天使は奉仕活動中
佐熊カズサ
土曜日、雨、クレープを食べにいく
柔らかい雨が絶え間なく降り続く土曜日。週末の昼過ぎ特有の気だるさと高い湿度が相まって、A号室にはもったりとまどろむような雰囲気が立ち込めていた。
3人がけのソファに全体重を預け、特にあてもなくSNSをぼんやり眺めていると、キッチン兼作業場から低い唸り声が聞こえてきた。何事かとモバイルから顔を上げると、この部屋の主人である少女、百地シュンが大げさなほどにスリッパをパタパタいわせながら出てきた。いらいらしたように後頭部で波打つ黒髪を雑に散らし、早足大股そのままの勢いで私の隣にぼすんと沈み込んだ。
「……何、どうかした?」
「…………」シュンは腕を組み、鋭い灰色の目で虚空を睨んでいる。おかげで空気が萎縮している。
「あー……新しく作るっていってた香水は?」
調香はシュンの趣味のひとつである。……いや、ひとつだったというべきか。半年ほど前からSNSで依頼を募集し、もらったイメージを元に作成した香水を依頼主の元へ届けている。調香はもはや趣味ではなく仕事になっていた。
「………………………………だめだ、もう一度考え直しだ」シュンはクッションをさらに強く抱きしめ、口元を埋めながらいった。「あの匂いは甘すぎた。依頼には『太陽の届かないほど深い森での運命的な出会い』とあった。なら甘い匂いは間違いだ。もっと……草や土のような匂いが……花を減らすか……」
もごもご。声はクッションに吸収されて聞き取れなくなっていった。
灰色の目がぼんやりと現実には無い何かを眺めはじめているようだ。これは彼女にとって良くない兆候だ。さすがに1年近く一緒にいるとわかってくるものだ。
「よし」私はモバイルをソファの上に置いた。「ベイツにクレープでも食べに行こうか」
シュンは訝しむような視線を私に向けた。
「どうして? 私は別に空腹ではない」
「気分転換だよ。それに、あそこのクレープは今ちょっと噂になってるんだよ」再びモバイルを手に取り、SNSを起動してクレープの画像を表示する。「ほら見て」
シュンはクッションから顔を出して差し出した液晶を覗き込む。
「見たところ、普遍的でシンプルなクレープだ。噂になる理由が見当たらない」
「クレープは食べ物だからね。噂になる要素はその味にあるんだよ。すっごく美味しいんだって」
「美味しいかどうかは非常に主観的な感想だ。そんなものを当てにしてこの霧雨の中、わざわざ外出するのか?」
「でも君、甘党でしょ?」
「だったらなんだ?」
「甘いもの好きの君なら、その噂の真偽を確かめたくなるんじゃないかと思ってね」私はいった。「どう? 行く?」
しばらく考え込むように液晶のクレープを見つめた後、シュンはクッションを下ろしてゆるりと立ち上がった。
「アウター取ってくる。外は寒いだろうから」
私も立ち上がり、トートバッグに最低限の荷物を入れた。
* * *
細かい雨が降っているとはいうものの、その雨は非常に弱く、ここからベイツまでの距離はゆっくり歩いたって10分もかからない。シュンが行き渋っていたのは、単に外出が面倒だからだろう。
「ああ、寒い。まったく……冬は最低だ」
そんな彼女が、こうして文句垂れつつも隣を歩いてくれているというのは奇跡に近いことだ。
部屋で着ていたオーバーサイズの黒いフーディの上に大きくてガサガサしたフライトジャケットを羽織り、マフラーをぐるぐる巻きつけたシュンは冬羽のフクロウのようだった。
寒い寒いといいつつ脚はほとんどむき出しで、スニーカーソックスと重たそうなスニーカーくらいしか身についていない。おしゃれは我慢……というわけではなくルームウェアを脱いで外出着を着ようという考えはなかったのだろう。
「もう店は見えてる。それに、冬は寒いものだよ」
「だからだ」シュンは白いため息を吐いた。「冬は最低」
* * *
落ち着いた赤色のドアを押し開け、軽いベルの音を聞きながら店内に入る。見回すと客入りは上々なようで、既に8割程度の席が埋まっていた。
「ブレンドのホットでいい?」私は尋ねた。
シュンは「ああ」とだけいうと座席を確保しに行った。
私はカウンターへ向かい、クレープ2つ、ブレンドコーヒーとカフェオレを注文して札を受け取りシュンの待つ席を探した。
奥の壁際にある2人席を陣取っているシュンを見つけ、私は彼女の向かいに腰掛ける。
「他のテーブルも見てみたが」とシュン。「クレープを注文しているテーブルは多いな。確かに人気はあるようだ」
「あんまり他の人のテーブル見ないでよ」
「わざわざ見たわけではない、視界に入っただけだ」
「ああそう」彼女のことだから事実なのだろうが、言い訳っぽく聞こえてあきれた。
それからしばらくの間、機械開発部が製作中らしい機械鳥について勝手な意見を述べてみるなどくだらない話をして時間を潰していると、
「お待たせしました」
柔らかい声がカットインして雑談は中断された。
顔を上げると、注文したもの全てを器用に配置した小さなトレーを抱えたウェイトレスがにこりと完璧な笑顔を浮かべた。テーブルの上にコーヒー、カフェオレとクレープを並べ「ごゆっくり」といって札を回収し、来た道を戻って行った。
その後ろ姿を、私は無意識のうちに目で追いかけていた。シュンに「彼女がどうかしたか?」といわれるまで気づかなかったのだ。背中の上を歩みに合わせて振り子のように揺れるシルクのような金髪には、視線を吸い込む不思議な力があるようだ。
「いや、今まであんな子ここのウェイトレスにいたかな、と思って」
「さあ、どうだろう」
そう呟くと、シュンはマグカップから立ち上る湯気を吹き飛ばしてコーヒーを一口飲んだ。
シュンの返答には初めから期待していなかった。彼女は人間の顔を覚えるのが苦手なのだ。
若干引っかかるところもあるが、いつまでもウェイトレスを追っていてはカフェオレが冷めてしまう。
店のロゴが入ったマグカップの中身をすする。温かく、ミルクの甘さとコーヒーの苦味が程よく混ざって心地よい。
ちらとシュンの様子を確認すると、既にクレープに手をつけていた。ナイフで生地とトッピングを切り、器用にフォークでくるくる巻いて口に運んでいる。
「どう?」私は感想を求めた。誘った手前気になる。
「ん……おいしい」飲み込んで、一息ついたシュンはいった。「シンプルで基本に忠実」
「確かに」
皿の上を眺める。柔らかく淡い黄色い生地に、まだらの焦げが気まぐれに点在している。ナイフを滑らせると、程よい弾力で押し返してくる。切り取った生地に生クリームを乗せ、シュンのようにきれいに……とはいかないが、どうにか巻いてようやく口に運んだ。
「ん」私は口内の甘くてもちもちした幸せのかたまりを処理した。「結構いけるね」
黙々と食べ続けるシュンの頬も、心なしか緩んでいるような気がする。
再び生地にナイフを当て、次の一口の生成にかかる。
うん、幸せ。
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