第39話 卒業

 今月一番の寒気。さっきニュースのアナウンサーがそう言っていた。目が覚めた時から、やけに寒いと思ったわけだ。三月になってもなお、暖房が欠かせない。

「教科書持ったか? 筆箱は? お弁当は?」

「もう、心配しすぎだよ」

「でも……」

 昨日からずっと俺はこんな調子。なんてたって、今日は未来がかかっている日なんだから。テストの点数次第で、寮の卒業が決まる。俺はもう留年が確定してしまったが、四人にはこの寮を卒業して頑張って欲しい。「俺みたいになるなよ」とか言いたくなったが、余計なお世話だと思ったのでやめておいた。

「まあ、なんかあったらいつでも俺に言ってくれよな」

「そろそろうざいわ」

「え…...」

「テスト中にどうやって蒼真と話せばいいのです?」

「それは……」

 どうやら俺の心配は必要ないみたいだ。なんだかちょっと悲しい。というか、四人よりも俺の方が緊張しているような気がするが、気のせいだろうか。

「そろそろ行こう!」

 苺花の合図でみんながランドセルを背負いだす。玄関まで走って行く姿を見送ろうと、俺は四人を追いかけた。

「本当に大丈夫だろうな?」

 ダメだ。やっぱり四人を放っておくことができない。愛梨がカッターナイフを持ち出した時も、柚葉と桃音のいざこざがあった時も、苺花のクラスの担任が問題を起こしていた時も、全部俺が一緒にいた。そうだ、一年間ずっと四人と一緒だったんだ。だから、こんな大事な日に俺が傍にいられないという時点で不安が募る。大丈夫だよな。俺がいなくても。

「大丈夫!」

「これ……見て……」

 桃音がトレーナーの袖をまくった。腕に付けられているのは、黄色のミサンガ。

「愛梨もなのです!」

 そう言って柚葉と同じようにシャツの袖をまくる。

「私も!」

「あたしも!」

 みんなの腕には、俺がクリスマスにあげたミサンガが付けられていた。四人はそれを自信満々に俺に見せつけてくる。

「なんだ……」

 それなら俺がいなくても大丈夫だな。余計な心配をしすぎた。思わず頬が緩む。四人もいつになく笑顔で俺の方を見つめていた。今までない、満面の笑顔。

「いってらっしゃい!」

 愛梨、桃音、柚葉と次々に玄関を飛び出していった。いつにもまして体を弾ませ、三人並んで通学路を歩く。

「あれ、苺花。行かないのか?」

 しかし、なぜだか苺花だけ、一向に外へ出ようとしなかった。背中に手を回しながら、何やらもじもじとしている。

「蒼真……」

「なんだよ?」

 返事をしても、なかなか口を開こうとしない。いったいどうしたというのだ。三人とももう行っちゃったぞ。

 すると、苺花は少し顔を赤くしながら、ポケットに手を突っ込んだ。取り出したのはリボンのついた透明の包み紙。

「これ、あげる」

「え?」

 苺花から包みを受け取る。そこには油性ペンで書かれたハッピーバレンタインという文字。

「チョコ?」

「うん。き、昨日ケーキ作った時余ったから」

 中には生チョコレートのようなものが入っていた。包みの隙間から、甘い香りが俺の鼻周りを漂う。

「そうか、ありがとな!」

「みんなが帰ってこないうちに食べてね。蒼真の分しか作れなかったから……」

「あ、ああ……」

 そう言い残すと、苺花は顔を赤くしたまま寮を出て行った。遠くの方から「苺花遅―い」という柚葉の声が聞こえる。

 四人が行ったのを確認すると、俺は玄関の扉を閉めた。もう、終わるんだな。一年間の寮生活に思いをはせながら、俺は今苺花から貰ったチョコレートを一口食べた。


   ◆◆◆


 一週間が過ぎた。今日はテストの返却日。ああ、考えただけでドキドキする。当日はテスト特有の謎の自信があったが、こうして時間が経ってしまうと不安が募る。もし名前を書き忘れていたら、回答が一マスずつずれていたら。そんな嫌な考えが浮かび上がっては、首を横にして振り払う。俺が解いたわけでもないのに。

