無碌

小狸

短編

 言葉が通じない。


 そういう類の人間は、いる。


 実際世を見渡してみれば、「まとも」「普通」「通常」「一般」とは言えない類の人々が、その辺りに当たり前のように転がっている。


 それは令和の今、「多様性」として殊更に強調するまでもなく、当然のことである。


 色々な人がいて、それで良い。


 それこそが、今のり方である。


 それは知っていた。


 しかし。


 いざ自分がそれに該当するとなると。


 なかなかどうして、受け入れがたいものがあった。


 どこか僕は、思っていたのかもしれない。


 なんだかんだといつつ、自分は「まとも」「普通」「通常」「一般」の囲いの中に存在し、そこから不動であるということを。


 確信めいたものを、持っていたのかもしれない。


 小学校高学年くらいの頃に見た、『無差別の通り魔殺人事件』や『隣家の子どもの声がうるさいと思って、隣人全員を虐殺した事件』のニュースを思い出した。


 壮絶な事件は、時々起こる。


 そしてその精神鑑定の結果、責任能力無しと判断される事例がある。


 人を殺しておいて、責任無し?


 それは、だろう。


 一緒にニュースを見ていた母に尋ねたが、言葉を濁された。


 中学校に入って、少しずつ、母の意図と、『責任能力無し』の意味が、分かるようになってきた。


 社会が少しずつ日常に浸蝕し、「そういう」人を目にする機会も増えてきたからだろう。


 言葉が、通じないのだ。


 異常者――と、一くくりりにしてしまえるけれど、より突き詰めれば『言葉が通じない』ということになる。


 人間は言葉という不安定なものに依存して生きている。それは仕方がない。


 しかしそれを放棄してしまえば。


 もう、暴力に訴えるしかない。


 


 生きるか死ぬかの二択しかない世界である。


 そこに言葉は要らない。


 そういう人々とは、自分は生涯縁は無いだろうし、一生生きていても、分かり合えることはないのだろうな、と。


 そんな風に思っていた。


 それがおごりだったと知ったのは、僕が30代になる少し前の話である。


 20代の後半で、仕事の部署移動となった。


 昔の気質の残る、所謂いわゆるブラックな部署であった。


 今でこそ「働き方改革」と称されて色々な企業、職種にメスが入っているけれど、当時はそんなものはなかった。


 こういう時必ず議題に挙がる「周囲に相談しなかったのか」という話があるけれど、僕は両親と友人に、愚痴を零した。


 しかしそれらは、こんな言葉によって破砕された。


 ――若い頃は粉骨砕身して尽くせ。


 ――若いんだから死に物狂いで働け。


 ――死ぬ気でやれ、死なないから。


 ――全身全霊を尽くして努力しろ。


 僕は、頑張るしかなかった。


 頑張って、頑張って、頑張って。


 そして僕は、壊れた。


 会社に、行くことができなくなった。


 両親にも友人にも相談することができなかった。


 彼らは、「頑張る僕」を求めているのだ。


 「頑張れない自分」など、存在価値が無い。


 死のうという思いには、案外すぐに思い至った。


 朝日の昇る早朝、大きい橋の欄干らんかんから身投げをしようとして――見知らぬ自転車の通行人と、他複数の人に、止められた。


 僕は泣いて、喚いて、みっともなかった。


 そして病院に通うことになった。

 

 精神科である。


 最初は、かなり抵抗があった。


 自分が、おかしい?


 自分は、異常?


 おかしいくらいなら、死んだ方がマシだ。


 社会不適合者なんて烙印を押されたくない。


 そう思っていた。


 しかしいくら通院を続けても、仕事を再開することはできなかった。


 もう僕は、どうしようもなく、壊れてしまっていた。


 通院を重ね、貯金も尽きた。


 市の自立支援医療制度を利用することになった。


 生活保護を、受けることになった。


 そして、市のケースワーカ―からの助言もあり、障害者手帳の交付ができるかもしれないということを知った。


 そのことを主治医に話すと、少しだけ逡巡して、主治医は僕の病名を告げた。


 僕は、例の通り魔殺人や、隣人を虐殺した事件の犯人と、同じ病気だった。


 その月に、診断書を貰い、市役所に手帳交付のための手続きをした。


 市役所からの帰り道、丁度下校途中なのだろう、楽しそうに歩く小学生の姿があった。


 楽しそうに。


 普通に。


 いいなあ。


 そう思った。


 小学校中学校の頃、いじめられていたから、学校が楽しいなどと思ったことはなかった。


 毎日のように忘れ物をし、その度に先生に怒られていた。


 友達は、進級進学するごとにリセットされた。


 人の気持ちが、微塵も理解できなかった。


 誰かに莫迦ばかにされることが常に念頭にあり、それを恐れて行動していた。


 何事も全く継続できなかった。


 家でもそうだった。


 亭主関白の父も、教育的に厳しい母も、世を斜に構えて見る弟も、僕には歪んで見えた。だからこそ、「正しい」家族であってほしいと、努力して、修正しようとした。


 しかし何のことはない、


 初めからどこにも、僕には居場所なんてなかった。


 初めからどこにも、僕には正しいものなんてなかった。


 嗚呼。


 そうか。


 自分は、、だったのか。


 幼い頃から目を背けていた己が異常に、変遷に、感情に、それで説明がつくようであった。


 いつも誰かとずれていた。


 いつも何かがずれていた。


 僕はもう、戻れないのだ。


 家に帰って、一人で泣いた。


 どうすれば死ねるかを、考えた。


 今まで散々人に迷惑をかけてきた僕は、生きていてはいけないと思った。


 死なねばならない。


 これ以上、誰かに迷惑をかける前に。


 誰かを傷付ける前に。


 誰かを殺す前に。




(「無碌ろくでなし」――了)

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