短編集:余白

伊草いずく

掌編

荒天

「んお」


 ある雨の日。

 昔の人類ヒトたちの感性を知ろうとふと思い、環境再現装置と自分にエミュレータを入れて広げてみたところ、なんだかやたらとカクカクした世界に取りまかれることになってしまった。


 降り落ちる雨粒の輪郭はあいまい。明灰色のはずの雲はグラデーション抜きの白に近く見え、絶え間なく打たれる肌からの刺激情報は途切れ途切れであるかのように感じられる。

 そして何より、


 ざーーーーーーーーーーーーーーーー。

 あーーーーーーーーーーーーーーーー。

 うーーーーーーーーーーーーーーーー。


 一帯に響いている雨音。

 一様感――または単音感、と表してもいいか――がものすごい。

 降り方に合わせて、せいぜい五つぐらいの音階で鳴っているかのように聞こえる。


「これ聴覚系の入力であってるよな……? めっちゃざっくりしとるんですが」


 そう呟く自分の声も何というか、ふわっとして細かいところが聞き取れない。

 “解像度を下げまくったデジタル×処理速度を下げまくったハード”という例えで表せなくはないけれど、それだとニュアンスが全然違う。


 たぶん、処理回路が有機優位ウェット一〇〇%で、なおかつ機能不足であるせいだ。


「すごいな。感覚器ハード処理系クロック、どっちも状況をさばくスペック持ってないから、アナログなのにデジタル、みたいなよくわからん印象フィーリングが来てんだ」


 ちょっとしたセンスオブワンダーである。

 機能を落とした有機優位素体ウェットなんて、需要がないから誰も作らないし乗りもしない。人類型じたい素体の中ではあんまり人気がないから、余計知られてないのかもしれない。


