第20話「馬術の先生」
私が乗馬服を着込み、裾を持ち上げながら馬小屋に行くと、フレデリック様はすでにそこにいた。馬丁たちと話し込んでいる。
馬丁は馬の扱いに慣れているわけで、彼らが私に乗馬を教えることもできるだろう。何もわざわざフレデリック様が教えてくれずともよいのかもしれないが、当人がそのつもりをしていてくれるらしい。
「よろしくお願いします」
私が声をかけると、フレデリック様は馬丁たちとの話を切り上げた。従者のフィンリーはいない。敷地内で馬に乗るだけだから、供は要らないのだろう。
「ああ、始めようか」
フレデリック様は馬に乗らず、アスターだけを馬小屋から出した。アスターは無邪気に尻尾を揺らしている。
すでに馬具が取りつけられており、私のための横鞍がアスターの背に装着されていた。男性用とは違い、両足を片側に揃えて乗るための鞍だ。
何事も初めは覚束ない。私はフレデリック様の手を借り、アスターの背に乗った。
アスターは調教されているから、私が乗っても驚かない。ただし、私が慣れない目線の高さに戸惑っているのが伝わったのだろう。そわそわしているような気がした。
「大丈夫、僕が手綱をつかんでいるから、急に走り出すことはないよ。もっと体の力を抜いて」
「は、はい」
フレデリック様は私をアスターに乗せたまま、その周辺を歩き回り始めた。私につき合っていて退屈なのではないかと思うけれど、顔はにこやかに見えた。
そう、フレデリック様はいつでも笑っている。
だから、笑っていない時こそ本心が見えるのだろう。何度かそういうこともあった。
微笑んでいない時のフレデリック様は、私には近寄りがたく感じられた。立ち入ってはならない何かがそこにあるようで――。
こうしていると、アスターの背中は私に違う景色を見せてくれた。
私の身長よりも高いところから周囲を見遣ると、それだけで違った場所に思えるくらいだ。
庭先の垣根の向こう側で働く庭丁たちの頭が見えた。向こうの方の木に小さな青っぽい実がなっている。あれが熟したら小鳥たちが突きに来るのだろうか。
その頃にはもっと、木々も紅葉して違う色合いを見せているのかもしれない。
そして――いつもは見上げているフレデリック様を私が見下ろしている。手綱を引いて一歩先を歩く背中を見た。その途端に振り返るから、私がずっとフレデリック様を見つめていたようで気まずい。
私はごまかすようにして言った。
「慣れたら、ナンシーの家まで行けるようになりますか?」
「そうだね、行けると思うよ」
私の気まずさなどサラリと流してフレデリック様は答えた。ただし、とつけ足す。
「それでも一人で行くのは危ないから、行きたくなったら僕に声をかけてほしい」
「え、ええ」
誰かをつけてくれるらしい。本当に、何から何まで悪いけれど。
フレデリック様は穏やかな笑みで私に言う。
「本来、馬に乗るのに鞭なんて要らないんだよ。もしロビンが馬になったとして、鞭打たれて馬上の人間を敬う気持ちなんて湧かないだろう?」
「そうですね。むしろ振り落としたくなります」
正直に答えると、フレデリック様はクスクスと声を立てた。
「僕でも落とすね。だから、互いの信頼関係のために優しく敬意を持って接すること。これがわかるなら馬は応えてくれるさ」
「よく胸に刻んでおきます」
うん、とフレデリック様はうなずいた。それはほっとしたような、優しい仕草だった。
秋の弱い日差しがそっと降り注ぐ中、私はアスターの背に揺られ、フレデリック様と敷地をぐるりと回った。
それは散歩をしているのと変わりなかった。しかも、私だけが馬上でフレデリック様が歩いているのだからおかしなものだ。
それでも、使用人たちはそんな主に頭を下げるだけで奇妙な顔はしなかった。私の方が困惑しただけの話である。
「ロビンは筋がいいな。この分なら近いうちにムーアに出てもいいだろう」
私の馬術の先生たるフレデリック様がお墨つきをくれたのは、乗馬を始めて十日と経たない頃だった。
「ありがとうございます」
なるべく落ち着いて答えたけれど、心は弾んでいた。
「ナンシーの家に行きたいと言っていたね? 僕も同行するから」
フレデリック様が来ると言う。
何をしに行くのだろう。私のつき添いに行くというのはあり得ない。
私が不思議そうに黙ったせいか、フレデリック様は苦笑した。
「牧場主と話したいこともあるから丁度いいかと思ってね」
牧場を経営する人に土地を貸しているのはフレデリック様なのだ。
「そうでしたか。よろしくお願いします」
「うん」
笑顔でいるから、フレデリック様が何を考えているのか、私にはいつもわからない。
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