第29話 言いなり

 普通教育実習生って生徒たちからモテモテな状態で初日を過ごすのが普通だが、今回はそんな兆しが一向に見えない。授業はまるでお通夜の様な雰囲気。牧野先生は腕を組みながら、生徒たちが問題を解き終わるのを待っている。早く終わらせないと怒られる。内心みんなそう思っているのだろう。誰一人、生き生きとした表情を見せようとしない。え、ここって受験会場じゃないよね?

「どっか分かんない? 智也ともや、手止まってるけど」

「えっ」

「え?」

 俺そんな変なこと言った? なんでそんな驚いた顔をするんだ。

「ううん……ここの問題」

 教科書に書かれた問題が鉛筆で指される。いつの間にか智也はお葬式の参列者の様な暗い表情に戻っていた。

「ああ、ここは三をここに持ってきて……」

「あ、できた!」

 その瞬間、智也の目がぱああっと輝いた。今ので調子が乗ったのか、次々と計算式を書いていく。そしてあっという間に一ページ分の問題を解き終わってしまった。

「おお! すげーじゃん!」

 俺は智也の頭にポンっと手を置いた。「ふふふ」と、まるで飼い主に撫でられた犬みたいに無邪気な笑顔を浮かべる。なんだかこっちまで嬉しくなるな。

 そんな智也を見てか、今まで静かに問題を解いていた生徒たちが、俺も私もと手を上げ始めた。

「一哉先生! わたしもここ分かんない!」

「俺もここの計算が解けません!」

 さっきまでの雰囲気とは打って変わって、教室中がガヤガヤと賑わい始める。気づいたら俺の周りにはノートと鉛筆を持った生徒で溢れていた。

「ここなんだけど、九をどうすればいいのか分かんなくて……」

「僕もそこ苦戦してるー」

「私もその問題まだ解けてない……」

「えーと、そこはだな……こうしてこうして、ここは……」

 なんだか有名人になったような気分だ。さっきとは打って変わって、いきなりたかりだす生徒たちにびっくりしてしまう。アイドルって毎日こんな風にチヤホヤされてるのかな。なんて想像が俺の頭の中を駆け巡る。

「あたしもここ教えてー」

「ちょっと待ってな、一人づつ一人づつ――」

「いい加減静かにしなさい!!」

「……」

「……」

 今まで賑やかだった教室が、牧野先生の一言でさっきまでの静寂へと戻った。生徒たちは俺の周りで体を固まらせ、蝋人形のように瞳の光を失う。一瞬で生徒全員をこんな風にさせるなんて、なんだか刑務所にいるような感覚。みんなから恐れられている女教官。そんなとこ、入った経験ないけど。俺健全な男子高校生だから。

「そんな教師の皮をかぶった馬鹿ものに聞くもんじゃありません!! 自分の力で解けないと意味ないでしょう!!」

「いや、分からないところは教えてもらわないといつまで経っても解けないだろ」

 というか、教師の皮をかぶった馬鹿ものってなんだよ。これでも俺、結構頭いいんだぞ。テストで八十点以下は取ったことないし。

「あなたは黙ってなさい!! 未成年が口答えするな!!」

「っ……」

 そんな言い方ってあるかよ。こいつ本当に教師だよな。今の、録音して校長やら教育委員やらに聞かせてやりたかった。

「何突っ立てるの!! さっさと自分の机に戻りなさい!!」

「は、はい……」

 一人の生徒が返事をすると、それが合図かのようにみんな自分の席へと着き始める。再び始まるお葬式。いや、もしかしたら葬式よりも不穏な雰囲気かもしれない。みんな鉛筆を手に持ち、教科書とにらめっこを始める。全然手が動いていないけど。

「あなたも!! 後ろに立っていてと言ったでしょう!! 次そこから動いたら実習を止めます」

「はぁ!?」

「口答えしない!!」

「わ、分かったって」

「敬語!!」

「です!」

「はぁ、もう!」

 こっちが「もう」だ、全く。毎日こんなところで授業を受けていたら勉強する気が失せるのも分かる。牧野先生は終始ピリピリとした態度で、問題を解き終わる生徒を凝視し続けた。


  ◆◆◆


 その後も授業は散々だった。英語の授業では、スペルが読めないだけで生徒たちが教室の後ろに立たされ、理科の授業では、牧野先生がわざとビーカーの中の水を床にぶちまける。掃除するのはもちろん生徒。俺も手伝おうとしたが、「見学だけのあなたは来ないで」と言われなかなか思うように行動できなかった。また、休み時間も制限されている。俺がスマホを取り出すと、生徒の悪影響になるからと、明日からのスマホ禁止命令が下されてしまった。でも、俺はそれに逆らうことができない。なんてたって、俺の実習評価を付けるのはこの牧野先生。少しでも先生の不満を募らせる行動をすると、高校に言いつけると脅してくる。彼女の目を盗まないと自由に行動ができない。思っていたより、この実習生活は過酷だった。こんな状況でどうパワハラを解決すればいいのか。俺一人では到底無理だ。

 しかも、今の俺には最大の難点がある。それは、カツラをかぶっていること。一応固定はしているけれど、激しい運動をすると取れてしまうらしい。教室でカツラが落っこちてしまったらいろんな意味で大問題だ。やんちゃな生徒に体を引っ張られたりもするから、終始ずっとそわそわしていた。

「一哉先生ばいばーい」

「じゃあな! また明日」

「またね~」

「さようなら~」

 続々と教室を出ていく生徒たち。俺は一人一人に手を振る。ふう。なんとか追い出されずに一日を終えることができた。いや、一日を終えてしまった。牧野先生の撃退方法をつかむことができぬまま。

「蒼真! じゃあね」

「ああ、また寮で」

 そういえば、苺花がいるのを忘れてしまうくらい濃い一日だったなあ。また明日もこんな風に時が過ぎていくのだろうか。

「あ、あのっ。一哉先生……」

「ん? どした? 

「あ、ある人に……伝えて欲しいことがあって……」

 クラスで唯一の黒縁眼鏡、芽衣。今日一日の様子を見る限り、彼女は自分から周りに話しかけようとするような性格ではないように見えたが。そんな彼女が俺に伝えて欲しいこととは何だろう。気になったが、その後体をモジモジさせたまま、口を開こうとしない。かわいらしく垂れたおさげの髪と同様、視線も床へと向いている。もうほとんどの生徒が教室を出て行ってしまった。窓の外から元気な小学生たちの声が聞こえる。そんなに縮こまって、一体どうしたというのか。

「あ、あのね――」

「吉城くん。反省会をしましょう。早く来てください」

「あ、でも……」

「そんな子いいからっ!!」

「ひぇっ……」

 牧野先生の鋭い視線が、芽衣に突き刺さる。そんな子って、お前の生徒だぞ。いくらなんでもその言い方はないだろ。そう言いたかったが、これまでのことを思い返すと、反論したら実習を強制終了されそうな気がしたので何も言えなかった。怒りを抑え込むように拳をぎゅっと握りしめる。芽衣も、先生の迫力に負けて今にも泣きだしそうな顔をしている。

「さっさと来てください! 私をイラつかせないでっ!!」

「は、はい……」

 俺は牧野先生の意見に従うしかなかった。なんてたって一哉の未来もかかっているのだから。

「芽衣、また明日な」

「うん」

 そう小さく頷くと、芽衣は教室を出ていった。俺も急いで先生の後を追う。そういえば、芽衣は何を言いかけたんだろう。

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