「大丈夫だよな……」

「ただいまー!」

 元気のいい声と一緒に、玄関の扉が開く音が聞こえた。柚葉だ。

 俺は急いで声のした方へと向かう。そこには、満面の笑みの柚葉と、隣で一緒に笑っている桃音の姿。その表情は……。

「無事、八十点!」

「私も…….」

 二人がブイサインをする。柚葉の右手には、九十二点と書かれた解答用紙が。よかった。ひとまず安心だ、俺はほっと胸をなで下す。

「ただいまです! どうしたのです? こんな玄関でそろいもそろって、です」

 愛梨だった。いつの間に帰ってきていたのか、俺たち三人の方を見ながらキョトンと首をかしげている。

「愛梨、テストどうだった?」

「合格した……?」

 二人が愛梨の方に詰め寄る。再び俺の心臓がドクンと波打った。緊張から、冷や汗が走る。

「もちろん――」

 愛梨はランドセルを置き、中からクリアファイルを取り出す、その中には、白い紙が五枚。そこには、大量の赤ペンで書かれた丸が……。

「合格したのですー!!」

「良かった!」

 本当に良かった。思わず涙が出そうになる。ああもうほんと心臓に悪い。こんなにもドキドキしたの、人生で初めてかもしれない。安心からか、油断したら腰が抜けてしまいそうだった。って、いかんいかん。あと一人、苺花が待っているじゃないか。それまで油断はできないぞ。

「やったね。愛梨!」

「私ら……才能の塊……..」

 三人が顔を輝かせながら抱き合っている。今まで見たことのない喜びの笑顔。寮に入った頃は、みんながこんなにも仲良くなるなんて考えもしなかった。もう、俺なんだか涙脆くなっちゃうよ。

「まだ苺花がいるのですよ?」

 ああ、分かっていても嬉しさが溢れ出る。本当に、教師を目指していて良かった。

「大丈夫かな……」

「苺花ならきっと大丈夫よ!」

「そうだな。満点取って帰ってきたりして」

 そんなことを話していた時だった。

「ただいま」

 ゆっくりと玄関の扉が開く。噂をすればなんとやら。苺花がちょうど帰ってきた。

「苺花!」

 俺が名前を呼ぶと、彼女はそっと玄関の扉を閉めた。そしてゆっくりと、俺たちの方に向き直る。その顔は、喜びをかみしめているようにも、不安そうにも見えた。どっちだ。どっちなんだ。

「ごめん」

「え……」

 さっきまで喜びに溢れていた玄関が、一気に静かになった。みんなが驚きと疑いの混じった目で、苺花の方を見つめる。俺も、今の言葉を信じたくなかった。聞き間違いだ。そうに決まっている。

「う、嘘だよな?」

 きっと何かの冗談だ。エイプリールフールは、今日じゃない。じゃあなんだ、ハロウィン! も今日じゃない。

「これ」

 苺花がランドセルから五枚の紙を取り出した。もちろん、今回のテスト用紙だ。

「八十点、九十三点、九十四点、八十五点――」

 今までにない高得点。ほとんど罰の見当たらない解答用紙。

「七十……八点……」

「算数だけ……間違えちゃった……」

 七十八点。七十八点。何度見返しても、その数字は変わらなかった。苺花の表情が沈む。三人も、この現実が嘘であって欲しい。こんなの嘘だと願いながら、じっと苺花の持つ解答用紙を見つめた。

 言葉が出なかった。これはきっと夢だ。そう思いたかった。

「苺花……」

「苺花ちゃん……」

「……苺花……」

 三人が苺花の名前を呼ぶ声が、虚しく玄関に響き渡る。「まあこんなこともあるさ」なんて、今の俺にはそんな言葉、かけられない。

「あはは。ま、寮で暮らした方が楽だし。ママに掃除しろとか言われないし。お菓子も……好きな時に食べられる、し……」

 だんだんと苺花の声が小さくなっていく。最後はもう、泣きそうだった。もうチャンスはないのだろうか。だって、勉強ができない原因だった牧野先生はもういないんだぞ。それなのに、苺花は、もう一年ここで……。

 プルルルル。プルルルル――

「電話です?」

「何よ。こんな時に!」

 寮のリビングからだった。こんな時間に電話がかかってくるなんて、学校からだろうか。

「俺、行ってくるよ」

 リビングへ入り、テーブルのすぐ横。真っ白の固定電話を手に取った。正直なんで今なんだと俺も思ったが、とりあえず受話器に耳を当てる。聞きなれない、女性の声。

「もしもし? はい。はい……分かりました」

 用件だけ聞き、俺はすぐに受話器を置く。そして、四人がいる玄関の方へと向かった。

「何。そんなニヤニヤして」

「不謹……慎……」

 二人の言葉で気づく。ああ、そうか。俺は今笑っているのか。

「蒼真……?」

「どうしたのです?」

 四人が顔を覗き込んでくる。訳の分からないといった顔で。苺花は泣きそうになりながら。

「今、苺花の担任から電話があって――」

「……」

「……」

「……」

「……」

「算数の問題に間違いがあったみたいだ。クラス全員に、二点が加算されるって」

 潤んでいた苺花の瞳が、元に戻る。ポカンと口を開けながら、唖然とする四人。

「卒業おめでとう」

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