 ざん、ざん、ざーーーーーーーー。

 ざあっ、ああーーーーー。

 うわあーーーーーーーーーーーーーー。


「この何というか、圧倒される、みたいな感じ……。私は嫌いじゃないけどな」


 感覚器の方が処理系より優位に働いているのだろう。

 要は処理渋滞ビジーが発生しているわけだけれど、有機優位一本で起きているせいか、あんまり気分がささくれ立たない。


 ……いや、違うかな。処理系の質の違いだけじゃなくて、入力される情報の質との相性もあるのかも。

 つまり、あれだ。翻訳――形式プロトコルの合わせが要らない処理系で出てくるスムーズ感。あれみたいなフィットの感触が、周囲と身体の間で起きてる、というか……。


 うん、悪くない。


 そう思った私は、少し情報処理に集中してみることにする。



 ざーーーーーーーーーーーーーー………………。



「…………」


 何とはなしに視覚を閉ざし、時間をかけて感覚を続ける。すると、少しずつ意識がこの感受形式フォーマットに馴染んでくる。

 といっても、情報が飽和した状況が改善されるわけじゃない。

 世界を理解しきれない……そのに慣れてくる、というだけだ。


 自分がとてつもなく無力に、矮小になったような感覚。

 環境は大きく、解釈も操作も不可能な複雑系としてあって、激流に呑まれた木の葉のように、何も出来ずに運ばれていくような思いを味わう。


 その感触に洗われている内に、いつしかメタ的な認知が自分の念頭からこぼれ落ちる。

 望んでダウングレードされた感覚の中にいること、演算エミュレートを行っている上位階層の自分が別にいること、それらの情報が“私”から切り離されて、私は孤独になる。


 それは初めての体験だった。

 小さい頃、独りになりたくて完全自閉を試した時に夢見ていた状態にそれは近く、そして遠い。

 想像通りだったのは、そのオフラインぶり。

 想像と違ったのは、


「……こわ」


 不可逆性を伴って深まる、絶望感。


 ざーーーーーーーーーー。

 ざーーーーーーーーーーー。

 ああーーーーーーーーーーーーー。


 何も出来ない。何にも及ばない。

 私は私で、欲望の大きさは変わらないのに、世界の方は、大きく怖ろしく充溢している。

 退屈は嫌い。快楽が欲しい。知りたいこともやってみたいことも沢山ある。

 なのに何もままならない。

 これからもきっとそうだ、という確信だけが、降る雨と共に私の思考に染み込んでくる。


 昔の人類ヒトは、“そんな風”だったからこそ文明を進展させた、と教わっていた。

 そんなもんか、まあそうだったんだろな、とその時は納得したけれど、今は違う気分だった。


「……こんなんじゃ、どこにも行けなくない?」


 耳朶を打つ雨音は依然として大雑把な五段階変音のまま。

 空はただ白く、雨滴は宇宙起源にうたわれる大滝よろしく滂沱。


 冷えた身体でぬかるみを踏みしめ、にぶい意識を濁流の向こうへ辿り着かせるだなんて、到底出来ることじゃないように思えた。


 ダウングレードのせいだろうか。それとも、思ったよりその認識は私にとって致命的なものだったのか。


 希死念慮というやつが降ってくる。

 死んだ方が状況が楽になる、という幻覚に包まれる。


 ――ヤバいか、これ?

 

 そう思いつつも、どうしてかもうしばらくこの場に留まっていたくて、困り果てる。

 何だろう、この気持ち――。


 処理速度の落ちた頭が、一番近い言葉をどうにか見つけ出す。


 ――“待ちたい”


 いや、何を。

 何かする以前に感じることさえままならないこんな世界で、何を待つというのか?


 わからないまま、空を仰ぎ続ける。

 増えていく身心への負荷で、精神が破綻しそうになる。


 ――そろそろ保たない。


 頭の隅に追いやられて、それでも余地メモリを割り当てられていた判断力が、自分自身の限界を予感した、その時。


 ざあーーーーーーーーーーーー。

 あーーーーーーーーーーーーーーー。

 あ――――――――――――――――――。


「――あ」


 ふと、声が漏れた。


 その声がはっきり聞こえた。

 身体の内側を反響した結果としてではなく、大気を震わせた囁きの帰結として。


 荒天は続いていた。

 豪雨は未だ世界に満ちていた。

 なのにそれまでの雨音、五つの音階は途絶えていた。


 代わりに、を、私は聞いていた。

 静まりかえった世界で、を、私は聞いていた。


 ごおーーーーーーーーーーーん。

 こおおーーーーーーーーーーーーーん。

 おおおおーーーーーーーーーーーーー、――――――――――ん。


「なんだ、あれ」


 思わず呟いていた。


 知らない何かが空にいた。

 長い胴、背びれ、牙の生えた口元、長い一対のひげ。


 大きい。規模を考えるのもばからしくなるほど。

 私が元の私に戻れば、測定はきっと出来るだろう。

 でも、そうすることに意味はないと感じた。

 これは今だけのものだからだ。、私にとって適切な大きさを取っているだけのものだからだ。


 おおーーーーーーーーん。

 うおおおーーーーーーーーーーん。


 それは悠々と空を行く。一面の雲海を泳ぐように渡る。

 その軌跡、裂いた雲の隙間から光が差し込む。陽光が階梯を作り出す。


 と――――――――――ん。

 とと――――――――――ん。


 ちっぽけな処理系、感覚系を、大きなそれが埋め尽くす。

 意識を覆うほどの巨大な情報が、私の世界を照らす、震わせる。


 どのくらいの時間、それは起こっていたのだろう。

 一瞬のようでもあり、無限に近い超長単位の出来事であったようにも思った。


 気付けば雨は止んでいた。

 荒天の空は第六音の横溢を最後に暴れることをやめ、晴れ間に存在を明け渡していた。


「けほっ」


 せきをすると、ずぶ濡れの身体から水滴が散った。

 冷え切った全身。その芯はしかし、ほんの少しだけ温かい。


 希死念慮は消えていた。


「……助けられた、のかな」


 思わず呟いた。


 エミュレータ内で立ち上げた分割精神が壊れたとしても、上位にある元の精神にまで致命的な影響が波及したりはしない。ただ、それは元の精神から見た時の話であって、分割をこうむっている当の“私”の主観では、発狂とはすなわち自己の死に他ならない。


