第1話 地獄へようこそ

 大学を出た兄がわずかに二日働いただけで心が折れ、母子家庭にも関わらずニートを決め込んだために、私は大学院を諦め就職することにした。


「お前は口を出すな。これは母さんと俺の問題だ」

 ニートの典型とも言えるその兄のセリフを聞いて、こいつはこれから先の未来永劫に母に食らいついて生きていくのだなと感じた。

 人の言葉を、ましてや弟の言葉なんか聞く気が無いことは分かっていたので、その場で自分の進路を決めた。

 できるだけ遠くのできるだけ固い会社に入って、地保を固めて母をまるごと引き抜き連れてゆくのだ。それ以外にこの寄生虫の兄から母を解放する手段はない。

 私は無言実行の人である。

 卒業までの二年の間の奨学金を貯めて卒業後の生活費を貯める。選んだのは東京の大企業だ。給料は安いが電気労連の一角を占める経営が固い会社であることは間違いない。

 内定を貰いさあ東京へと出立するその前日、兄は姉から大金を借りてそれを資本として家を出た。

 弟が家を出る二日前に家を出ることで兄の矜持を見せたつもりなのだろう。だがもう遅い。弟の人生はねじ曲がってしまったのだ。クソ兄貴め。

 思えばこの情けない兄こそが私の人生の不幸の半分を作り出してきている。



 こうして私の社会人として生活は始まった。

 この会社は従業員四万人ほどの大企業であった。


 今なら分かる。ここは人喰い会社であった。毎年四千人入社し、四千人が退社していた。かなり上位の成績を持つ学生が入り、磨り潰されて辞めて行った。


 大勢の卒業生たちが入社試験を受けに集まっていた。


 その中で一番賢かった学生は、人事に無理を言って配備予定の寮を見せて貰った。そしてその場で入社を取りやめた。

 ボロボロの六畳一間に二人が割り当てらる。冷房どころか暖房もなく、洗濯機は漏電し、十部屋につき全部で十アンペアのブレーカー。ドライヤーを使うときはこれから使うぞと廊下に怒鳴る。一度に2つ使えばブレーカーが落ちるからだ。

 残業を終えて帰ってもボイラーの火は落ちている。湯面にまるで泡風呂であるかのように真っ白に垢が浮いている湯舟にいやでも浸かるしかないのだ。

 潔癖症の人間にできるわざではない。

 その代わりに真冬にも関わらず、水で体を洗った。水道の蛇口から出る氷のように冷たい水をざぶりと被る。頭の奥がキーンと鳴り、わずかにだが死を予感する。これを数度続ければ確実に風呂の中で凍死する。

 なにせ部屋の中には音は出るが熱は出ないヒーターが一つあるだけで、冬には寝ている布団の中で凍死しかけて、布団から這い出る有様である。

 お金を出せば深夜でも銭湯には行けたが、それをやると夕食を諦めなくてはならない。夕食と銭湯の両方を味わえるほどの給料は端から貰えていない。

 寮の食堂は最初の三日で新入社員たちは消えた。この会社の食堂はすべて子会社が仕切っていて、社員だからと言って一切補助の類は出ていない。そのためその内容は値段なりに貧相であった。

 肉など欠片も入っていないキャベツの餡かけだけがオカズである。我慢して食べていたが、ある日、その中にゴキブリの足を認めて食べるのを止めた。

 まさにそこは現代のタコ部屋である。文化的な最低限度の生活というレベルを最初から諦めている寮であった。



ー暇話休題ー



 次に賢かった学生は入社してすぐに休暇を取った。本来試用期間中には休暇は取れないのだが、入社式当日に本人の結婚式があるとのことで人事が渋々認めたのだ。結婚式で三日間休みを取った後に、彼は会社に辞表を提出した。

 想像するに、きっと結婚相手の親を説得するのに一流企業への入社という肩書が必要で、こういう利用の仕方をしたのだろうと思う。


 その次に賢かったのは入社して二週間以内に辞めた人々で、これは結構多かった。この期間はまだ研修期間でたいして難しいことはやっていなかったはずだが、早々に見切りをつけたのだろう。


 一番愚かだったのは私だった。この人喰い会社に何年もいてしまったからだ。

 タダ残、サービス残業あり。

 週休二日制ということは週に二日間休日出勤ができるということだよと先輩が笑いながら解説してくれた。

 手取りはわずかに十万円。寮を出たら生活はできない。

 知り合いの人に後で教えてもらった。この会社は自殺率が他の会社の三倍に達するのだと。


 地獄が始まった。

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