大人

母親が倒れてアカリは初めて大人になってしまった事を自覚した。


母が元気な頃は、愛していたし感謝していたし頼りにしていた反面、一昔前の価値観を通してしかアカリを見ない母を、時に窮屈に、時に疎ましく感じる事もあった。近年では母が自分よりも息子の方を愛しているのを実感して、いつも息子を最優先にする姿に嬉しくもどこか嫉妬心に似たモヤモヤを感じていた。


でも母親が病気になって分かったのは、母が昔も今も変わらず自分を守り支えてきてくれていた事だった。アカリは家事の大変さも育児の大変さも知っているつもりでいたけど、実は全く知らなかった。働いているのだから、家計を支えているのだから、と良い気になって甘えていたのだ。そして母は甘えさせてくれていた。日々終わる事のない家事に追われるようになって、働くのが息抜きになった。その頃はエレベーター管理の仕事をしていて、交替で電話番をしていたが、めったに鳴らない電話を前に読みかけの本を広げると心底ホッとした。でも母はどうだろう。18才で結婚してから40数年も不平不満を漏らす事なく、いとも容易たやすげに家族のためだけ尽くしてきたのだ。


母はこれまで幸せだったのだろうか。考えると、笑顔の母ばかりが思い出された。母は自分のために何かを買うという事がなく、服なども季節ごとに洗濯しながら着回せる最低限しか持っていなかった。若い頃から体型が変わらなかったから、何十年も同じ服を直し直し大切に着続けていたけど、なぜか古臭い感じも着古した感じもしなかった。

ある夏の日、母親がおかしそうにアカリに言った。

「ねぇ、アカリ。このワンピースどう思う?」

「えっ?うん、似合ってるよ。でも、それいつも夏に着てるじゃない。どうしたの、急に?」、と返すと、

「いえね、お父さんが今ね、『そのドレス素敵だね。買ったのかい?』だって。」

「えーっ!で、何て言ったの?」

「『あら、ありがとう。ええ、20年ほど前にね。』、って答えたわ。お父さん気まずそうにしてた。意地悪だったかしら。」

そう言って、クスクス笑う母親を見て、キレイだと思った。そう、母は着飾らなくても私なんかよりずっとスマートでキレイで、何よりも父に愛されていた。


母親の病気を境に、アカリの生活は一気に慌ただしくなった。母は徐々に回復したけれど無理はできなかったので、仕事と慣れない家事全般を両立するのは至難の業だった。どんなに頑張っても母の様にパリッとアイロンは掛けられなかったし、水回りを磨き上げられなかった。取り替えられなかった夏の薄地のカーテンの隙間から見える冬の薄曇りの空を見て溜息し、息子のほつれたシャツの袖口に母の繕った跡を見て自分の不甲斐なさに涙が出た。その頃には息子はそれほど手はかからない年齢にはなっていたけれど、世渡りがあまり上手くなく、学校で問題を起こしがちになっていた。アカリも学校は嫌いだったが、先生に挑戦的な態度を取らないだけの分別はあった。でも息子は、抑えきれずに盾突いてすぐに波風を立たせてしまう。小さい頃から好奇心の赴くまま色んな分野の本を読み漁っていた息子は記憶力が良く、知識の量でも質でもその辺の標準的な中学の先生を凌いでいるのは間違いなかった。だから、先生も息子には手を焼いて、よく学校から呼び出された。その都度「好きな事をしていてもいいから、頼むから授業中は静かに座っていて欲しい」、と言われた。その度に息子には色々言って聞かせる様にはしていたが、本音を言えばアカリはただただ誇らしかった。誰もが一目置く息子の抜きんでた才能は、アカリにとっての自慢であり心の支えだった。息子のためなら、大変な日常にも耐えられたし、息子の成功こそが母としての成功の証の様な気がした。そして、これからの自分の人生はこの子に捧げようと、思うようになっていた。母親がしてくれた様に。


息子が高校生の時、母親が再度倒れてとうとう寝たきりになってしまった。アカリは介護のため仕事を辞めざるを得なくなり、昼も夜も無い介護生活にいよいよ精神的に追い詰められ始めた。精神科医だった兄は、奥さんがアカリ達家族と親密に関わるのを嫌っていたから、それまでは時々内緒で訪ねて来る位だったけれど、この時ばかりは心配して、月に二度ほどはアカリを休ませるために泊りがけで実家に来てくれた。そうしてアカリは1年半に渡った介護生活を何とか持ちこたえた。母親が逝った朝は、もちろん悲しかったけれど、長く続いた闘病生活を終えた最期の顔は二日前に洗ってあげた髪が柔らかく縁取り穏やかで、見送りの前に少し紅を差してあげると相変わらずキレイで、父親が涙ながらに「愛しているよ。」と口づけするのを見て、ようやく恩返しができた気がして、温かい涙が頬を伝って心がホロリと弛んだ。


「ママは息子の方が大事になったんだ、ってずっと思ってたの。それを見て私の中の小さなアカリがずっと不貞腐れて不機嫌だったの。でも今考えると、そう私に信じ込ませるのがママの愛情だったのかもしれないな、って。だって、そう思ってたから、あまり引け目を感じず目一杯若い日を楽しめたんだもの。そう言えばね、私のお気に入りの赤いセーター、覚えてる?あれ、この間、クローゼットから出したらあちこち虫に食われててね、編みなおそうと思って解いたの。そしたら、所々引っ掛かって解けないのよ。よく見ると少し毛色の違う毛糸が結んであるじゃない。ママよ。知らない内に繕っててくれたんだわ。それも一カ所や二カ所じゃないのよ。分かる?ママはずっと私のママだったのに、本当私ってバカよね。」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る