 ……人類が育った地球には、今でいう思念構成体スピリットのような高次存在がいたらしい、とは聞いたことがあった。低次知性体の思念を糧とし生きる、雄大なる命。

 当時の地球は連盟の観測対象ではなかったため、確たる証拠はない。状況証拠的には否定されてすらいる与太話、ぐらいの位置づけだ。

 なぜって、物理法則の制約に縛られないのであれば、惑星一個という狭すぎる庭に好んで引きこもり、食糧たる信仰思念の減少を看過し、あげく一歩も出ることがないまま消えてしまうだなんて、常識で考えてありえないからだ。どこかの時点で現地知性体に見切りをつけて宇宙に出、他の存在と交流を開始していなければおかしい、というわけである。


 私も大体の人と同じく、そっちの見立てが本当だろうと思っていた。

 伝承に残る高次生命と思われるものは、ご先祖様がたが見た幻覚、認識の誤作動の産物だろうと。


 けれど――。


 …………お――――――――――――ん………………………………。


 すっかり晴れた空を、目を細めながら見上げて、耳を澄ませる。

 精度の低い感覚器と処理系では拾えているのか余韻なのかわからないけれど、感じてはいる。

 遠く、荒天の第六音。実在するはずのない存在、架空の存在渦スピリット


 エミュレータが立ち上げた人工物であるこの世界に、私以外の生命体は存在しない。

 起こす前、ウィルスチェックついでに中身を確認した限りでは、“あれ”のような再現情報は影も形もなかった。


 では幻覚か? 窮地に陥った私が自身を救おうとして生み出した嘘偽りか?

 いや、私はそうは思わない。

 あれは確かな存在モノだと、ダウングレードされた感覚が告げていた。

 あれは存在だと。


 低次の、半端な知性ゆえに不完全さと苦しみを背負って怯え、それでも欲望に従って時に勇気を奮い起こし、しかし放っておけば力尽きることがほとんどであるような、ちっぽけな生命。

 思念を糧とし、それゆえに低次の彼らをよく理解し、共存の中で彼ら言うところの愛着や慈愛に価値を見出した、変わり者の高次知性。


 貴方たちがいたから頑張れた。

 貴方たちがいたから、ここまで来れた。


 そんなしおらしい言葉も発さず、しまいには存在すらも忘れた彼らをしかし良しとして、それらは享楽の中で消滅した。

 小さな星の地表上、天と地、成層圏までの狭く低い世界に、かつて多分、そんな関係があったのだ。


 私が出会ったのは時間を遡行散歩していた過去の個体か、それとも絶えきらず居残っていた存在断片の残響リフレインか。


「……記録、とっとけばよかったかな。売れたかも」


 口にしたらもしかしたら実感が湧くかと思い、言ってみる。

 が、言葉とはまったく正反対である自分の心境がはっきりとしただけだった。


「ありがとうございました」


 あと、ご先祖さまがお世話になりました。


 帰還処理を入力、完了を待つ間に、心ばかりのお礼の気持ちを込めて、雲の散る青空に軽く頭を下げた。


 低次の感覚世界が捉える世界は狭苦しく、飽和していて単調だ。

 しかしだからこそ、聞こえた第六音の余韻は代えがたい。

 それなら、上位から観測機器でそのやり取りを切り抜いて残す、なんていうのは無粋もいいところだろう。


 お――――――――――ん。


「お」


 殊勝(?)な心がけが功を奏したのだろうか。

 世界が閉じる、その間際。それが聞こえたような気がした。


「深いなー。カクカク」


 退屈な現実リアルの荒天も、これからはちょっと見方が変わりそうだ。

 達者でどうぞー、と手を振ると、私はいい気分で、寝こけているはずの本体の下へと巻き戻されていった。

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