第3話 幼馴染の決意
白琳たちは梟俊の先導の元、外朝の中央に位置する
鸞桂殿の最上階には即位の儀専用の露台があり、その下は白砂で埋め尽くされた広場になっている。広場は式に参列した貴族や民衆が集う場で、王の即位と宣誓を直接見届けることが出来た。
本来なら、広場は大勢の民でごった返して喧騒に満ちるはずだ。しかし、今は露台の前に辿り着いてもそれほど人声は聞こえてこない。
理由は明白。前例のない女王即位に、大多数の国民が不信感を募らせ、反対しているからだ。ここに集まった者は恐らく、男性女性問わず新王の御代に期待を膨らませる者や、男尊女卑の風潮に固執せず、偏見を持たない者。そして――
〈傾国〉の異名を持つ妓女の娘を一目見ようと、興味本位でやってくる者だろう。
白璙がやってくる前まで、白琳が自信を持てずに顔を伏せがちにしていたのは、この出自も原因にあった。
後宮内では下賤な妓女の娘。あるいは、王を籠絡した悪女の娘。宮廷内では、先王・
それらの肩書は、良くも悪くも周囲の目を引いた。ゆえに、幼い頃から白琳は凄惨な環境下で育ってきたのだった。
改めて、白琳の身に緊張が走る。僅かに手が震え、足も
――わたしはこれから女王になるのよ。
怖気づいているようではだめ……。
そう言い聞かせても、体は言うことを聞いてくれなかった。
一歩踏み出すのが怖い。民がどんな眼差しで自身を見つめるのかと思うと、恐れを抱かずにはいられなかった。
すると、背中に優しく手が添えられる。はっとして隣にいた人物を見上げると、白璙が柔和な微笑を湛えていた。
「落ち着いて。ゆっくり深呼吸するんだ」
言われた通り、白琳は自身の胸に手を当てて大きく息を吸い、吐き出す。
「大丈夫。僕がずっと傍で見守っているから」
今にも倒れてしまいそうな心許ない痩躯だが、玻璃のように透き通った瞳は生気に満ち溢れていた。白光の如き逞しく美しい眼差しが、白琳に纏わりついていた暗影を霧散させる。
「ありがとうございます。お兄様」
白璙に送り出されて、白琳は一歩を踏み出す。自分でも驚くほど、自然に足が動いた。
白璙は翡翠に誘導された席に腰を下ろし、梟俊から事前説明を受けている愛しい妹の背を見つめる。そして、しみじみ思う。
――ああ。本当に、立派になった。
まるで、成長した雛鳥が巣立っていくのを見届ける親鳥のように。
「……
「はい。きっと」
翡翠が首肯すると、白璙も笑みを深めながら言う。
「翡翠。僕が死んだら、あの子のことを頼んだよ」
「何を仰いますか。そう易々と死ぬだなんて言葉、口になさらないでください」
「本当のことを言ったまでだよ。僕はもうじき、病に喰い潰される」
悲哀を帯びた翠緑の双眸がこちらに向けられる。けれど、白璙は白琳に向けている視線をそのままに続けた。
「人はいつか死ぬ。それだけは万人に対して等しい。でも、その死が訪れる瞬間は遅い者と早い者とで異なる」
少なくとも僕は、お前より早く天に召されるだろう。
平然と呟く白璙を大声で叱りつけそうになった。しかし、もうすぐ数十年に一度の大事な式典が始まる。ここで事を起こすわけにはいかない。
両の拳を強く握りしめて葛藤する幼馴染。白璙は真剣な面持ちで翡翠を見上げる。
「だから翡翠。僕の代わりに白琳を守って欲しい」
これは、王子としての最後の命令だ。
病人とは思えないほどの覇気と威厳を伴った声音に、翡翠は息を呑む。と同時に、最後の命令と聞いてやるせない想いに駆られた。
それでも主の厳命に応えるために、翡翠はすぐに表情を引き締めて片膝をつき、拱手する。
「王子殿下の仰せのままに」
白璙は口角をあげて、「ありがとう」と幼馴染の肩を軽く叩いた。
「お前になら安心して白琳を任せられる」
その言葉の真意を測りかねて翡翠が小首を傾げると、白璙はいやに口の端を吊り上げて言う。
「好いているんだろう? 白琳のことを」
図星だったのか、翡翠は「なっ!」と瞬く間に顔を赤らめる。その変容ぶりに白璙は朗笑した。
「隠しているつもりだったんだろうけど、僕の目は誤魔化せないよ」
「……いつから気づいておられたんですか」
「無論、子供の頃からだ」
「…………」
翡翠は片手で顔を覆う。耳元まで赤くなっているのを見て、白璙は益々愉悦した。
最愛の妹の方へ再度目を向けると、彼女は民衆の前に姿を現わすその時を待ち、毅然と佇んでいた。
「白琳がお前の想いに応えてくれるかどうかは別として、早めに自分の気持ちをあの子に伝えておいた方がいい」
王族との繋がりを求める有象無象がそこかしこにいるから。
一段と低い声音で呟いた一言に、翡翠ははっとする。
白琳には次代の王となる世継ぎを産む義務がある。となると、高官との婚姻を推し進められる可能性が高い。当然自分もその候補に当てはまるが、権力や地位に執着する卑劣な奸臣が我先にとこぞって白琳に
――もし、白琳様がそんな連中の手に捕まってしまったら……。
翡翠は拳を握り、歯噛みする。
「翡翠なら心の底から白琳を大切にしてくれる。男社会のなかで四苦八苦するだろう彼女にとっての心の拠り所となってくれる。だから僕は唯一、お前になら大事な妹を任せられると言ったんだ」
「……ですが、白琳様が私に御心を向けてくれるとは限りません」
それに、もしかしたら今後別の者に心惹かれるかもしれない。
そうなったら嫌だとあからさまに苦悶の色を浮かべる翡翠。兄弟同然のように育ってきた幼馴染の幼さが垣間見られる一面に、白璙は愛おしさを覚えながら答える。
「まあ、その時は仕方が無い。僕も白琳の気持ちを一番大事にしたいし」
実を結ばなかったら、僕がお前の元にやって来て慰めてあげるよ。
それは自分が息を引き取った後のことだと、言外にほのめかしていた。
翡翠はまたやるせない想いに駆られた。
――
そんなことを仰らないでください。
貴方はまだ天に召されません。
これからも白琳様をお支えしていくのでしょう?
段々と近づいてくる主の死を否定したかった。しかし、いくら否定の言葉を連ねたところで彼の運命は変わらない。それに、白璙も翡翠たちを困らせたくてわざわざ自分の死が近いことを口にしているわけではないのだ。
ぐっと拳を強く握り、翡翠は苦笑を浮かべる。
「では、御言葉に甘えることにします」
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