、はい……! そうですね」


 慌てて平静を取り繕い、白琳は差し出された理玄の手に己のそれをぎこちなく乗せ、腰を上げた。

 その刹那、理玄は瞬時に王——いや、護衛としての鋭い目付きになって、後方の秋光殿に繋がる回廊を振り向いた。


「理玄様?」


 ——今、一瞬足音が聞こえたような……。


 何者かが急いで去っていくような足音。

 それも聞こえるか否かのごく小さな音だった。


 ——官吏たちや女官であればもっと堂々と音を立てるだろう。そもそも足音を消す必要など無い。


 まるで、自分の存在をこちら側に勘づかれたくないとでも言っているかのようだ。


「あの、理玄様? どうかされましたか」


 ようやく白琳がこちらを案じていることに気づき、理玄は先ほどの穏やかな笑みでかぶりを振る。


「いや、何でもない」


 ——何にせよ、用心するに越したことはないか。


 改めて周囲を警戒しながら、理玄は白琳と共に秋光殿に戻った。




   *****




 ——危ない。もう少しで姿を見られるところだった。


 吹き抜け回廊の曲がり角にある朱塗りの柱を背に、その者は秘かに安堵の息をついていた。二人の王が殿内に入って反対方向に戻っていくのを確認し、引き続き気配を消して颯爽とその場を後にする。


 ——まさか、金桂君ともあろう御方がここまで察知能力に長けていたとは……。


 六将軍と遜色ない鋭敏さに舌を巻きながら、急いで待ち合わせの場所へと向かう。

 銀桂一行にあてがわれた客室から少し離れたところにある人目のつかないところで、かの者の主は佇んでいた。


「して、首尾はどうだった」

「とても仲睦まじいご様子でした。金桂君は陛下に心を開いておいでのようで、懐柔されつつあるかと」

「そうか。確かに、あの容姿と人を惹きつける声音、気勢は魔性とも言える。それに、まさか和平だけに飽き足らず、国交の整備や桂華国再興まで企んでおられたとは思いもしなかった。こればかりは想定外だ」


 兄君同様実に厄介極まりない、と主は吐き捨てる。


 細面で痩躯の男――。表面上は大人しく冷静沈着としているが、その本性は残忍で狡猾だ。


「どういたしますか。鶖保様」


 初代銀桂君が索敵や諜報、また御内の謀反の対処を専門として秘密裏に組織した隠密部隊〈ちん〉。

 毒鳥の名を冠した影の組織を束ねる御史大夫は、顎に手を添えて思案する。

 王と御史大夫の影であるその者たちの存在は、その秘匿性から王以外の王族や他の三公、官吏たちに知られていない。代々〈鴆〉を受け継ぐ現王の白琳ですら認知していなかった。


「帰国次第、すぐに行動に移す。お前も準備しておけ」

「畏まりました」

「やっと、お前も本懐を遂げられるな」

「……はい」

「偵察ご苦労。もう戻ってよい」

「は」


 部下が踵を返し、持ち場に戻っていくのを確認した後、鶖保も自身にあてがわれた部屋へと向かう。


「銀桂と金桂が交じり合うことなど断じて許さぬ。我が国の繁栄と我が家族のためにも——」





 女王陛下、貴女には死んでいただく。





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