一人息子

アカリは自分の人生の後半は息子に捧げると決めた。


息子は成長し、徴兵の年齢に達しようとしていた。ソ連では健常な男子は全て軍に入隊しなければいけなかった。期間は少なくとも2年。息子は小さい頃から丈夫な方ではなかったし、学校でさえ不要な波風立てる息子が厳しい軍でうまくやっていけるとは到底思えなかった。そして入隊検査の通知が届いた日、アカリは兄に相談した。兄は事情を酌んで知り合いの医者を紹介してくれた。年齢の割に血圧が高く少し不整脈も出ていたし、幼少期から積み上げた病歴もあったから、健康状態に懸念がある旨少し大袈裟に診断書を書いてもらった。でも皆が口を揃えて、そう易々と徴兵免除にはならない、と言っていたからアカリは心配だった。検査に向かう息子に十字を切り見送ったその足で教会に向かい一心に祈った。


アカリが家に戻ると、息子が既に帰っていて出迎えてくれた。

興奮気味に話してくれたのをかいつまむとこんな具合だ。検査官は息子が渡した診断書に別段気に留める様子もなく、他の人と同様身体検査を待つ列に並ぶよう指示した。その様子に希望を失った息子は避けられないだろう徴兵生活を思って緊張していたのだそうだ。順番が来ると、まず身長体重測定をしてその後が血圧検査だった。「高くなれ、高くなれ、」と呪文の様に唱えながらの一回目の測定値は上が200を超えた。驚いた医師は暫く時間をおいて再度測ったが、結果は殆ど変わらなかった。「君、血圧が高い様だが。」、と言われ、「はい。元々高いんです。さっき、かかりつけのお医者さんからの診断書を提出しました。」と言うと、医師は診断書を見て、その場で不適正のハンコを押したのだと言う。命に関わる重病の可能性もあるから病院で精密検査をする様にと勧められて息子は放免となった。検査場に入ってから、ものの30分で自由の身になった。アカリは息子と手を取り合って喜び、共に感謝の祈りを捧げた。


その午後、兄を招いて嬉しい報告をした。息子の話を聞いて、念のため血圧を測ってもらうと上は140ちょっとだった。「臆病風が運を呼んだな。」、と兄は息子を見てニンマリ笑った。妻を亡くして表情が乏しくなっていた父親もこの時ばかりは声を立てて笑った。それまで嬉しそうにしていた息子は「臆病」と呼ばれて心外そうにちょっと口を歪めた。


息子は高校を首席で卒業し、大学入試の結果も上々だったにも関わらず、あろう事か志望していた学部から不合格通知を受けた。兄のツテで探りを入れると、どうやらその年の文系学科ではユダヤ系の学生がことごとく落とされているらしかった。父親は子供が生まれる前に家族を守るためユダヤ系だった苗字をフランス語風に変えていたけれど、家族ぐるみで親しくしていた友人も、息子の親友もユダヤ系が大多数を占めていた事もあり、あえてルーツを隠す事はしていなかったから、詮索するまでもなく明白だったのだろう。知識人階級ではユダヤ人の割合が高く、それをよく思わない人はいつの時代も一定数いて、入学や就職などでは差別を受ける事は多々あったから、驚く事ではなかった。でも、裏を返せば、ユダヤ人はどこにでもいて、諦めずに働きかければ手を差し伸べてくれる人が必ずいた。皆が奔走してくれたおかげで、補欠枠で再試を決めた理数系の学科が同じ大学で見つかり、物理も数学も得意だった息子は数日で何とか詰め込み滑り込んだ。入学後の学部の変更は比較的簡単で、二年次には希望通りの学部に編入できた。


息子は喜々として勉学に励み、順調に実績を積みながら博士課程を修了した。世界的に名の知れた大学だったから、多くの留学生を受け入れており、息子も優秀な外国人の若者と知り合う機会に恵まれていた。人付き合いがそれほど上手うまくない息子のために、アカリはささやかな食卓を息子の交流場として開放した。息子が面白そうな人に会ったと言うと必ず「じゃぁ今度夕飯に呼びなさい。」と言った。その甲斐あって、息子は学生時代、国内外のいい友人に恵まれた。ソ連を生き抜くのに、いいコネは多すぎる事はなかった。


「そうね、人と集まってワイワイするのは好きよ。でも、最近は自分の友だちより息子の友だちと会ってる方が多いかしら。ほらあの子、放っておくとずっと本に鼻先埋めてるタイプだから人を見る目が無いのよ。その点、私は色んな人間見てきてるでしょ。だから、あの子の「転ばぬ先の杖」になれるってわけ。もちろん、うるさがられない様に上手にね。その辺は心配ないわ。だってあの子の事は私が一番よく分かってるし、あの子も私の事信頼してくれてるから。」

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